コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
信仰に篤い追っ手は執念深かったが、圧倒的な恐怖の前にすぐに士気を失って、信仰は失っていないと自分たちに言い聞かせながら、足を止めた。謎の羊皮紙が宿ったシャリューレの剣の魔力をヘルヌスはものの見事に使いこなし、追っ手を無慈悲に追い払ったのだった。
豪雨の礫がジンテラの街を叩き、鋭い風が槍衾の如く石壁に突き立てられ、幾重もの雷が石畳を焼き焦がし、無数の雹が鎧った僧兵たちを薙ぎ倒す。雲一つなかったはずの晴れ渡った青空に突然黒い嵐が湧き立って、荒れ狂い、人々は悲鳴と祈りを叫びたてて逃げ惑う。それらの災いを全て一振りの邪悪な剣が引き起こしたのだった。
そういう訳で異国の侵入者、シャリューレとヘルヌスが救済機構から身を隠すのは容易かった。ひと時も足を止めることなくジンテラ市を脱し、北高地に整えられた尾根街道を通ってさらに北へと向かい、二つの街と三つの関を迂回して、中間地点の街にたどり着く。高地の西側にあり、春の日差しに輝く緑のガミルトンを下界に臨む人工大地の街だ。
追っ手への警戒と体力的限界の折衷に、二人はその街を選んだ。ようやく人間の、温かで馨しくて、手元のよく見える食事にありつけ、シャリューレもヘルヌスも人心地が付く。
何ということもない食堂だが、地下室の粗末な食事に比べれば遥かに上等なご馳走にありつける。街の通りにはみ出すほど食卓と椅子と客が詰め込まれた大衆食堂だ。昼間から酒を飲んでいる客は他にいないが、咎められることもない。人の目は多いが、まさか逃亡者が真昼間から酒を飲んでいるとは誰も思わないだろう。
脂身の多い肉の焼ける、沢山の香辛料の蒸煮物の煮立つ、頭の奥を締め付けるような芳ばしい香りが漂っている。市の牛の値がどうとか言う人の声も、肉匙と肉刀の擦れる音も、厨房で立ち働く皿洗いの水音も、シャリューレの疲れた頭の中に心地よく染み入る。
「シャリューレさん。あれだけの力があれば最早逃げる必要もないのでは? 俺たちだけでシグニカを陥落せしめることだってできますよ」と食堂の一角でヘルヌスが調子に乗る。
シャリューレは疲れの澱んだ青い瞳でヘルヌスの鳥の巣頭を見つめる。
「同じような剣が二振り、あちらにあることをもう忘れたのか?」
目の前の男と会話などせず柑橘垂れの山羊肉に集中したかったが、シャリューレは問い返す。
ヘルヌスははっとして、榛色の目に宿っていた希望を濁らせて呟く。「ああ、そうですね。そうでした。少なくとももう一振りは奪わないと駄目か」
その単純な計算にシャリューレは呆れてものを言えず、根川を遡ってやって来たテロクス産の濃い葡萄酒に舌鼓を打つ。
シャリューレは肘を剣の柄に置いて言う。「それにこの剣一振りだけでも十分な成果だ。本来予定していた魔導書は全て失ってしまったが、咎められることもないだろう」
「え!? じゃあもう帰還するんですか?」とヘルヌスは目を泳がせて言う。
麦酒の入った杯が行き場を失ったように、ヘルヌスの胸の前で上下する。
本人は何も言わないが、大王国に課された任務、魔導書の奪取とは別に、ヘルヌスは何らかの任務を言い渡されている、とシャリューレは推測している。野暮用は済ませたと以前に言っていたが、救済機構の虜囚になってその野暮用が台無しになったのだとすれば、魔導書とは別に何かを取得する任務だったのかもしれない。そしてそれを奪われた。
「そう決めたわけではないが、帰還しても支障ないということだ。むしろ深追いして、この剣すら失えば目も当てられん。そうなれば帰還しないがな」
そう言ったシャリューレの方には大層支障がある。もはやシャリューレにとって魔導書などどうでもよく、今はレモニカの安否しか考えられなかった。しかし政治的に微妙な立場にあるレモニカを本国に連れ戻すことは容易ならざることであるばかりか、そも本人がそれを望んでいない。
