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自由と孤独は常にワンセットである。 孤独を知らずに自由を手に入れる――そんな都合のいい話など存在しない。大切な誰かから見放される寂しさ――誰からも束縛されぬ自由を手に入れるのと同時にあの苦しみを人間は引き受けるのである。
下平《しもひら》聡美《さとみ》は、段ボールの積み上げられた、がらんとした室内を眺めラーメンをすすった。大好きなチキンラーメン。生卵をトッピングしてからケトルで沸かした湯を注ぎお皿で蓋をするのが彼女のお気に入りである。蓋をしていた皿が熱いのでミトンで持ち上げるのもまたご愛敬。授乳中であるため食べるものに気を払う彼女であるが、引っ越したばかりの日に台所に立つだなんてとんだ無理ゲーだ。……無理ゲー。
ゲームという単語で必ず思いだされるあのひとのこと。
別れたばかりの夫。
あの夫と暮らしていたマンションに比べると狭く感じられる1DK。娘が大きくなってから自分の部屋が欲しいと言い出さぬか不安はあるが……、娘はまだゼロ歳。成長してからのことはそれから考えればいい。借り手がシングルマザーだと例えば一人暮らしを開始する大学生と同じようには行かない。こんな自分に部屋を貸してくれる家主が見つかっただけでラッキーであり、聡美は当面の生活を確保することを優先した。
角部屋であるゆえ壁の一面が冷えている。彼女はリモコンを操作し、暖房を強くした。まだまだやることが残っている。だがひとりではない。彼女には命と引き換えにしていいくらいの大切な、愛おしい存在が居る。眠る我が子を安らかな眼差しで彼女は見守る。
かけがえのない娘を捨て自由と孤独を選んだあの男。
今頃なにをしているだろうか。
後悔に打ちのめされているとか? ……まさかまさか。あのひとは最後まで自分の愚行を理解せぬままだった。
時間を二ヶ月前の、2013年11月に巻き戻す。
――なにを間違えてこんなことになってしまったのだろう。
聡美は涙が出るのをこらえ、胸の奥から込みあげる言い知れぬ感情と向き合う。
自分に男を見る目がなかったと言われればそれだけの話だ。だがしかし……。
腕のなかで懸命に何かを訴える我が子。
こんなにも愛おしいか弱い存在に見向きもしないだなんて……。
いったいあのひとはどうしてしまったのだろう。
リビングにて生後六ヶ月の泣き止まぬ赤子を抱っこする聡美は途方に暮れる。おむつ。おっぱい。全部あげても赤ちゃんというものは常時泣き続ける。可愛い顔を見せるのなど一瞬だ。彼女が見やるのは廊下の奥の閉じられた一室のドア。あそこから閉じこもったままいつもあのひとは出てこない。家に居る間はずっと……。
誰よりも大切なはずの我が子そして愛妻を無視して彼が没頭するのは――オンラインゲーム。WiiU版がこの九ヶ月前に発売されたばかりらしく。大学時代の友人に勧められて彼も始めたところ――起きている時間のほとんどをゲームに注ぎ込む徹底ぶりだ。
その没頭ぶりがあまりに異様なので彼女は夫の一日の行動を日記に書き留めたことがある。――
起床。五時。トイレに行き寝室でゲーム。
七時。シャワーを浴び身支度を整え出社。その際、妻子に見向きすることなく片時も携帯を手放さない。常にゲーム絡みのスレをチェックするかスマホゲームをプレイ。
帰宅は二十二時から0時のあいだ。お風呂のあいだじゅうもスマホを手放さず、風呂上がりに携帯を見たまま夕飯を掻き込み、一言娘に『おやすみ』と言ってから寝室に引きこもる。
就寝は大体夜中の二時頃。ドアが閉じられていても部屋から漏れる光で彼女は夫の就寝時間を知る。娘である美凪(みなぎ)の夜泣きが頻繁であり、また、彼女たちの寝室と、現在の夫の寝室が廊下一本で繋がっているため、彼女は寝そべったままでも夫の挙動を把握することが出来る。
夜中にトイレに行ったり歯磨きをしたり。……
