テラーノベル
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07:12
目覚ましが鳴るより先に、ふと目が覚めた。
堀北カリスは、見慣れた自室の白い天井を見つめて、ゆっくりと三秒数えた。
(……今日は、何が起きるんだろう)
不運な日の朝は、大体、起き上がる前から分かる。嫌な予感で胸の奥がざわつくのだ。
しかし今日は、珍しく心の中が静かだった。
良い日かもしれない。そう思って体を起こした、その瞬間にベッドから転げ落ちた。
「……」
冷たいフローリングに転がったまま、私はもう三秒数えた。
やはり、そういう日だった。私の不運は、油断したところを的確に狙ってくる。
洗面所で顔を洗おうとしたら、蛇口から水が勢いよく出すぎて顔面を直撃した。
着替えようとしたら、タンスの引き出しがレールから外れて足の甲に落ちた。
朝ごはんのトーストを焼いたら、時間を間違えたわけでもないのに真っ黒になった。
「……」
私は皿に乗った真っ黒なトーストを、無言で眺めた。
食べた。
完全に炭の味がした。
そこへ、絶妙なタイミングで玄関のチャイムが鳴った。
足を引きずりながらドアを開けると、そこには幼馴染のChanceが立っていた。
グレーのパーカーに、黒いサングラス。そして、手にはコンビニの白いビニール袋が提げられている。いつものやつだ。
「よっ」
「よっ、じゃないよ。今、何時だと思ってるの」
「7時15分」
「早すぎるよ」
「買い物に行く約束、10時だろ。お前は準備が遅いから、早めに来てやったんだよ」
「準備が遅いのは認めるけど、早すぎるってば」
Chanceは呆れたように息を吐き、私の顔を上から下までじろじろと見た。
「髪、まだ整えてないな」
「これから整えるの」
「あと、顔が妙に濡れてるぞ」
「洗顔で失敗したの」
「……焦げたトーストの匂いがする」
「焦がしたの」
「……」
「……」
沈黙が落ちた。
Chanceが、やれやれと深いため息をついた。
「入るぞ」
「うん」
07:20
私が麦茶を淹れている間に、Chanceは買ってきたビニール袋から、コンビニのおにぎりを二つ取り出してテーブルに置いた。
「食え。炭を食った口直しに」
「……ありがとう」
「習慣だ。お前の家に来る時は、いつも何か買ってくることになってるからな」
「毎回、ごめん……」
「幼馴染なんだから当然だろ」
当然のように言われ、私はおにぎりを受け取った。
パッケージを見ると『鮭』だった。私が一番好きな具だ。
「Chanceはなに?」
「梅」
「いつも梅だね」
「梅が一番、運が良さそうだからな」
「根拠あるの?」
「ない」
二人で、向かい合っておにぎりを食べた。
テレビのついていないキッチンは静かだった。カリスがふと窓の外を見ると、分厚い曇り空が広がっていた。
「今日、雨降りそうだね」
「降らない」
「なんで分かるの。降水確率70パーセントだよ」
「俺の勘だ。傘はいらない」
「信用できないから持っていくよ」
「俺の『運』を信じろよ」
「Chanceの運は認めてるけどさ、私の『不運』も相当だから」
「……まあ、一本だけ持っとけ。お守り代わりにな」
結局、カリスの主張が通り、一本だけ折り畳み傘をカバンに入れていくことになった。
07:45
Chanceが部屋のソファに座り、退屈そうにコインを弄んでいる間、私は姿見の前で自分の髪と格闘していた。
いつものハーフアップにしようと、後ろ手でピンを留めようとするのだが、どうにも上手くいかない。バチンッ、という音と共に、ヘアピンが三本、明後日の方向へ飛んでいった。
そのうちの一本は、見事な放物線を描いてChanceの膝の上に落ちた。
彼が、拾ったピンを無言で差し出してきた。
「ありがとう」
「……いつも聞くが。それ、自分でやる必要あるか」
「やりたいの」
「ヘアピンが毎回、ミサイルみたいに飛んでいくのにか」
「練習して、上手くなりたいの」
「……」
Chanceがソファから立ち上がり、私の背後へと歩いてきた。
「貸せ」
「えっ」
「手が後ろに届かないんだろ。見てて非効率だ」
「……子供の頃みたいだね」
幼稚園の頃から、私の不器用な靴紐の結び目や、絡まった髪を、Chanceが直してきてくれた。
昔から、この人の手は妙に几帳面で器用だった。
鏡越しに見ると、Chanceが真剣な顔で私の髪をまとめ、ヘアピンを留めていた。家の中だというのに外さないサングラスの奥で、妙に丁寧な手つきが動いている。
少しだけ、彼の体温が背中越しに伝わってきて、カリスは無意識に肩をすくめた。
「……終わりだ」
「ありがとう」
「まあまあ整っただろ」
「まあまあで十分だよ」
Chanceがソファに戻り、何事もなかったかのように、またコインを弄び始めた。
