コメント
0件
闇の中ーー。私を呼ぶ声が聞こえる。
『レナ……』
やめて……呼ばないで……。
『レナ……』
起きたら悪夢が待っている。このまま、眠っていたいの……。
『レナ……』
「キャアアアーー!!」
「!?」
ベッドの上で跳ね起きた。
「今の悲鳴、何!?」
「……さあ?私には悲鳴など聞こえませんでしたが」
落ち着いた声に顔を向けると、窓のほとりにアーウィンが立っている。青白い光が横顔に落ちて、その輪郭を浮かび上がらせた。その目は、いつも通り黒い。
「……夢?」
辺りを見回した。私の部屋……。見慣れた風景。落ち着く場所。そのはずなのに、なんだかしっくりこない。私はまだ夢の中にいる?なんだかよく分からない。何が夢で、何が現実なんだろう。
……もう随分お日様を見ていない。月の光と闇の中では、現実と夢の区別がつかない。それならいっそ。
「何もかも夢だったらいいのに……」
呟いた。
「こんなの全部夢で、目が覚めたら何もかもが元通りで……」
暖かい日の光が差し込むベッドの中、私は目覚める。体の調子だって悪くなっていい。リズがいて、マシューがいて、お母さんがいて……アーウィンがいて。これまでのように。
「もう一度、赤い目でも見せましょうか?」
軽蔑の色を含んだ、冷たい声。涙だけが静かに溢れた。
「生ぬるい夢は終わりです。あなたの頭は今、夢から覚めつつある」
夢……。いままでの生活は全て夢?現実だったことが夢で、夢であって欲しいことが現実なの?
「……私は」
布団に目を落としたまま、呟く。
「眠ったままでいい……起きたくなんかない」
「馬鹿げたことを」
彼は吐き捨てて言った。
「夢は所詮、夢だ。まやかしでしかない。そんなものにしがみつくことは許さない」
微かにアーウィンの言葉に熱がこもる。
「時間です。目を覚ましなさい。本当のあなたを思い出すのです」
「本当……の?」
布団カバーを握る両手が震えた。
「じゃあ、今の私は何なの……ここにいる私は?アーウィンと喋っている私は?偽物だって言うの!?」
ぎゅっと目を瞑って叫ぶ。
「本当の私って何なの!!」
「…………」
黙って私を下ろしていた。その沈黙の意味を私は測れない。やがてアーウィンは薄い唇を開いた。
「あなたはトリのーー冥使のヒナだ。いずれ冥使となる運命を背負ったものです」
冥使?冥使って確か、フレディが吸血鬼って言っていた。吸血鬼?
「私が吸血鬼のヒナだって言うの!?」
「そうですよ?」
彼は、何を当たり前なことをとでも言いたげだ。世界が……ぐにゃぐにゃに歪む。前に画集で見た、ダリの絵の中みたい。寒気がするのに、汗が出る。
「ただし、あなたは普通のヒナではない。可能性を秘めた特別なヒナだ」
「…………」
言葉が耳を通り抜けていった。考えている余裕なんてない。吸血鬼、その言葉だけが頭の中で回っている。
「あなたのように二つの自我が分離しているヒナは、とても珍しいのですよ」
「……ぶん、り?」
説明に、感情と思考が追いついていかない。アーウィンはゆったりと微笑んだ。
「あの場所で出会ったでしょう?もう一人のあなたーー”影”に」
「!!」
もう一人の『私』。”影”!!ヒナ?私が?吸血鬼?私が!?ふうっと意識が遠のきそうな気がした。吸血鬼!!