痩せたな、と思う。顔色は常に青白くなにか切迫したような表情をしている。あの調子だと仕事にも支障をきたしているのが瞭然であるが――仕事があるのに頻繁な夜泣きで起こされては大変だろうと、聡美の気遣いで寝室を別々にしたというのに――その気遣いを台無しにするかたちだ。直接話しかけてもろくろく相手の顔を見ず常に携帯をいじっているというありさまで、アドバイスを送るどころの騒ぎではない。ゲームDVなんて言葉は存在しないが、この状況を一言で表せばそれだ。ゲームに依存することで彼は家族を傷つけている。
よりによって夫が自分の寝室に持っていったのは新品のほうのテレビだ。彼は実家暮らしで聡美が一人暮らしだったゆえ、聡美は家具のほとんどをこのマンションに持ち込んだのだが――新しく購入したのはテレビとダイニング一式のみ。子どもが産まれるとなにかとお金がかかるだろうと見越し、ソファーなどの購入を諦めた。
二人のために買った貴重品である大型テレビを自室に持ち込み引きこもるだなんてどういう了見をしているのか。聡美が詰問したところ、おれの金で買ったんだからいいだろの一点張りだった。
なにを話しても無駄だということがよく分かった。彼は、現実世界に生きることを拒否している。仕事以外の時間はゲームの世界の住人なのだ。残業の多い、過酷な仕事を継続することは尊敬に値するが、かといって誰から命令されたわけでもなく自分の意志で子どもを作っておいて、父親や夫としての責任を放棄するというのはまた別問題だ。
家族だというのにろくろくコミュニケーションを取ることもせず。休日はずっと部屋に引きこもり、風呂と歯磨きとトイレと食事以外で部屋を出てくることなどない……。
夫は、平日一日四時間以上、休日に至っては18時間プレイしている計算になる。
――こんな結婚生活を送るために結婚したわけではないのに。
新婚で本来は甘々の時期だ。だが彼女がその蜜月を堪能することはならなかった。苦い気持ちで聡美は現状を噛みしめる。
結婚前も、確かにゲームに没頭する傾向はあった。聡美自身、高校卒業後に付き合い始めた彼氏の影響で、ゲームにハマった過去がある。聡美の世代は子どもの頃はみんながみんな、ドラクエやFFに夢中だった。子どもの頃もそれらのゲームをプレイしたものの、彼女の場合は親が厳しかったゆえスーファミでクリアしたゲームは三本程度。親と離れて暮らすようになってから好き勝手にゲームで遊べる自由を謳歌した彼女である。
聡美が大人になってから特にこころを奪われたのは、ファイナルファンタジータクティクスというゲームであった。深みのあるストーリーと、画期的なバトルシステムに魅了され、トータルで200時間もプレイした。オンラインに慣れている世代ならばさほど驚きに値せぬ数値やもしれないが、オフラインRPGはクリアまでに要するのは大体50時間。それを大幅に上回る数値を彼女は叩き出したわけだ。どれほどのめり込んだかはその数値で知れるであろう。
たかがゲームされどゲーム。作り手の提供する正義感と主人公の葛藤――歴史ものの映画を見るときのように、彼女を揺さぶってやまなかった存在。スタジアムに観戦に行っても、試合前のサッカー選手の練習に見向きもせずにDSを手放さない聡美の姿に当時の彼氏は呆れ顔だった。
ハマる側の気持ちはよく分かる。あれは、嫌な仕事も単調な日常のこともなにもかも忘れさせてくれる夢の世界だ。プレイする側が没頭するように――長きにわたってプレイできるように、そう作り込まれている。
だが。
妊娠してからは、きっぱりゲームの世界から足を洗った。彼女の場合、妊娠が判明してから入籍――当時で言うでき婚をした。つわりが辛いゆえ結婚式を挙げるのは諦めたが、彼の会社の友人向けにパーティーをした。彼女のほうは親友と呼べる人間はその頃にはほとんどが音信不通となっており、花嫁サイドで特段なにかをする必然が見当たらなかった。
夫の友人は大学や高校が一緒の人間が多く。つき合いは、男同士でたまに飲みに行く程度。……その事実を知り聡美は安心した。彼女は、家族ぐるみの交流だとか、彼氏の友達との関わりが正直苦手だ。
面倒くさいのだ色々と。異性相手に愛想よく振る舞えば――おまえあいつと喋るときだけ機嫌いいのな、と嫌味を言われ。かといって必要最低限の対応で接すれば今度は「つめてえやつだな」と突き放される。なら、どうすればいいのかと。
