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文化祭が終わり、振替休日を挟んだ週明けの水曜日。教室は文化祭の喧騒が嘘のように、静けさが戻っていた。黒板に残ったチョークの痕や、廊下に置き去りにされたままの装飾箱が、あの非日常をほんのりと残している。
俺は窓際の席に座って、ぼんやりと校庭を見下ろした。秋の空気が少し冷たくなりはじめた今朝、文化祭前に見た入道雲はもうどこにもなく、代わりに澄んだ青空が一面に広がっていた。
(文化祭の日のこと……夢じゃなかったんだよな――)
文化祭のステージ裏、氷室と目を合わせて握り合った手のひら。そして、お互い照れながら交わした言葉。あのとき見せてくれた氷室のほほ笑みが、胸の中で静かに響き続けている。
「葉月」
名前を呼ばれて振り向くと、隣のクラスの氷室が教室に入ってきたところだった。目が合うだけで、心臓がドキッと跳ねる。
「氷室……おはよう」
「おはよう」
「今日の昼、一緒に……どうだ?」
それだけの会話なのに、妙に嬉しかった。
「うん、いいよ。ここで待ってる」
昼休み、俺たちは教室の端で並んで弁当を広げた。すぐ傍では林田たちが騒ぎながら、スマホゲームの話をしている。
氷室とこうして並んでいると、なんだか緊張してしまって、箸を動かすばかりで言葉が全然出てこない。沈黙が嫌なわけじゃないけど、少しだけくすぐったさを感じた。それは俺だけじゃなく、氷室も微妙な表情で箸を動かしている。
黙々と弁当を食べ続ける俺たちを余所に、黒板の傍で弁当を食べているクラスメイトたちが大きな声をあげた。
「そういえば、あのVチューバーの子、文化祭のあとフォロワーがすごい伸びたらしいな」
「えっ、マジで?」
「ああ、昨日の配信の切り抜きがバズったみたいで」
そんな声が耳に聞こえてきて、俺はふと氷室のほうを見た。彼も同じ話を聞いていたらしく、小さく頷く。
「葉月……君の提案、正解だったな」
「うん。でも氷室が俺のアイデアを信じて、たくさん動いてくれたおかげだよ」
ふたりきりで交わす小さな会話。そのすべてが、今の俺には宝物みたいだった。
放課後、昇降口で靴を履き替えようとしたとき、走ってやって来た氷室が俺の名前を呼んだ。
「葉月、帰り道……一緒にどうだ?」
一瞬で体温が上がるのがわかった。隣にいた林田が「おっ!」とニヤつくのを横目に、俺は慌てて頷いた。
「う、うん! いいよ!」
秋の夕焼けが差し込む帰り道。街路樹の黄色いイチョウは半分くらい道路に落ちていて、落ち葉を踏むたびにかさりと乾いた音が響く。道路脇には、前日の雨の名残で少しだけぬかるんだ場所があった。
「葉月、気をつけろ。そこ滑りやすい」
そう言って氷室が、俺の手を軽く取る。びっくりして顔を上げると、彼は僅かにほほ笑んだ。
「文化祭で言ったこと、嘘じゃない。これからも……こうして葉月の隣にいたいって思ってる」
告げられた氷室の言葉が胸の奥に広がり、じんわりと熱を帯びていく。それは、たしかな幸福の気配だった。
「俺も。氷室と一緒に、同じ景色を見ていたい」
照れくさくて視線を逸らすと、氷室が俺の手をそっと握り直した。その手は少し冷たいのに、不思議と安心する温もりだった。
夕焼けに照らされながら、ふたり並んで歩く帰り道。澄んだ空気が夜の気配を連れてきて、肩を並べた俺たちの影が長く伸びていく。まだ名前のつかない関係だけど、今のこの距離がとても心地よかった。
これが“恋”というものなら、俺はようやくその扉の前に立った気がする。