私は鏡を見た。
彼の言う通り、まあまあ綺麗に整っていた。
10:00
二人で自転車を並べて、近所のスーパーまで来た。
駐輪場で私が自転車のスタンドを踏み込んだ瞬間、バキッ、と嫌な音がしてスタンドが根元から折れた。
「……」
「持ってくる。これ」
私が絶望するより早く、Chanceが自分の自転車のスタンドを立て、そこに私の自転車を器用に寄りかからせた。
「ごめん」
「慣れた」
本当に、心底慣れきった顔だった。
スーパーの入り口。私が前に立つと、なぜか自動ドアが開かなかった。
「……」
「センサーの高さが合ってないんじゃないか」
「違うよ。私だけ、こういうことがよく起きるの」
「どけ。俺が立つ」
Chanceが一歩前に出ると、自動ドアはウィーンとスムーズに開いた。
「ありがとう」
「慣れた」
また、慣れた顔だった。
カゴを持ち、野菜コーナーへ向かう。
「今日、昼は何を作るんだ?」
「カレーにしようかなって」
「二人分か」
「食べてくでしょ?」
「……まあ、な」
じゃがいもを選ぶ。
私が手を伸ばした瞬間、山積みにされていたじゃがいもが、雪崩のように崩れ落ちてきた。
「わっ!」
Chanceがとっさにカゴを差し出し、見事な反射神経で受け止めた。カゴの中には、じゃがいもがちょうど三個入っていた。
「……ちょうど三個いる予定だったから、良かった」
「お前、それで『良かった』にするなよ」
ガシャガシャという音を聞きつけ、店員さんが慌てて駆けつけてきた。
「大丈夫ですか!?」
「すみません、私の不注意で……」
「いえいえ! こちらの積み方も問題でしたので……」
結局、怪我がなかったことと店側の不手際ということで、お詫びにじゃがいもを一個余分にもらってしまった。
「不運が、得に変わったね」
「だから喜ぶな」
肉コーナー。
特売の札を見比べていると、Chanceが隣でチャキッとコインを取り出した。
「表が出たら牛肉、裏が出たら豚肉だ」
「そういう決め方なの?」
「直感と確率だ。迷った時は運に任せる」
「カレーに合うかどうかで決めた方が良くない?」
「どっちでも合うだろ」
「それはそうだけど」
彼が親指でコインを弾いた。
手の甲に落ちたそれは、表だった。
「牛肉だ」
「サイコロよりはマシ、かな」
「俺のコインは信用できる。俺の運の良さは知ってるだろ」
「Chanceの運は認めてるけどさ」
「でも持ってくるんだろ、傘」
「持ってきたよ」
私のトートバッグからは、折り畳み傘の柄がひょっこりと覗いていた。
スパイスコーナー。
私が棚の上段にあるカレールーを取ろうとして背伸びをした拍子に、隣に置いてあったガラス瓶の調味料を落としてしまった。
ガチャン、と割れる音を覚悟したが、瓶は私の足の甲に当たってバウンドし、割れずに床に転がった。
「痛っ……でも、今日は割れなかった!」
「割れなかったことを喜ぶな」
Chanceが落ちた瓶を拾い上げ、棚に戻した。
「……昔さ」
「うん」
「お前が近所のスーパーで瓶を三本連続で割って、親御さんが店長に謝り倒してたの覚えてるか」
「覚えてるよ。穴があったら入りたかったし、そのまま消えたかった……」
「俺も一緒にいたな、あの時」
「Chance、私の横で笑ってたよね」
「笑ってない」
「絶対に笑ってた」
「……お前が半泣きでモップがけしてるのが、面白かったから」
「人が謝ってる横で笑わないでよ」
言い合いながら、二人は少しだけ笑った。
スーパーのBGMに混じって、彼との静かな時間が流れていく。
11:30
買い物が終わり、スーパーに併設されたフードコートで休憩することにした。
私がジュースの乗ったトレーを持ってテーブルへ向かっていた時、床の濡れていた部分で派手に足を滑らせた。
トレーが大きく傾く。
しかし、Chanceがとっさに横からトレーの端を掴み、事なきを得た。
「……ありがとう」
「慣れた」
「今日だけで三回目だよ、それ言うの」
「三回あれば、十分慣れる」
窓際の席に着いた。
ふと外を見ると、分厚い雲から、ポツポツと雨が降り始めていた。
「……降ってきたね」
「……」
Chanceは無言で、自分のアイスコーヒーを一口飲んだ。
「傘、持ってきて正解だったな」
「私の勝ちだね」
「俺の予測が外れただけだ」
「私の『不運』の勝ち」
「……まあ、そういうことにしておけ」
私はメロンソーダをストローで飲みながら、窓ガラスを伝う雨粒をぼんやりと眺めた。
こういう雨の日が、昔から好きだった。
理由はよく分からないけれど、気づけば、雨の日はいつも隣に誰かがいる――そんな記憶が多かったからかもしれない。
「Chance」
「なんだ」
「幼稚園の頃から、ずっとこうやってくれてるよね」
「こういうこと、って」
「落としたもの拾ってくれたり、直してくれたり、支えてくれたり」