呪いを解いた暁には帰国を考えてくれるかもしれない。しかし大王国が長い歳月をかけて調査しても、なおどうにもならなかった頑固な呪いだ。それはシグニカ統一国に一人で潜入し、魔導書を奪取する任務よりも遥かに難しいだろう。
「まあ、そうかもしれませんが」とヘルヌスは蕩けた視線を揺らして、濁した言葉をぶつぶつと吐き出す。「いや、でもせっかくここまで来て、救済機構にせよ、魔法少女の一味にせよ、やられっぱなしでいたくないといいますか」
そもそもこの男はレモニカ殿下がこの地にいらっしゃって、魔法少女と行動を共にしていることを知っているのだろうか、とシャリューレは心の中で疑問に思い、麦酒を呷るヘルヌスを眺める。
少なくともシャリューレの方からは話していない。もしもヘルヌスがそれを知ったなら、恐らく自ら話しはしないだろう、任務に支障を来す可能性を考えて。
「気持ちは分からないでもないが」と分からないままにシャリューレは言う。
上に対して、負けず嫌いで任務を続行したとは説明しづらい。
ヘルヌスは酔った眼を机の上でふらつかせながら突っ伏して言う。「ところでシャリューレさん。護女エーミってのは何者です?」
シャリューレも酔ってはいるが、外見的には素面と変わらない。
「何者かは知らんが、救済機構からの脱出を望んでいた尼僧だ。成り行きで助けられ、成り行きで助けた」
「へえ、護女も尼さんか。そうですか」ヘルヌスは空になった杯を机に置く。「それにそうだ。妹さんがいらっしゃったんですね? 知りませんでした。それは良いんですけど、なんでわざわざそれを聖女に教えたんです? 尋ねられてもいないのに」
尋ねられてもいないのに。その通りだ。確かにその通りだ。シャリューレはヘルヌスと共に僧兵に囲まれていた時のことを思い出す。確かに妹のことを教えた。口が滑ったといえばそれまでだが、そうする必要性は全くなかった。シャリューレ自身にさえ不可解な言動だ。
その時、食堂の外から人々の悲鳴とも唸り声ともつかないざわめきが聞こえた。シャリューレはすぐにでも飛び出したい気持ちをこらえ、少し好奇心のある旅人らしく、外を気にしながら支払いを済ませて食堂を出る。
人々は逃げ惑っているのではなく、何かを見に行こうと西の方へと集まっていた。シャリューレとヘルヌスも人波に乗って街の西端へと向かう。
そこに広がっていた光景に目を疑い。酔った頭を疑う。この街を訪れた時、食事をする前までは緑の草原とそれと見紛う草葺きの村々や町々が点在する景色があったはずだが、今は青海原に覆われて、すぐ目の前で海面が揺らめいている。
空へと突き出すように伸びて、落下防止柵さえなかった危険で奇妙な人工大地の造形は港の波止、桟橋に様変わりしていた、初めからそのために造られたかのように。
もしも低地にレモニカがいたなら、という考えが浮かんで来て冷や汗を流す。
「これが魔導書の力だとすればどう思う?」とシャリューレはヘルヌスに尋ねる。
「どうって。これはとんでもない力ですよ。魔導書に決まってます。姿を消すとか、瘴気を出すとかと比べて桁違いですけど他には考えられませんって」
思いのほかどうでもいい答えが返ってきてシャリューレは少し怯む。意図は分からないが、自国の低地を滅ぼすような国、救済機構に対しての意見は何もないのだろうか。ともかくそれに関しても今はどうでもいい。
「その通りだが問題はそこじゃない」とシャリューレは低地を沈めた禍々しい海を見つめて言う。「そのような魔導書を大王国に敵対するシグニカ統一国が所有しているということだ」
ヘルヌスは何かに気づいた様子で何度も頷く。「そうですね。その通りです。これを見過ごすことはできませんよ、俺は。誇り高き祖国のためにも、敬愛する不滅公のためにも」
「であれば予定を変えざるを得ないな。今少しシグニカに滞在する必要があるだろう」とシャリューレは宣言した。