ワンバイワンのコミュニケーションを彼女は欲した。大学時代まではそれが叶えられたかたちであったが、……大学卒業後に女友達は皆が皆地方へと散り。一緒にお茶をする女友達のひとりすらいない彼女である。
自分の性格に致命的な欠陥があるのかと悩んだことはあれど――確かに、喧嘩別れをした友達が二人ほど。あの程度のことなら許して友達づき合いを続けていればよかったのかもしれない。そうすれば、こんな孤独を味わわずに済んだのに――と思うことはあれど。
切れてしまったなら所詮それだけの関係だ。その後、なにかしらのいざこざで破綻していたのかもしれない。それに――
彼女は、読書が趣味だ。本は、人間の思想を豊かにしてくれる。大学時代もそこそこ本は読んでいたつもりだったが、様々なジャンルの書籍に触れるにつれ、自分の勉強不足や力不足を痛感し、仕事に関係のないジャンルの本でも貪り読んだ。
小説だと彼女がお気に入りなのはミステリー小説である。特に森博嗣。冴えわたる思考、斬新なアプローチ。そして、友達が少ないことを否定的に捉えず――むしろ肯定的に捉え。仙人のように世俗に染まらぬ卓越した思想に、こころ震わされた。アマゾンで年間で最も売り上げの多い小説家ランキングで一位を獲得したと聞くが納得だ。
夫と付き合う前は、大学が一緒だった年上の彼と遠距離恋愛をしていた。大学卒業後は地方転勤の多い職についた彼氏は恋人である聡美が自分のところに来ることを望んでいたが、仕事や趣味でエキサイティングに過ごせる首都圏を離れるという選択肢はなかった。それに。
彼女は大学時代に、当時の彼氏が運転する車で事故に遭っており、助手席に座っていた彼女も負傷し、二週間入院をした。事故の惨状を知らぬ彼が聡美のトラウマを理解することはなかった。いくら口で説明しても伝わらなかった。――怖がってばかりいちゃ前に進めないぜ。癒えない傷を語るたび理想論を浴びせさせられ、彼女は辟易した。
大阪や名古屋など地下鉄の発展している場所は別として地方は、基本的に車社会だ。車がなければ生きていけない。一応は運転免許を持っている彼女であったが、車など乗るだけでやっとだ。運転すると考えただけで――ぞっとする。
そのことがなくとも。元彼氏とは結局別れていたかもしれない。というのは。彼は。
女に女であることを要求する――そういうタイプの男だった。
七年間の交際中に、育児と両立可能と思われる負担の軽めの仕事に転職したものの。いつまでも自分のところに来る気配のない恋人に業を煮やした彼に、別れを告げられたのが、聡美が三十路を迎える直前のことであった。
この年で振られるとは――もう後がないなと。内心で結婚は諦めていた。一方。
新人の頃から、仕事を通じて知り合った男性とちょくちょく飲みに行く関係は続いており――女性と違って、頭髪と地位に絡む話を外せば穏便にトークできる……地雷が少ない男性との会話は彼女を楽にした。そのことも元彼氏は面白く思っていない様相であった。
夫となる士川(しかわ)厚彦(あつひこ)と出会ったのは2012年のことだった。ひとりでバーで飲んでいると声をかけられた。ありがちな出会いである。――仕事の話を熱っぽく語る姿は彼女を興奮させ。その日のうちにベッドインをした。
妊娠に至るまで三回セックスをした。聡美としては、本当は、避妊をしてくれる彼氏を希望していたのだが――その一方でまた別の彼女が彼女のなかでささやいた。32歳にもなって。周りはみんな子どもを産んでいる。わたしだけ結婚もまだで出産もまだ。女としての、母としての、妻としての幸せを知ることなく老いて死んでいくのか――孤独な独身女性で終わることよりも妊娠のリスクを取った。妊娠が判明したときは子どもを産み育てることが天命だと思えたほどである。
厚彦が『責任』を取ってくれる男だったのは幸いだったが――彼は元彼氏と同じく、結婚相手に、完璧な専業主婦ばりの振る舞いを要求する、典型的な亭主関白の男であり、ああまたわたしは似たような相手を選んでしまったかと――二年ぶりの男とのセックスに満足する一方で、人知れず思い悩む彼女であった。だが、その程度は。