「……お前が、異常なほど転びすぎるからだ」
「そうなんだけど」
私は、冷たいプラスチックのコップを両手で包み込んだ。
「ずっと当たり前だと思ってたから、気付くの遅かったんだけど」
「何に」
「……ありがたいなって。いつも、そばにいてくれてるのが」
Chanceが、コーヒーカップをテーブルに置いた。
カチャッ、という小さな音が鳴る。
サングラス越しに、彼がこちらを見ているのが分かった。
「……今更か」
「今更だよ」
「遅い」
「ごめん」
「謝るな」
窓の外の雨が、少しだけ強くなった。
Chanceがポケットからあの銀色のコインを取り出して、一度高く弾いた。
彼の手の甲ではなく、テーブルの上に置かれていた私の手の上に、ポトリと落ちた。
「……表、だね」
「ああ」
「何の賭け?」
「……独り言だ」
私は手の上のコインを、少しの間だけ見つめた。
それから、そっとChanceの手のひらの上へ返した。
「……返すのか」
「借り物だし」
「やる、って言ったら?」
「……じゃあ、もらう」
Chanceが、少しだけ笑った。
声には出さない、口元だけの小さな、けれどとても優しい笑いだった。
「……帰り、傘に入るか。一本しかないんだろ」
「Chanceの分も持ってくれば良かったね」
「俺はいらないと思ってたから、持ってこなかった。自業自得だ」
「じゃあ、一緒に入ろっか」
「お前の折り畳みじゃ、狭いぞ」
「Chanceが持てばいいじゃない。背、高いんだし」
「……それもそうか」
12:00
小さな折り畳み傘を一本差して、二人で並んで歩いた。
Chanceが傘を持つと、高さは確かにちょうど良かったが、肩がぶつかりそうなくらい距離が近かった。
その時、アスファルトの窪みにできた水たまりを思いきり踏み抜いてしまった。
「あっ」
「よく踏むな、お前」
「見えてなかったの」
「俺には見えてたぞ」
「なんで避けなかったの! 言ってくれれば……」
「……踏んだ後に言っても遅い、と思って」
「遅いよ。意地悪しないで」
不満げに言う私を見て、Chanceが喉の奥で笑った。
雨音が、二人の間を優しく満たしている。
私は傘の内側から、隣を歩くChanceの横顔を盗み見た。
幼稚園の頃から知っている顔。
サングラスをかけていなかった頃の、泣き虫だった頃の彼も知っている。
いつからこんな風にサングラスをかけるようになったのか、わざわざ聞いたことはなかったけれど。
「Chance」
「なんだ」
「今日、買い物に来てくれて、ありがとう」
「習慣だっつってんだろ」
「習慣でも、ありがとう」
Chanceが、少しだけ歩く速度を落とした。
雨音に紛れるような、小さな声が降ってくる。
「……また、来る」
「来てね」
「カレー、うまく作れよ」
「頑張るよ。また焦がすかもしれないけど」
「焦がしたら、俺が作る」
「Chanceが作れるの?」
「少なくとも、お前の作る炭よりは美味い」
「それは確かに」
やがて、私の家の前に着いた。
玄関先の軒下で、Chanceが傘をたたんで私に渡した。
「これ、返す」
「ありがとう。じゃあ、カレーができたら……」
「じゃあな」
言うが早いか、彼は踵を返した。
雨が降りしきる中、パーカーのフードも被らず、傘なしで歩き始めようとする。
「ちょっと、Chance、傘!」
「いらない」
「濡れるよ!」
「俺の家、ここから近いから平気だ」
「近くないよ! 歩いて十五分はかかるよ!」
「俺の運が良ければ、十分で着く」
「雨で風邪ひいたら、運も何もないでしょ!」
私が声を張り上げると、Chanceの足が止まった。
彼は振り返らないまま、雨の中で少しだけ間を置いて――。
「……じゃあ、途中まで送ってこい」
と、ひどくぶっきらぼうに言った。
「……分かった。もう」
呆れながらも傘を開き、急いで彼の元へ駆け寄った。
二人で、また小さな傘に入った。
さっきと同じくらい近い距離で、さっきと同じように、肩を並べて歩いた。
十五分後。
Chanceの家の前で、彼に傘を差し出した。
「これ、置いていくね」
「おい。うちにお前の傘を置いて帰るな。帰りに濡れるだろ」
「空明るくなってきたから、もうすぐ止むよ。次うちに来る時、雨降ってたら使って」
Chanceはしばらく、差し出された傘と私の顔を交互に見て、無言で立ち尽くしていた。
やがて、観念したようにため息をつき、傘を受け取った。
「……次も、買い物に付き合えよ」
「いつでも」
「来週な」
「分かった」
私が手を振って帰り道を歩き始めると、嘘のように雨がピタリと止んだ。
振り返ると、分厚い雲の切れ間から、眩しいくらいの日差しがアスファルトを照らし始めていた。
私はそれを見て、少しだけ笑った。
彼の『運』は、本当に信用できるらしい。
今日、無理を言って傘を持ってきたのは、きっと大正解だったのだ。
