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「面白い」
大和の口から零れたその一言は、思っていた以上に重かった。
夜哭きの森の住人達は皆、大和を信頼している。だからこそ、その言葉一つで焚き火の周囲の空気が変わるのが分かった。
先程までは不安の方が大きかった。
迷い霧が突破されかけたこと。
軍が近付いてきたこと。
夜哭きの森がいつまで隠れ家でいられるのか分からなくなったこと。
話題の中心にあったのは危機だった。
だが今は少し違う。
全員の視線が未来へ向き始めている。
「本気で言っておるのか?」
最初に尋ねたのは千代だった。
焚き火越しにこちらを見る赤い瞳は真剣そのものだ。
先程までのような茶化す空気はどこにもない。
「半分くらいはな」
そう答えると、住人達の間から苦笑が漏れた。
自分でも無茶な話だとは思う。
国を作るなど、研究者だった頃の俺なら考えもしなかった。
だが今は違う。
研究所を失い、追われる側になり、半魔達と同じ火を囲んでいる。
そんな立場になったからこそ見えるものもあった。
「正直なところ、俺は人間社会に戻れるとは思ってない」
焚き火を見つめながら言う。
炎は静かに揺れている。
「しゆらもルカもそうだ。シエルなんて論外だろうな」
その言葉にルカが頷く。
「ボク絶対捕まる」
「だろうな」
「嫌だなぁ」
妙に現実味のある会話だった。
しゆらも否定しない。
彼女自身、人間社会で普通に生きられるとは思っていないのだろう。
「だったら」
俺は住人達を見回す。
「ここだけの話じゃないと思うんだ」
誰も口を挟まない。
だから続ける。
「夜哭きの森へ来る途中にも半魔の痕跡はいくつもあった」
軍の資料も思い出す。
研究所で見た報告書も。
「隠れて生きてる奴は他にもいる」
大和が静かに頷く。
どうやらその認識は間違っていないらしい。
「いるな」
短い言葉だった。
だが断言だった。
「夜哭きの森だけじゃない」
その声に周囲の住人達も反応する。
「北にもいる」
「東の山脈にも集落があったな」
「海沿いにも」
次々に名前が挙がる。
その話を聞いて少し驚いた。
思っていたより多い。
夜哭きの森は唯一の避難所ではなかったらしい。
「だが」
そこで一人の老人が口を開いた。
深い皺の刻まれた顔が焚き火に照らされる。
「皆、隠れておる」
その言葉に場が静まる。
老人は続けた。
「人間に見つかれば終わりじゃ」
「だから森へ隠れる」
「山へ隠れる」
「洞窟へ隠れる」
焚き火がぱちりと音を立てた。
「わしが若い頃から何も変わっとらん」
その言葉には長い年月の重みがあった。
誰も反論しない。
反論できないのだろう。
何十年も。
何百年も。
半魔達はそうして生きてきたのかもしれない。
大和も黙ったまま聞いていた。
やがてゆっくり口を開く。
「だから面白い」
全員の視線が集まる。
大和は焚き火の向こうを見つめていた。
「隠れることしか考えなかった」
静かな声だった。
「逃げることしか考えなかった」
夜風が吹く。
黒曜石のような髪が揺れた。
「だが、それ以外の選択肢があってもいい」
その一言で、住人達の表情が変わる。
希望と言うには早い。
だが興味は確実に生まれていた。
千代も珍しく真面目な顔で考え込んでいた。
「魔獣はどうする」
誰かが尋ねる。
「人間はどうする」
別の誰かが言う。
「国など作れば戦になるぞ」
当然の疑問だった。
理想だけでは済まない。
むしろ問題の方が多いだろう。
だが不思議だった。
誰も無理だとは言わない。
笑う者もいない。
「今すぐの話じゃない」
大和が言う。
その言葉に住人達が頷いた。
「十年先かもしれない」
少し間を置く。
「もっと先かもしれない」
炎が揺れる。
「だが考える価値はある」
それは長としての命令ではなかった。
夢物語でもなかった。
未来の話だった。
夜哭きの森がどうなるのか。
半魔達がどう生きるのか。
魔獣達とどう共存していくのか。
そして人間とどう向き合うのか。
答えはまだ誰も持っていない。