結婚後に味わうそれとは比較にならなかった。結婚してからが――大変だった。先ず。
毎晩手料理を振るわねば怒る。コンビニの弁当など論外。スーパーでのお惣菜すら許せない。パスタの作り置きなんかした際は、『仕事で疲れて帰ってきたおれにのびた麺を食わせやがって』と三日間無視された。洗濯は。
ワイシャツやインナーパンツの替えがなければ激怒した。一人暮らし歴の長い聡美としては、洗濯は週に一回程度で充分だった。だが汗っかきの夫は一日に三枚もインナーシャツを消費し――三日に一度の洗濯でも追いつかなかった。諦めた夫は下着の枚数を増やした。だが通勤電車を降りて出社後にトイレで上下の下着を替えるという習性を改めることはなかった。
聡美も仕事をしており、しかも当時妊婦であった。つわりで苦しいときも台所に立ち続け、ひとりであればしなくていいはずの洗濯物の処理に追われ。大きなお腹で新品の便器ブラシで浴槽を洗う日々。
当時、聡美はまだガラケーユーザーであったのだが。いちはやくスマホに切り替えた夫は、スマホにもどんどんのめり込んでいった。いまほどアプリゲームは豊富でなかったはずだが、それでも、隙間時間を見つけてはプレイし。夜遅く帰ってきて、画面を横方向に向けたままひとが身重のからだで一生懸命作ったご飯を掻きこむ――その姿に怒りで身を震わせたことも一度や二度ではない。こんな男。
捨てちまえばいい――。
と思ったことも当然あるのだが。それでも、だんだんお腹の大きくなっていく聡美に、気遣いを見せる様子も――赤ちゃんのいるお腹をさすり、『元気に生まれて来いよ』と語りかける人間的な姿も見られた。例えはなんだが誘拐犯に誘拐された被害者が、食事の世話やトイレに行く許可をくれたりする……つまり被害者の身の回りの世話をする犯人に対し、やがては好意的な感情を抱くようになる――ストックホルム症候群とからくりは同じだ。たまに見せる優しさが彼女を懐柔した、そのからくりに彼女は気づいていない。
すべてが一変したのは――オンラインゲームが原因。後から書籍を読んで分かったことであるが、据え置きのオンラインゲームは、現在大流行のスマホゲームとは違い、隙間時間に出来ない仕様となっている。一時間二時間どっしりと構えてプレイすることを余儀なくされる。しかもだ。
ドラクエと同時に夫がのめり込んだのはFFのオンラインゲーム。あれは特に酷く、七人揃わねばクリア出来ぬクエストもあるらしく、ご飯だといくら声をかけても『待って』の一点張りで。三時間待たされたこともあった。
夫に不安や絶望も抱いていた彼女であったが、彼は、聡美をまったく愛していないというわけではなかったようだ。オンラインゲームに依存する前は、それなりに愛情表現を示してくれた。会話もした。夫が完全に狂ったのは、聡美が妊娠後期を迎える頃であった。勝手にテレビを入れ替えたその頃になると、もう、聡美は、単なる妊婦でハウスキーパーでしかなかった。女としても妻としても見られていなかったと思う。
里帰り出産をすることも頭にあったのだが、聡美の実家は旅館を営んでいる。早朝から深夜までタフな仕事に追われる年配の両親に赤子と経産婦の世話をしろというのは無理な話だと思った。また夫の両親のほうは、三十二歳という嫁の年齢が気に食わなかったらしい。電話口でもっと若い子にすればよかったのにとぐちぐち言われるのを聞いた。……というより、親から電話があればさっさと別の部屋に行ってくれればよかったのに。その程度の気遣いすら出来ぬ夫に不満を抱いてはいたが――
赤子の存在は格別と聞く。誰よりも愛おしい、自我を持った自分の分身だ。
生まれたらあのひとも変わるかも――そのわずかな聡美の望みは、妻の出産後も独身時代と変わらぬ――むしろ結婚当初よりも悪化した夫の態度で粉々に打ち砕かれる。
もう限界だ――。
聡美のこころもからだも悲鳴をあげていた。産後は自治体経由で雇える安価なハウスキーパーに依頼し、二三日に一回、各一時間、洗濯や掃除そして炊事を行ってもらうことで、大変な産後を乗り切った。コンビニの食事に飽きていた彼女は必ず具沢山の味噌汁と四人前の野菜炒めを依頼し、それを二三日食べた。夫に関してはセルフ。――にさせたところまた夫が怒ったのには呆れた。