――しかし。
ここからが、私の『不運』の本領発揮だった。
通い慣れたはずの帰り道。なぜか今日に限って、歩道橋が工事中で通れず、大幅な迂回を余儀なくされた。
おまけに、横断歩道の信号には見事にすべて赤で引っかかり、大きな水たまりを避けてノロノロと歩いているうちに、普段なら十五分で着く道のりに三十分近くもかかってしまったのだ。
「はぁ……疲れたぁ……」
すっかりクタクタになって、ようやく自分の家へと辿り着いた。
重い足取りで濡れた靴を脱ぎ、リビングのドアを開けると。
「……遅えよ」
そこには、なぜかさっき送り届けたはずのChanceが、我が物顔でソファに寝転がってコインを弄んでいた。
「ええええっ!? なんで!? さっきChanceの家の前で別れたよね!?」
「俺の運が良ければ、十分で着くって言っただろ」
「いや、これは運の問題じゃなくない!?」
「お前が工事の迂回路でマゴマゴしてる間に、裏道のフェンス飛び越えてショートカットしてきたんだよ」
「……私のこと見てたの?」
「……お前の不運が心配で、こっそり後つけて先回りしたなんて、口が裂けても言わねえよ」
「今言った!」
平然と言い放つ彼の手には、私が渡した『合鍵』がチャキッと光っていた。
「カレー、食っていく約束だろ。玉ねぎ切るの見ててやるから、早く作れ」
結局、このギャンブラーのペースには一生敵わないのだ。
私はため息をつきながらも、どこか嬉しい気持ちでキッチンへ向かい、エプロンを手に取ったのだった。
記録指定:サバイバーインタビューログ vol.Extra
項目 内容
対象者 堀北 カリス・Chance
インタビュアー 匿名の調査員(※どこから来たのか不明)
記録時期 買い物から帰宅後・カレーを作り始める前
※本インタビュアーは本来、別の世界線に所属する調査員である。
なぜ現代日本に生きる彼らのもとへやって来れたのか、その経緯は一切不明だが、気付いたらカリスの家のリビングに立っていた。
カリスは「私の不運のせいかもしれない」と言った。
Chanceは「少なくとも俺のせいじゃない」と言った。
インタビュアーは「私にとっては好都合です」と言った。
誰の認識も噛み合っていない、奇妙な出会いだった。
◆ 突然の来訪
買い物を終え、カリスがキッチンでエプロンをつけようとした瞬間だった。
リビングのど真ん中に、見知らぬ人物が立っていた。
フードを目深にかぶり、手にはなぜか使い込まれたメモ帳とペンを握りしめている。そして、妙に鼻息が荒い。
「……」
「……」
カリスは、エプロンの紐を後ろで結ぼうとした姿勢のまま固まった。
不審者だろうか。しかし、強盗にしてはあまりにも佇まいが堂々としすぎている。
「……あの、どちら様ですか?」
「インタビュアーです」
即答だった。
カリスはゆっくりと瞬きをした。
「インタビュアー……ですか」
「ええ」
「……家の中に、いますよね」
「いますね」
「玄関の鍵は?」
「開いていました」
「ちゃんと閉めたはずなんですけど……」
「不思議なこともあるものですね」
会話のキャッチボールが成立しているようで、根本的な部分が全く成立していない。
カリスはエプロンの紐から手を放し、ソファの方を振り返った。
「ねえ、Chance」
ソファに寝転がって銀色のコインを弄んでいたChanceが、身を起こしてメモ帳を持った謎の人物を見た。
「……知らない奴だな」
「知らない人が、うちのリビングにいるんだけど」
「俺のせいじゃないぞ」
「分かってる」
二人がヒソヒソと話していると、インタビュアーがおもむろにメモ帳を開いた。
「少しだけ、お時間をいただけますか。お二人に、いくつかお聞きしたいことがありまして」
「……なんで?」
「私が調査員だからです」
「どこの」
「どこでもないところの」
Chanceが、サングラスの奥でインタビュアーの顔を胡乱げに見つめた。
「……なんか、聞いたことあるような答え方だな。デジャブか?」
「気のせいです」
「……まあいい。カレーが出来るまでの間なら、相手してやるよ」
「ちょっとChance、もう少し警戒してよ」
カリスが慌てて彼の袖を引く。
「不審者ってツラじゃねえから別にいいだろ。手ぶらだし」
「メモ帳を持って堂々と家に上がり込んでる時点で不審者だよ」
「インタビュアーらしいから、仕事熱心なんだろ」
「そういう問題じゃないと思うんだけど……」
カリスは深いため息をついた。自分の不運が、ついに次元のバグまで引き起こしてしまったのかもしれないと諦めることにした。
「……短時間でお願いしますね」
「もちろんです」
◆ インタビュー開始
三人で、リビングのソファを囲むように座った。
カリスとChanceが並んでソファに座り、インタビュアーが向かいの椅子に腰掛ける。
