瓦礫と過保護を積み重ねて形作られた新カードロア砦の人々の、刃と傷に抑圧されていた気分は少しばかり明るく僅かに軽くなったようだった。今すぐに戦前の落ち着きを取り戻し、馬乳酒を飲み明かす日々を取り戻すことはできないが、長らく縛り続けられてきた呪いから解放され、多少は気持ちが晴れた。
しかしユカリはそれでも旧き広大な都人たちの様子が腑に落ちていなかった。『虚ろ刃の偽計』の呪災が消え去ったにしてはどうにも控え目な喜びようだ。今までの街では喜び勇んですぐさま祝賀会が催されることになったが、こちらは変わらぬ日常を送り続ける様子だった。そのような泰然たる土地柄だとでもいうのか、あるいはそれほど忍耐強い人々なのだろうか。
しかし闇や蟲と違って直接具体的な危害を加えてくる呪いだ。喜ばしくないわけがない。
そのような思案によってユカリは集中を欠いていた。
「聞いてるかい? ラミスカ」とジニが鋭く素早い声で娘を叱る。
「聞いてます。それより今はユカリで通っているのでそちらで呼んでください」
あいかわらず三人は広場の端の方にいて、しかし炊き出しにありつけることになった。特に豪勢でもなんでもない。焼き締められた麺麭に薄い羹。想定外の旅人にただで振舞われたのだから十分だ。
「ユカリねえ。あんた、色んな通り名で呼ばれてるよね」と言ってジニはからからと笑う。
「もしかしてまた増えてます?」
ユカリはもう怒る気にもなれなかった。ユカリにとってもはや救済機構という組織は悪を成す集団だ。何と呼ばれようとも敵方の泣き言と受け止めることにしていた。
それはそれとして何と呼ばれているのかは気にはなる。
「そうだね。最近聞いたものだと、盗人の頭目。恥ずべき闖入者。笏跨ぎ。海呼びの魔女。異端の娘」
「異端……?」ユカリはその言葉を聞いてからその意味が頭に染み込むまで少し時間がかかった。「異教じゃなくて異端? 異端って機構の教えを信じる者の内、正統じゃない人ですよね? 元々機構の教えなんて……いや、まったく聞く耳持たなかったわけじゃないけど。道徳説話とかは、まあ、悪くないと思いますけど。でも腹が立ちますね! 人を最たる教敵呼ばわりしておいて! すり寄ってきているような!」
「すり寄ってはいないだろう」さっきまで堅い麺麭を羹に浸すことなく齧りついていたソラマリアが冷静に否む。「救済機構の異端に対する最高刑は死刑だぞ。ミルディオン誤解釈。棄教者狩り。輝きの手写本の偽書疑惑。少なくとも異教は問題視していない、ということになっている。表向きは共存だ。ならば教敵も異端もさして変わらない」
「それはそうですけど、そういう意味ではなくてですね。何だか機構の世界観に組み込まれているような感じがして、嫌です」
「それで組み込まれたことになるのなら最たる教敵に認定されている時点で今更だろう」とソラマリアから真っ当な指摘を受けてユカリは心折れる。
正しい信仰者たちと悪の魔法少女の物語は受け入れ難いが、そもそも受け入れなくとも既に広く流布しているだろう。
「そういえばソラマリアさんって元護女でしたね。救済機構の教えとかも学んだんですよね」と言い切った後にユカリは過ちに気づく。「あ、いや、すみません。気軽に話せる話題じゃないですね」
被害者という言葉とソラマリアはなかなか結び付かないが、その大陸一の戦士は幼い頃にかどわかされたという重く暗い現実がある。
「ああ、気にするな。これが私の人生だ」ソラマリアは悠然と話す。「機構で学んだことがこの旅に役立つならいくらでも話そう。雑談でも構わないぞ。まあ、優等生とは言い難かったが、基本的なことは覚えてるはずだ。剣を覚えるまでは他にすることもなかったしな」
そこへ塩気のない羹を飲み干したジニが身を乗り出して尋ねる。「異端があるということは、教えについて解釈の差で派閥があったりするのかい? 教派だとか宗派だとか。そういうの聞いたことがないんだけど」
「いや、ほぼ無いに等しい」ソラマリアは断言する。「機構の教えは正統、異端以前に時の聖女が絶対だ。過去の聖女との矛盾があっても現代の聖女の教えに上書きされる。では過去の聖女が間違っていたのかというとそれも違う。当時の信徒に理解できる言葉を使っただとか、あるいは信徒の聞き間違いだとか、写し間違いだとか」
「ああ、救済機構ってそういうことしそうですね」とユカリは素直な感想を述べる。「私もよく罪をなすりつけられているのでよく分かります」
「とはいえ」ソラマリアは付け加える。「異端という言葉がある以上、聖女とは違う教義を持つ一派が隠れ潜んではいるのだろうな」
だとすれば相当頑迷な人たちに違いない、とユカリは想像する。わざわざ頑迷な組織の中で別の頑迷な教義を持つ極めて頑迷な人々だ。
