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麒麟堂薬舗は今日も乾いた当帰や甘草の香りに満ち、西陽が店内を橙色に染めていた。店の入り口にある帳場では、凪の父・源一郎が帳簿をつけている。
中央の分厚い作業台には、秤や分銅、乳鉢と乳棒が並べられている。その奥座敷からは、ゴリゴリという薬研の音が絶えず響いていた。
凪は兄の薬研で薬草を挽いていた。薬研を転がすたび、艶やかな前髪が揺れる。紺色の着物に掛けた前掛けは、ところどころ紫色に染まっていた。
「紫根軟膏も残り少ない……今日のうちに仕立てておかないと」
石の擦れる乾いた音が部屋に響く。紫根は少しずつ細かな粉へと変わっていく。凪は手を止め、刷毛で深い紫色の粉を受け皿へ落とした。それを温めていた胡麻油へ加えると、油は淡いうす紫色へと染まっていく。
「しばらく置いて濾して、それから蜜蝋を──」
その時だった。店先から激しく咳き込む声が聞こえた。
凪は草履を履き、急いで父のもとへ向かう。
帳場では父の源一郎が肩で息をしていた。
「父上っ、奥でお休みくださいっ……!」
源一郎は凪の差し出した手へ視線を向ける。しかし、その手を取ることなく帳簿へ目を戻した。
凪は視線を落とし、宙に浮いたままの手をそっと握り締める。
「大丈夫だ。治らん喘息だな。薬を飲んでいるというのに」
源一郎は眉間に皺を寄せた。息をするたび、ゼイゼイという喘鳴が凪の耳にも届く。
「空気も乾燥していますから、悪くなりやすいんです。どうか、ご無理はなさらないでください」
凪は前掛けの前で指を組んだ。
「ああ。そろそろ店を閉める時間だな」
そう言いながらも、源一郎は最後まで凪と目を合わせない。
「……暖簾を下ろしてきますね」
凪が入り口へ振り向いた時だった。
一人の娘が入ってきた。
木綿の着物に色褪せた前掛け。髪はきっちり結われているが、化粧っ気はない。右の袖口で手を隠している。
「……すみませんっ。薬を買いたいのですが」
買い物籠を下げて、焦るように早口だった。
「ええ。中へお入りください」
父が声をかけるのと同時に咳き込んでしまう。凪がすぐに背をさする。
「……私が接客します」
父は息を整えながら無言で頷いた。
凪は小さく息を吐き、客に向かい合う。
「どのようなお薬をお探しですか」
「時間がないのですが、火傷の薬が欲しくて……」
娘は落ち着かない様子で、何度も外へ目を向ける。
「傷を見せていただけますか」
娘は肩を震わせた。
「……見せないと、だめですか?」
「傷の具合で、お出しする薬が変わりますので」
娘は諦めたように右袖を捲った。
細い右手は荒れ、甲にかけて赤く爛れている。
「これは、火の始末で……」
娘の言葉が途切れる。
凪はそっと腕へ触れた。
──火鉢を押し当てられ、娘が苦しげに顔を歪める──
そんな映像が凪の脳裏を掠めた。凪は息を飲み、震える指をそっと離した。
「……少々、お待ちくださいませ」
壁一面に並ぶ薬箪笥から紫雲膏の壺を取り出し、包んで差し出した。
「毎日塗ってください。……跡も残りにくくなります」
『跡』という言葉に、娘の肩がびくりと震えた。
凪は何も聞かなかった。
娘は代金を置き、足早に店を出ていく。
(そこから逃げて。助けたい……)
けれど、凪は呼び止めることはできない。拳を握り締めた。
「……あのっ、お待ちくださいっ」
凪は駆け寄り、前掛けのポケットから一粒の菓子を取り出す。
「これは結菓子という、あんこ玉です」
娘の掌へそっと乗せた。
「甘いものです。少しだけ、楽になりますから」
娘は目を丸くし、小さく笑った。
「……ありがとう」
娘は深く頭を下げると、そのまま夕暮れの町へ消えていった。
凪はその後ろ姿をただ見送った。
夕暮れ、外壕の木々から流れてくるひぐらしの声を聞きながら。
凪はしばらくしてから暖簾を下ろし店へと戻る。
父は娘が置いたお金を苦しげな息でじっと見つめていた。
「……いろいろあるな」
「なんですか?」
「いや。そろそろ人を雇わないといけないな」
源一郎がぼそっと言う。
凪はそっと頷いた。
「父上の体調が良くなるまで、身の回りの世話をする方を探しましょう」
源一郎の体調が悪くなってからは店番と父の世話で凪の仕事量は増えていた。
「それは不要よ」
店から居間に繋がる廊下から、義母の翠が湯呑みを乗せたお盆を持ち入ってくる。