二人が座った距離は、自然と肩が触れ合うほど近かった。インタビュアーが内心「やはりこの世界線でもそうか、最高だ」と叫んだことは、顔には出なかった。出なかったが、メモ帳に恐ろしい筆圧で何かを書き込んだ。
Q. 改めまして、本日はお時間をいただきありがとうございます。まず確認なのですが、お二人は幼馴染とのことで。
カリス:「はい。幼稚園の頃からです」
Chance:「……ああ」
Q. 幼稚園からということは、何年の付き合いになりますか。
カリス:「十二、三年くらいですかね?」
Chance:「数えたことねえな」
カリス:「私も正確には覚えてないんですが」
Q. 長いですね。
カリス:「ええ、長いですね」
Chance:「……まあな」
(インタビュアー、呼吸を荒げながらメモを取る)
Q. 今日は、一緒にお買い物に行かれたそうですね。
カリス:「行きましたけど……なんでご存知なんですか?」
Q. インタビュアーなので。
カリス:「……さっきも似たような答えを聞いた気がするんですけど」
Chance:「俺も似たような答えを、何故か知ってる気がする」
Q. 気のせいです。
Chance:「……本当か?」
Q. 気のせいです。では、最初の質問です。
◆ 本題
Q. 「幼馴染として、相手の一番古い記憶を教えてください」
カリス:「一番古い記憶……幼稚園の頃、私が砂場で派手に転んで泥だらけになった時に、Chanceに笑われたことですかね」
Chance:「笑ってねえよ」
カリス:「笑ってたよ。指差して」
Chance:「……お前が泥だんごみたいな顔になってて、面白かっただけだ」
カリス:「それを笑ってたって言うんだよ」
Q. Chanceさんは。
Chance:「……幼稚園の頃。こいつが水彩絵の具を全部混ぜて、得体の知れない茶色いヘドロみたいなものを作って、俺にドヤ顔で見せてきたやつ」
カリス:「えっ、それが一番古い記憶なの!?」
Chance:「鮮明だからな」
カリス:「もっと別の記憶があるでしょ! なんでそんな恥ずかしいことずっと覚えてるの」
Chance:「記憶力がいいために俺が怒られるのか?」
カリス:「……なんで、そんな細かいことを……」
Chance:「さあな」
(インタビュアーのペンが紙を突き破る勢いで走る)(鼻息が既に限界に近い)
Q. 次の質問です。「相手が幼馴染で良かったと思う瞬間を教えてください」
カリス:「……毎日、ですね」
Q. 毎日?
カリス:「私、昔からすごく不運なので、色んなトラブルが起きるんですけど。Chanceがそばにいてくれると、なんか……被害が最小限になるっていうか、なんとかなるんです」
Q. それは、Chanceさんの『強運』のおかげですか。
カリス:「運もあると思いますけど、それだけじゃなくて。私がドジを踏んでも、Chanceが毎回当たり前みたいにフォローしてくれるので」
Q. 素晴らしい。Chanceさんはどうですか。
Chance:「……」
(少し、長い間があった)
Chance:「こいつが転ぶタイミングが、なんとなく分かるようになってきたこと」
カリス:「え?」
Chance:「長く一緒にいると、次こいつの身に何が起きるか、だいたい読める。だから事前に対処できる。……それが、まあ……便利だ」
カリス:「便利、って……」
Q. 便利、以外に言葉はありませんか。
Chance:「……ない」
Q. 本当に?
Chance:「……ない」
(Chanceが帽子のつばを深く引き下げる)(サングラスの下の耳が、少しだけ赤い)(インタビュアーが「やっぱりそうか、素直じゃない男だ」と内心でガッツポーズをした)
Q. 次の質問です。「今日の買い物で、一番印象に残っていることを教えてください」
Noob:「帰り道、相合傘で歩いてた時です!!」
(全員が、勢いよく振り返った。そこには、いつの間にか黄色い髪の少年が立っていた)
カリス:「……Noob君? いつからそこに……」
Noob:「さっきから!! インタビュアーさんを走って追いかけてきました!!」
Chance:「お前もかよ。どうなってんだ今日は」
Noob:「世界線を越えるのが楽しくて!! あと、こっちの世界のカリスさんも可愛いです!!」
インタビュアー:「……あなた、私より後から来ましたよね。どうやって入ってきたんですか」
Noob:「玄関の鍵が開いてました!!」
カリス:「だから、ちゃんと閉めたはずなんですけど……」
Chance:「……またお前の不運か」
カリス:「……みたいです」
(Noobが、当たり前のようにソファの端にちょこんと座った)(インタビュアーが、Noobを見て、カリスを見て、Chanceを見た)(ひどく複雑な顔をした後、プロとして業務を続行することにした)