「それで発見されれば即死刑ってわけね。そんなんでよくもまああの規模の組織を保てるものだ」
ジニは理外の神秘を目の当たりにしたかのように、まだ納得できない様子で呟いた。
ユカリは異端者を想像しようとしたが、正統のこともよく分からないので上手くいかなかった。陰に潜み、口を噤み、符牒をかわす怪僧たちを思い浮かべるのが限界だ。
「そういえば、義母さん」とユカリは話題の舳先を変える。「口止めの呪いを解いたのは義母さんなんですか?」
「何の話だい? 口止め?」
「魔導書のことが漏れないように義父さんとエイカと産婆さんにかけた呪いです。義母さんが亡くなったから呪いが解けたのかと思ってましたが、義母さんは生きてるので話が変わります。口止めの呪いが解けたから密告されて、焚書官たちがオンギ村に来たんですよ?」
「ああ、あれかい。いや、解いてないよ。そもそもあたしが死んだって解けないし、あたしだってオンギ村に戻らなきゃ解けない」
口止めの呪いが解かれた理由をユカリはあれこれ想像していたが、そもそも解いていないという可能性は考えていなかった。
「じゃあ、どうしたら解ける代物なんですか?」
「そりゃあ、あんたたちが今やってることだよ。第三者による強制的な解呪さ。誰か心当たりはないのかい?」
「ありますね。他に考えられません」
動機も実力も十二分にあるのは、かの救済機構と聖女の狂信者、元首席焚書官チェスタくらいのものだ。しかしだとしたら何故目を付けられたのだろうか、という疑問が浮かぶ。
ユカリは再び話題の流れに棹をさす。
「ところで新しい聖女ってもう決まったんでしょうか? まだひと月と少ししか経ってませんが」
「なんだい? 聖女アルメノンがくたばったってのかい?」とジニがうってかわって興味深げに尋ねる。
さあ、義母に教えを授けようと意気込んだところで、ユカリは再び過ちに気づく。聖女アルメノンの死を語るにはソラマリアの妹ネドマリアの死を語らなくてはならない。
どうして私はこう視野の狭い粗忽者なのだろう、とユカリが落ち込んでいると、ソラマリアが察して先回りしてシグニカで起きた出来事をかいつまんでジニに説明した。
「なるほど。ずいぶん危険なことをしてまわってるんだね」説明を聞いた義母はユカリに呆れた風な視線を送る。「聖女の方はそのうち後任が決まるんだろうさ。そもそも終身制だろう? 過去に殺された例は聞かないし、恐らく今回のことも発表もされないだろうけど、当然想定していただろうね」
ジニの視線に気づく。ユカリの持つ羹の入った器に注がれている。
「あげませんよ」と拒んでユカリは器を飲み干す。
「いや、食べたことのない茸が入ってたと思ってね」
結局合掌茸を食べてしまっている自分にユカリは気づく。が、努めて気にしないようにする。
「そういえばこの土地に、ケドル領に来てからまだ合掌茸を見てませんね。器の中以外で」
ユカリが合掌茸についても知る限りのことをジニに説明した。
「合掌茸の胞子が魔導書に?」ジニは首を捻る。「じゃあ合掌茸が魔導書なんじゃないか。いや、調理できるということは破壊できるということか。つまり胞子だけが魔導書? ともかく合掌茸のある場所で解呪しないといけなかったんじゃないのかい?」
ユカリは厳正な裁判官のように今までの例と比較検討する。
「そうかもしれません。でも、どうかな。初め、ラゴーラ領のメグネイル市では洞窟の中から胞子が飛んで来て、それってつまりいくら距離が離れていても条件を満たした人のところに胞子が飛んでくるんだと思います」
「今回は飛んで来てないじゃないか」とジニは揺るがし難い事実を指摘する。
「だからやっぱり条件を満たしていないんですよ」とユカリは言い返す。「祟り神をやっつけないといけないんだ」
「しかし土地神は暴れるどころか、呪われているどころか、現れてすらいない」とソラマリアは淡々と説明する。
「はなから破綻している仮説ってわけだね」とジニが追い打ちする。「しかし、あたしはまさにその土地神の偶像にして象徴たる巨剣ヒーガスを目当てでケドル領に来たのさ。いかにも巨人と関わりがありそうな代物だろ? まあ、たどり着いてみたら土地はまっさらで、遺跡があったんだとしてもクヴラフワ衝突で踏み潰されてそうな有様だけどさ」
合掌茸だけではない。今までで言えばマルガ洞やリーセル湖に相当する巨剣ヒーガスもお目にかかれていない。
「他に当てもありませんね」ユカリは立ち上がり、爪先から指先まで大きく伸びをする。「押し入らずに済めば良いんですけど」
「困ったときは押し入ってきたんだね」とジニがちくりと刺す。
ユカリは努めて気にしないようにした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!