ちらりとこちらを見やり、梗一郎は軽くため息をついた。
「まぁいいじゃないですか。まずはここから出ましょう」
「ねぇ、アレって何だい?」
下手に好奇心を刺激された天然講師は、ここぞとばかりに喰い下がる。
梗一郎のため息が深くなった。
「モブ子らが同人誌の印刷代を稼ぐためにユーチューバーになるって言って。動画を生配信するから見ろって電話がかかってきて……」
「えっ、モブ子さんたち、君の連絡先を知ってるの? いいなぁ」
「先生? そんなのいくらでも教え……」
「で? それでモブ子さんが何だって?」
「………………」
噛みあわない二人である。
水位が上がっているわけではないとはいえ、この状況でこの会話も不毛である。
蓮の好奇心を適度に満たしてやって、そしてさっさと切り上げるべきだと判断したのだろう。
梗一郎が早口になる。
「視聴したら『台風直撃でオンボロアパートが崩壊する瞬間を待ってみた』ってタイトルで配信してて」
「……オンボロアパート? それって?」
梗一郎が一瞬言葉に詰まったのは、さすがに言いにくかったからだろう。
「その、先生のアパートが強風でガタガタ揺れている映像が映ったので……」
「モ、モブ子さんたち……何て失礼な子たちなんだ!」
「さすがの先生もそう思いますよね。先生のことだから、下手したらノンキにチャンネル登録するんじゃないかと思ってました。こんな状況ですけど、なんか安心しました」
「安心って……そういう言い方は君、どうかと思うよ?」
すみませんと梗一郎が俯く。
その肩が激しく震えていて蓮は焦った。
きつく聞こえてしまったろうか。
彼を傷つけてしまったろうか。
しかし梗一郎、これはどうやら笑っているようだ。
「ち、ちなみに僕が来たとき、アイツらは泣いてました。強風でスマホを飛ばされたって言って……ふふっ」
「な、何てかわいそうな子たち……ふふっ」
「先生、笑っちゃ悪いですよ」
「き、君こそ!」
モブ子らの失礼なタイトルの配信を見て、心配になって駆け付けてくれたのだろう。
あらためて見ると梗一郎はずぶ濡れだ。
蓮は薄茶色の髪に手を触れた。
雨粒を落とすようにそっと撫でる。
「俺は大人だから大丈夫。だから危ないことしちゃいけないよ。こんな時に外に出るなんて……」
すみませんと梗一郎はもう一度謝る。
「先生のことを考えたらじっとしていられなくて」
「お、小野くん……」
真っすぐな視線を受け止めて、頬が熱くなる。
「先生は覚えていなくて当然ですけど、僕は先生のおかげで夢を持てたんです。親の敷いたレールの上じゃなく、何でもいいから自分で未来を選ぼうって」
全部、先生のおかげです──つかまれた肩をゆっくりと引き寄せられた。
「お、大袈裟だよ。小野くん。俺はあのとき、君が退屈そうにみえたから。お花がキレイだねって話しかけただけで……」
優しく抱きしめられ、蓮はホッとした。
こうやって梗一郎の肩に顔を押しつけると、真っ赤になったホッペを見られなくてすむぞ、と。
「先生、耳たぶが赤いですよ。大丈夫ですか?」
言われ、ますます赤くなる蓮。
だが、彼も気付いていない。
「思い出してくれたんですね」と呟く梗一郎の頬もまた赤く染まっていることを。
顎に指を絡められ、僅かに上を向かされた。
「こ、これはキスだね?」
なんて確認したタイミングで梗一郎が苦い笑みを浮かべる。
ゆっくりと近付く端正な顔は、しかし次の瞬間、唖然とした表情に変じてしまった。
「あっ、見つけたぞ!」
蓮がその場に蹲ったのだ。
「足に当たったんだ。間違いない。この感触は……」
「先生? 何やって……いえ、何言ってるんですか?」
蓮は水の中で何かを探しているのだろうか。
泥水の中で手をかき回して、ともすれば顔も突っ込みそうな勢いである。
梗一郎が両腕をつかんで引き上げようとしたときのこと。
蓮が勢いよく顔をあげた。
「おっと……」
再びの頭突きを回避した梗一郎だが、目の前のニコニコ笑顔の蓮に目を細める。
「小野くん、目をつむって!」
「えっ?」
「いいから! 目を! つむってくれよ!」
状況が状況である。
暴風に揺れてガタガタと音をたてる室内から、できれば早く退避するべきだろうに。
「大人」を自称する三十歳はひどくご機嫌な様子だ。
「キスでもしてくれるんですか?」
梗一郎の、これでも精一杯の軽口はあえなく無視される。
素直に目を閉じた彼の手を蓮は握った。
「ほら、いいよ。開けてごらん」
驚いたように梗一郎が小さく声をあげるのを、蓮は少し不安げに見守る。
「失くしたと思ってました。どんなに探しても見つからなかったから。先生が持っていてくれたんですね」
彼の手にあるのは、ウサギとカエルが妙な絡み方をしている例のボールペンだ。
ところどころ傷が付いている。
「俺の部屋に忘れていってたよ。いらないのかな……なんて思ったんだ。そしたら何でかな。すごく不安になってしまって……」
「先生……」
梗一郎の手がペンを握りしめる。
「もう二度と失くしません。絶対に手放しません」
──ずっと、あなたと一緒に。
抱き寄せられ、蓮はそっと目を閉じた。
雨に濡れた梗一郎の手が、とてもあたたかく感じられて。