Q. ……気を取り直して。今日の買い物で、一番印象に残っていることを。
カリス:「帰り道に、雨がピタッと止んで日が差した時ですね。やっぱりChanceの運はすごいなと思って」
Q. Chanceさんは。
Chance:「……こいつの傘を、俺の家に置いていかれたことだ」
カリス:「置いていったんじゃなくて! 次に来た時に雨が降ってたら困るから、貸しておいたの!」
Chance:「……つまり、俺が次もここに来る前提で置いていったのか」
カリス:「だって、毎週来るじゃない」
Chance:「……まあな」
Q. その傘は、今どこに?
Chance:「……俺の家の傘立て」
Q. 今日、持ってこなかったんですね。
Chance:「……次、ここに来た時に雨が降ってたら使えって、こいつが言ったからな。なら、そのまま置いておくのが合理的だろ」
Q. なるほど。次にカリスさんがあなたの家に来るための口実として、大切に保管しているわけですね。
Chance:「……テメェ、一回表出ろ」
カリス:「口実……」
Q. カリスさん、今どんなお気持ちですか。
カリス:「……なんか、すごく照れてます」
Noob:「(ぐっ……! 最高です……!)」
インタビュアー:「Noobさん、静かに」
Noob:「(はい、息を止めます!!)」
Q. 次の質問です。「相手に、言えていないことはありますか」
(リビングに、静寂が落ちた)
Q. カリスさんからお願いします。
カリス:「……あります」
Q. 差し支えなければ。
カリス:「ヒントなら、言えます」
Q. どうぞ。
カリス:「……今日、雨の中を二人で歩きながら。幼稚園の頃からずっと、この人はこういう風に私の横を歩いてくれてたんだなって思って」
Q. はい。
カリス:「『感謝』だけじゃないかもしれないって……最近、思い始めてます」
(沈黙)
(Chanceの指先で回っていたコインが、ピタリと止まった)
Q. Chanceさんは、どうですか。
Chance:「……」
(雨音だけが聞こえるような、長い間があった)
Chance:「……俺から毎週お前の家に来てるのに、まだ『単なる習慣』だと思ってるか?」
カリス:「え?」
Chance:「お前はいつも『来てくれてありがとう』って言うが、俺から勝手に来てるんだ。呼ばれてもいないのにな」
カリス:「……でも、来てほしいから、合鍵を渡してるんだけど」
Chance:「じゃあ、その合鍵を渡してる本当の理由を、ちゃんと考えたことあるか」
カリス:「……」
Chance:「俺は、考えたことがある」
(静寂)
(Noobが、口を両手で塞いで震えている)
Q. 結論は出ましたか。その、考えた先に。
Chance:「……」
(彼が、サングラスの位置を少しだけ直した)
Chance:「出た。……だが、それを今、ここで言うかどうかは別の話だ」
カリス:「……言ってよ」
Chance:「今は言わねえ」
カリス:「なんで?」
Chance:「タイミングじゃねえからだ」
カリス:「タイミングって……」
Chance:「……お前がカレーを作り終えたら、考えてやる」
カリス:「カレーが条件なの?」
Chance:「腹が減ってると調子が狂う。食ってから話す方が、落ち着くだろ」
(カリスが、少しだけ嬉しそうに笑った)
カリス:「……分かった」
(インタビュアーのメモ帳のページが一枚、そっと破れた)(興奮のあまり、ペンを握る手に力が入りすぎたのだ)
Q. ……では、最後の質問です。「お互いのことを、一言で表すとなんですか」
カリス:「……『ずっと、そばにいてくれる人』、です」
Q. Chanceさんは。
Chance:「……」
(彼は少しだけ天井を見て、考えた)
Chance:「……『いないと困る奴』」
(静寂)
カリス:「……ねえ、それ、褒めてる?」
Chance:「褒めてる」
カリス:「褒め方が不器用すぎない?」
Chance:「……俺は、こういう言い方しかできねえんだよ」
カリス:「……知ってる」
(二人の目が合った)(どちらも視線を逸らさなかった)
(三秒くらい、静かに見つめ合って)(どちらからともなく、小さく笑い合った)
(Noobが限界を迎えて鼻をすすった)(インタビュアーももらい泣きして鼻をすすった)(リビングが、甘さとシュールさの入り混じった微妙な空気になった)
◆ インタビュー終了
Q. ……以上で、インタビューを終わりにします。尊いお時間を、ありがとうございました。
カリス:「ありがとうございました。……あの、最後に一つ聞いてもいいですか」
Q. なんでしょう。
カリス:「あなた、本当にどこから来たんですか?」
Q. 別の世界線からです。
カリス:「……別の世界線」
Q. ええ。あちらの世界にも、カリスさんとChanceさんがいます。