それでも。
研究所を失ったあの日には想像もできなかった未来が、今は少しだけ形になり始めていた。
焚き火の火は静かに燃えている。
その向こうで語られるのは、生き延びるための話ではない。
いつか訪れるかもしれない未来の話だった。
それが実現するかどうかは分からない。
十年後かもしれないし、もっと先かもしれない。
あるいは途中で頓挫する可能性だってある。
それでも不思議だった。
先程まで話していた誰もが、まるで本当にそんな未来が来るかのような顔をしていた。
半魔と魔獣が安心して暮らせる場所。
誰かに追われるためではなく、自分達の意思で生きていける場所。
それは夜哭きの森にいる者達にとって、思っていた以上に魅力的な話だったのだろう。
「まずは家じゃな」
千代が呟く。
「国も何も、お主らまだ住む場所すら決まっておらぬ」
その言葉に住人達から笑いが漏れた。
確かにその通りだった。
未来の話をする前に、明日の寝床を確保しなければならない。
「現実的だな」
「儂は現実しか見ておらぬ」
そう言いながらも、どこか機嫌は悪くなさそうだった。
大和も小さく頷く。
「空き家はある」
「なら決まりですね」
しゆらがほっとしたように笑う。
その表情を見ていると、ようやく肩の力が抜けてきたらしい。
研究所が崩壊してから、まともな屋根の下で眠れる保証などなかったのだから無理もない。
「明日案内しよう」
大和がそう言うと、住人達も少しずつ立ち上がり始めた。
話し合いは終わりらしい。
夜もかなり更けている。
子供達も眠っているはずだ。
そろそろ休んだ方がいい。
そう思った時だった。
ふと、違和感を覚える。
森が静かだった。
夜哭きの森は元々静かな場所だ。
だがそれとは違う。
何かが足りない。
そんな感覚だった。
視線を巡らせると、近くで寝転がっていた狼型の魔獣が顔を上げている。
耳が忙しなく動いていた。
警戒しているようにも見える。
だが敵がいる様子ではない。
むしろ何かを探しているようだった。
「どうしたんだ?」
近くの半魔が首を傾げる。
狼型の魔獣は答えない。
当然だ。
だが落ち着かない様子だけは伝わってくる。
その姿を見た別の魔獣まで立ち上がる。
屋根の上にいた鳥型の魔獣も翼を広げて周囲を見回していた。
「珍しいの」
千代が小さく呟いた。
「何がだ」
「少し落ち着かぬ」
その言葉に何人かの住人達も森を見回す。
どうやら俺だけの気のせいではないらしい。
大和も黙ったまま森の奥へ視線を向けていた。
黒い瞳が夜の木々を見つめている。
しばらくそうしていたが、やがて小さく息を吐く。
「今日は早めに休め」
それだけだった。
特に説明はない。
だが長としての勘のようなものが働いたのかもしれない。
住人達も深くは聞かなかった。
夜哭きの森で暮らす者達は、森の変化に敏感なのだろう。
どこか落ち着かない空気を残したまま、人々はそれぞれの家へ戻り始める。
俺達も立ち上がった。
しゆらは眠っているシエルを抱え直し、ルカは大きな欠伸をしている。
子供達もそろそろ起こして運ばなければならないだろう。
そんなことを考えながら歩き出した時だった。
森の奥で霧が揺れた気がした。
本当に一瞬だった。
風が吹いた訳でもない。
誰かが通った訳でもない。
ただ白い霧だけが、まるで呼吸をするようにゆっくり形を変えた。
気のせいかと思った頃には元へ戻っている。
だが何となく胸の奥へ引っ掛かりが残った。
夜哭きの森は静かだった。
それなのに。
何かが少しずつ変わり始めている。
そんな気がしてならなかった。
コメント
1件
うわ、この第23話、すごくいいですね。大和が「国を作る」と言い出したところから一気に未来志向になったのが印象的でした。半魔たちが隠れ続けてきた何百年もの歴史に「別の選択肢」を提示するって、ものすごく重い決断ですよ。それでいて「十年先かもしれない」と現実的な距離感を忘れないところが、大和らしいなと。 それと最後の霧の揺れ。あの「何かが変わり始めている」感、めちゃくちゃ引っ掛かります。次が気になって仕方ないです…!