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第1章:日常の崩壊と「音」の恐怖
井上結衣(いのうえ ゆい)の自室は、彼女の壊れかけた精神をそのまま映し出したかのように、薄暗く、生気がなかった。
遮光カーテンは固く閉め切られ、隙間から差し込むわずかな夕暮れの光が、空気中に浮遊する埃の粒を白く照らしている。
机の上には、開いたまま放置された参考書と、芯の折れたシャープペンシル。
結衣はその部屋の隅、ベッドのマットレスと壁の狭い隙間に体を押し込むようにして、小さく丸まっていた。
「結衣! あんたまた部屋にこもって何してるの! スマホばっかりいじって、模試の結果だってあんなに悪かったのに、危機感っていうものがないの!?」
階下から階段を駆け上がってくる足音が響いたかと思うと、自室のドアが容赦なく乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、眉間に深い皺を刻み、般若のような形相をした母親だった。
母親の手には、結衣がリビングに置き忘れていた模擬試験の成績表が握られている。
くしゃくしゃに丸められたその紙切れは、まるで結衣の自尊心の成れの果てのようだった。
「どうして何も言わないの? 何か言い訳でもあるなら言いなさいよ! あんたのためを思って言ってるの。お母さんはあんたに苦労させたくないだけなのに、どうしてそんなに反抗的なの? 近所の佐藤さんのところの娘さんは、もう進路が決まったっていうのに。あんたはいつもそう、昔からお母さんの期待を裏切ってばかり――」
母親の口から溢れ出る言葉は、最初は明確な「小言」として結衣の耳に届いていた。しかし、それが数分、数十分と続くうちに、次第に言葉としての意味を失っていく。
結衣の脳が、あまりのストレスに耐えかねて、母親の声を「意味を持つ言語」として処理することを拒絶し始めたのだ。
結衣の鼓膜を叩くのは、ただの不快な、高音の、暴力的なノイズ。黒板を爪で引っ掻くような、あるいはガラスが粉々に砕け散るような、生理的な嫌悪感を呼び起こす「爆音」だった。
( あーうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい……!)
結衣は膝の間に顔を埋め、両手のひらで耳をこれ以上ないほど強く塞いだ。
爪が頭皮に食い込み、鈍い痛みが走る。それでも、母親のヒステリックな声は壁を透過し、床を伝い、彼女の骨を振動させて脳髄へと直接響いてくる。
「聞いてるの!? 結衣! 人が話してるときに耳を塞ぐなんて、なんて失礼な態度なの! 誰に育ててもらったと思ってるの!?」
母親の影がベッドに近づき、結衣の肩を激しく揺さぶる。その触覚さえもが、結衣にとっては激痛に等しかった。頭の中の思考がバラバラに弾け飛び、文字の羅列さえもぐちゃぐちゃにかき混ぜられていく。
視界がチカチカと明滅し、過呼吸気味になった肺が、冷たい空気を激しく求めて喘いだ。
(消えて。お願いだから、その口を閉じて。誰か、世界中の音を全部消して――)
結衣は現実から逃避するように、さらに固く目を閉じた。脳裏の暗闇の向こうに、いつか一枚の絵葉書で見た、誰もいない、どこまでも青い海を思い浮かべる。それは、音のない世界だった。
現実の濁った空気とは違う、どこまでも透明で冷たい水。寄せては返す、穏やかで規則正しい波の音だけが、世界のすべてを満たしている。
あそこに行けば、この地獄のようなノイズから解放されるのだろうか。あの青い深淵の中に体を沈めれば、お母さんの声も、自分の情けない名前を呼ぶ呪いのような響きも、すべて水に溶けて消えてしまうのではないか。
「結衣! いい加減にしなさい!」
しかし、現実の金切り声が、結衣の脳内に咲いた淡い幻影を容赦なく引き裂いた。母親の手が、結衣の耳を塞いでいた腕を無理やり引き剥がす。
その瞬間、結衣の中で、張り詰めていた最後の糸がぷつりと切れた。脳内を埋め尽くしていた
「うるさい」
という文字が、一瞬にして真っ白な空白へと変わる。感情が消え、恐怖が消え、ただ
「 この音を止めなければならない」
yuki
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#ダーク
未来が見えない
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という強迫観念だけが、彼女の体を突き動かした。結衣は母親の手を振り払い、狂ったように部屋を飛び出した。
後ろで母親が何かを叫んでいるが、もうその音は結衣の意識には届かない。
彼女の足は、ただひたすらに、静寂のある場所へと向かっていた。
♡よろしくお願いします。
コメント
1件
うわ、重い……でもすごく引き込まれた🥀 結衣が母親の言葉を「意味のある言語」として処理できなくなって、ただのノイズに変わっていく表現、すごくリアルで胸がギュッてなったよ。耳塞いでも骨伝って響いてくる感じとか、過呼吸で視界チカチカする描写とか、もう息苦しくなるほど没入できた。 「音のない青い海」に逃げたいっていう幻想が、余計に切ない……。この先どうなるんだろう、気になる。ゆう²さん、続き待ってます🌙