産後は水を触ってもいけないと言われる時期である。――が、夫の協力が望めぬゆえ、ハウスキーパーがする以外の家事雑務すべてを彼女が行った。細切れ睡眠の我が子に疲弊させられながら。
聡美は育児休暇を取得している。育児をするための休暇だから母親である自分が奮闘するのはまだ分かる――が。父親のくせに。
子どもの顔をろくろく見ず抱っこもせず。家事育児の一切を行わないのはどういうことか。だいたい。
彼の友達含め、彼がオンラインゲームを一緒にプレイする仲間は社会人ばかりだ。勿論顔も素性も知らない人間も居るだろうが、大学の仲間はリア友だ。誰も、子どもが生まれたばかりなのにあれほどの時間を費やす夫に物申さぬのか――彼の人間関係すら嫌になった。
うんざりだ、もう。……
夜中であるが起きている時間だ。彼女は赤子を抱っこしながら部屋をノックした。――開けば。予想通りの世界が展開されていた。
ベッドのうえに散乱したポテトチップス、そして袋。広げたままの雑誌。――
ドアに丸めた背を向けて胡坐をかいた姿勢でコントローラを持ち、画面にくぎ付けの夫の姿。まるでニートだ。
その背中は突然の来訪者にも気が向かないといった様相。……やがて。
先手を打ったのは夫であった。「――なに。おれ、いま、忙しいんだけど。てか黙らせろよそれ」
ボス戦の最中らしく、苛烈な戦いが繰り広げられている。美凪が泣くのも無理はない。目をあまりに刺激する色合いに彼女は顔を背けた。
「てか……」呆れつつ彼女は彼の言葉を拾った。「いま何時だと思ってるの? いい加減寝なさいよ」
妻ではなく母親の小言だこれでは。自分は――息子と結婚したのかもしれない。
「関係ねえだろおまえには」かたかたとキーボードを打つ。この音も、彼女は大嫌いだ。仕事で聞く分には構わないのだが、ゲームで誰かとチャットで遊ぶ――妻であり母である彼女の尊厳を踏みにじる音に他ならない。「だいたい、おれは外で仕事をしている。おまえこんな遅くまで働いて金稼げんのかよ? だーれがこの家の金を出してやってると思ってる。おまえ、家でごろごろしてるだけのくせして一丁前に口だけ出すんじゃねーよ馬鹿が」
「……」
ぶちりと。彼女のなかでなにかが切れた。……なんか、してない。
声を震わせた聡美は大きく息を吸い、
「ごろごろなんかしてない! 馬鹿じゃないの! わたし、一生懸命美凪のお世話をしている最中なのよ! あなたのところまで泣き声くらい聞こえてくるでしょう!」……なのになのにこの男は。駆け付けて抱っこをする行動も選択肢にないらしい。
「次はヒスかよ。めんどくせ」邪魔だということらしい。タイピング及び画面の凝視を続ける夫の背中が雄弁に語る。――失せろと。背後で涙ぐむ妻、そして泣き続ける娘に見向きもしない。かたかたかた。淀みなくタイプ打ちをするこの音……。
――人間じゃない。
生まれて初めて聡美は殺意を覚えた。この男――死んでくれればいいのに。お金を稼いでくれるのは確かにありがたいが、だったら――死んでくれて、保険金が入ってくれたほうがよっぽどいい。おむつの替え方も沐浴の仕方はおろか育児のなんたるかを知る由もない男。苦しむ妻を放置する男。食事は、チャーハンや野菜炒めを作るしか能のない男。……いまや、それすら放棄しているわけだが。
この男に、自分のように『生まれ変わる』ことを期待した自分が馬鹿だった。もう――彼女に出来ることはなにもない。
別れること。
その一択だ。
こころのなかで決めたものの、背後で涙を流し続ける自分を見てくれるのではないか――もし振り返ったらば、許そう。蜘蛛の糸のようにか細き望みを彼女は夫に繋いだ。
――が。
「出てけよ。おれ忙しいから」
そしてポテトチップスを摘まみかたかたチャットに興じる姿。
その姿を見て彼女は決意した。
――この男と別れる。
背後から刺さなかったのが奇跡的なくらいだった。
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