カリス:「……私たちが?」
Q. はい。置かれている状況は全く違いますが、魂の形がよく似たお二人が。
Chance:「……俺たちの別バージョンってことか」
Q. そういうことです。
Chance:「へえ。……で、そっちの世界の俺たちは、どうなってるんだ?」
(インタビュアーが、少しだけ間を置いた)
Q. それは……言わない方が、面白いと思うので。
Chance:「……ハッ、まあ、そうだな」
カリス:「面白いって言いましたね、今」
Q. 観測者なので。
カリス:「そういうお仕事なんですか」
Q. そういうことにしておいてください。
(インタビュアーが立ち上がり、破れたメモ帳を大切に閉じた)
Q. では、これでお邪魔しました。カレー、うまくいくといいですね。
カリス:「また失敗するかもしれないですけど……」
Q. Chanceさんがいるので、絶対に大丈夫だと思います。
Chance:「……なんであんたがそれを知ってんだよ」
Q. インタビュアーなので。
(インタビュアーが、満足げな顔で玄関へ向かった)
Noob:「あ、僕も帰ります!! お邪魔しました!! カレー頑張ってくださいね!!」
カリス:「Noob君は本当にどこから来たの?」
Noob:「世界線の隙間から走ってきました!!」
Chance:「二度と来るな」
Noob:「また来ます!!!!」
(Noobとインタビュアーが、玄関のドアを開けて出ていった)
(リビングに、二人だけが残された)
しばらく、雨上がりのような静寂が続いた。
Chanceがコインを一度だけ弄んでポケットにしまい、立ち上がった。
「……カレー、作るんだろ」
「あ、うん」
「玉ねぎは俺が切る。お前が切ると、不運で目に汁が入りまくって危ねえから」
「……それ、気にしてくれてたの?」
「前回、ボロボロ泣いてただろ」
「泣いてないよ、目に染みただけ」
「同じだろ」
キッチンに向かいながら、Chanceがふと振り返った。
「……さっきの、タイミングじゃないって言ったやつ」
「うん」
「カレー食い終わったら、話すからな」
カリスは、エプロンの紐を背中でしっかりと結びながら、微笑んで答えた。
「……待ってる」
(Chanceが、小さく笑った)
(サングラスをかけているのに、はっきりと分かる、柔らかい笑い方だった)
一方、玄関の外では、インタビュアーとNoobが並んで立っていた。
Noob:「……チャンカリって、こっちの平和な世界線でも最高ですね」
インタビュアー:「ええ。全世界線で最高です」
Noob:「あの、僕が活躍する世界線もあるんですよね?」
インタビュアー:「……あります」
Noob:「どうですか! かっこいいですか!?」
インタビュアー:「……とりあえず、逃げ足を鍛えて頑張れ、としか言えないです」
Noob:「頑張ります!!!!」
(二人は、それぞれの所属する世界線へ帰っていった)
(帰り方の原理は不明だが、何故かちゃんと帰れた)
(たぶん、インタビュアーの執念か、Noobの逃走本能によるものと思われる)
2月14日。バレンタインデー。
私は自宅のキッチンで、絶望の淵に立たされていた。
「……どうして、こうなるの」
目の前のボウルの中には、茶色いドロドロとした『何か』が横たわっている。
本来なら、艶やかで滑らかな溶かしチョコレートになるはずだった。しかし、私の『不運』がここでも遺憾なく発揮されたのだ。
湯煎をしようとボウルをお湯の入った鍋に重ねた瞬間、換気扇のカバーがなぜか外れて落下。その衝撃で鍋が傾き、お湯がボウルの中にドバッと入り込んでしまった。
結果、チョコレートは見事に分離し、油分とボソボソの塊に分かれてしまったのだ。
「うぅ……板チョコ三枚が……」
エプロン姿のまま、私は床にへたり込んだ。
今年こそは、完璧な手作りチョコを渡そうと意気込んでいたのに。
ガチャッ。
その時、玄関のドアが開く音がした。
「……おい、なんだこの焦げたような匂いは」
合鍵を使って我が物顔で入ってきたのは、幼馴染のChanceだった。
彼は制服のブレザーを肩に引っ掛けたまま、のっそりとキッチンへやってきた。そして、へたり込む私と、惨状と化したコンロ周りを見て、呆れたようにため息をついた。
「……被害状況は?」
「換気扇のカバーが一つと、板チョコ三枚……」
「怪我は」
「ないよ……」
「ならいい」
彼はブレザーをダイニングの椅子に放り投げ、私の横にしゃがみ込んだ。
「何作ろうとしてたんだよ」
「チョコレート……」
「見りゃ分かる。問題は、誰に渡すつもりでこんな大惨事を引き起こしたかってことだ」
彼の声が、いつもより少しだけ低くなった気がした。
サングラスの奥の瞳が、私をじっと見据えている。
「……Chanceに、だよ」
「……」
私が正直に答えると、彼はピタリと動きを止め、それから「……あっそ」と顔を背けた。
耳の先が、少しだけ赤くなっている。
「でも、失敗しちゃった。ごめんね、買い直してくる」
「いい。座ってろ」
彼は立ち上がると、自分が持ってきたコンビニの袋から、板チョコを数枚取り出した。
「え? なんでChanceがチョコ持ってるの?」
「……お前が絶対失敗するだろうと思って、俺の『勘』が予備を買っとけって言ったんだよ」
彼はぶっきらぼうにそう言うと、腕まくりをして、私の代わりにキッチンに立った。
「貸せ。俺が溶かす」
「えっ、でもそれじゃ手作りチョコの意味が……」
「お前は横で混ぜる係だ。それなら半分お前の手作りだろ」
彼に言われるがまま、私は新しいボウルとゴムベラを持たされた。
Chanceが包丁で手際よく板チョコを刻んでいく。彼の指先は、こういう細かい作業も得意らしい。
「よし、湯煎するぞ。お前、ボウルしっかり持ってろよ」
「う、うん」
私はコンロの前に立ち、お湯の入った鍋の上にボウルを置いた。
すると、Chanceが私の背後に回り込み、私の手の上から自分の手を重ねてきた。
「えっ……」
「お前の不運でまたひっくり返されたらたまんねえからな。俺が押さえておく」
背中に、彼のがっしりとした胸板が触れる。
耳元で、彼の一定のリズムの呼吸が聞こえる。
後ろからすっぽりと包み込まれるような体勢。あまりの距離の近さに、私は心臓が口から飛び出そうになった。
「Cha、Chance……ちょっと、近い、かも」
「動くな。チョコに集中しろ」
「集中できないよ……っ」
「……お前の顔が赤いのは、湯気のせいか?」
意地悪く囁く声に、私はギュッと目を瞑った。
絶対に分かっててやってる。このギャンブラーは、私の反応を楽しんでいるのだ。
彼の手の温もりを感じながら、ゆっくりとゴムベラを動かす。
刻まれたチョコが熱で溶け、艶やかな液状に変わっていく。甘い香りが、二人だけの狭いキッチンを満たした。
「……よし、綺麗に溶けたな」
「うん……!」
「あとは型に流し込んで、冷やすだけだ。……ほら、手元狂わせんなよ」
彼は最後まで私の手をサポートしながら、ハート型のシリコンモールドにチョコを流し込んでくれた。
不運なトラブルは、一度も起きなかった。彼が隣にいるだけで、私の『不運』は嘘のようにおとなしくなるのだ。
一時間後。
冷蔵庫から取り出したチョコは、綺麗に固まっていた。
少し不格好なハートの形もあったけれど、間違いなく、私――と、彼――が作った手作りチョコだ。
「……はい、Chance。ハッピーバレンタイン」
私はお皿に乗せたチョコを、ダイニングテーブルに座る彼に差し出した。
「おう。サンキュ」
彼は一つ手に取り、無造作に口に放り込んだ。
「……どうかな」
「普通だな。市販の板チョコ溶かして固めただけだから当たり前だが」
「うぅ……それを言わないで」
「でも」
彼はもう一つチョコを手に取り、ニヤリと笑った。
「お前が作った炭よりは、何百倍も美味い」
「……っ、もう!」
私が膨れると、彼は楽しそうに笑って、私を自分の隣の席に座らせた。
「お前も食え。どうせ味見してねえだろ」
「うん……」
彼が指でつまんだチョコを、そのまま私の口元に持ってくる。
私は少し戸惑いながらも、ぱくりとそれを食べた。
甘い。すごく甘い。
「美味しい」
「だろ。……俺の運のおかげだな」
「半分は私の力だよ」
「はいはい」
彼はコーヒーを啜りながら、残りのチョコをあっという間に平らげてしまった。
分離した時はどうなるかと思ったけれど、無事に渡せて本当によかった。
ホッと息を吐いた私に、Chanceがふと思い出したように言った。
「……そういや、来月どうする?」
「来月? 三月?」
「ホワイトデーだ。何が欲しい?」
彼がまっすぐに私を見る。
「えっ……お返し、くれるの?」
「当たり前だろ。貰いっぱなしは俺の主義に反する」
「うーん……じゃあ、Chanceが選んだものなら何でも嬉しいな」
「一番めんどくせえ注文だな、それ」
彼はため息をつきながらも、どこか嬉しそうに口角を上げた。
そして、ポケットからあの銀色のコインを取り出し、指先で器用に弾いた。
チンッ、と澄んだ音が鳴る。
「……覚悟しとけよ、カリス」
「え?」
「俺のギャンブルの基本は『三倍返し』だ。……お前が持て余すくらいのモン、用意してやるからな」
彼が手のひらのコインを握り込む。
その言葉の意味がどういうものなのか、今の私にはまだ分からないけれど。
「……楽しみにしてるね」
私は笑って頷いた。
不運な私の人生に舞い降りた、最強で最高の特効薬。
彼と過ごすイベントは、これからもきっと、甘くて騒がしいものになるに違いない。
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