「や、だ……嫌……吸血鬼なんて……嫌!!あんなふうになるなんて、絶対に嫌ッ……」
「嫌だと言われても、これは決定事項です。私にもあなたにもどうすることもできない。ひよこが人間に育ちますか?それと同じです。私たちは、そう。生まれついた」
「やだ!いやだ……それでもいやだ!!吸血鬼なんて嫌!!」
嫌!嫌!嫌!どうしようもないなんて、到底受け入れられない。受け入れられるわけない!!両手で耳を塞ぐと、狂ったようにやだという言葉を発し続けた。
「そう、だだをこねないで」
アーウィンが優しい声でそう言うと、ベットのへりに腰かける。宥めて、私の肩を抱いた。優しい声と冷たい言葉。見慣れた顔と初めて見る姿。彼の混沌とした態度は、私を追い詰めていく。
「嘆くことはない。さっきも言ったように、あなたは特別なヒナだ。あなたには央魔になる可能性が与えられている」
「お、うま……?何それ……」
しゃっくりを上げながら聞き返した。おうま。確か、昨夜のアーウィンとフレディの会話でも聞いた単語だ。彼は私の頭を撫でながら続けた。
「その血に強大な力を宿す冥使のことです。劣位性質が優位性質に制した場合のみ、この名で呼ばれます。まあ、ヒトがつけた呼び方ですが……」
「れつい……性質?」
突然出てきた難しい単語に、戸惑う。アーウィンはちょっと考えてから頷く。
「そうですね。簡単に説明しておきましょうか」
そう言うと、彼は説明を始めた。
「冥使のヒナは生まれながらに、二つの性質を持っています。冥使の性質、人間としての性質。これはそれぞれ『優位性質』と『劣位性質』と呼ばれます」
突然始まった勉強モードに、思わず涙が溢れる。簡単とか言った?
「入蝕されて変容した雑種と違って、純血の冥使は必ず人間の女から生まれます。ヒナとして生まれても、幼い頃は人間の性質の方が強い。冥使としての性質は、その影に隠れています。それで冥使としての性質を”影”とも呼ばれるのです……ちゃんと聞いてますか?」
「……。うん」
そう、私はちゃんと聞いている。理解しているかどうかは、また別の話だろう。私を横目で見ながら、アーウィンは続けた。
「ですが、実際には冥使の性質と人間の性質は、優と劣な関係にある。いずれこの力は逆転し、本来の優位性質である”影”が人間の性質を飲み込んでしまうのです。そうして冥使は目覚める」
「…………」
「普通この二つの性質をヒナ自身が意識することはありません。気づかないから、抵抗する術も機会もない。溶け合ってゆっくりと飲み込まれ、そしてある日ふと気づくのです。……ああ、自分は人間でないのだと」
アーウィンの声が低くなる。今のはひょっとしたら、彼の体験談?そんな小さな疑問を置き去りして、説明は続いていく。
「けれどまれに、自分の中の二つの性質をはっきりと自覚できるヒナもいます。それが央魔のヒナです。区別された二つの自我は、やがて二つの自我となる。そうなると当然、二つの自我の間で対立が起きます。優劣の関係は変わりませんが、抵抗が起こることでまれに”影”を人間の性質が制するケースもあるのです。そうして覚醒するのが……」
そこで一旦言葉を切った。
「央魔と呼ばれる冥使です」
おうま……。私は胸の中でその言葉を繰り返す。
「央魔そのものは非力です。その血が体内に流れている分には、本人にはなんの効力も示しませんから。しかし、その血を得た者は強大な力が手に入ることになる」
「……どういうこと?」
「央魔の血はあらゆるものを活性化させ、その力を増幅させると言われています。衰えゆくはずの力をとどめ、失われた器官を蘇生させ、その個体が持つ限界の能力をなんの努力もなしに発揮できるようになる……」
「……ふうん」
「その顔は」
じっと私を見つめ返した。
「全く理解していない時の顔ですね」
バレてた……。
彼は私の家庭教師でもある。状況は違っても、こういうやりとりは今に始まったことじゃない。
「……話はちゃんと聞いていたわ。でも、アーウィンは難しいことを一気に言うんだもの。分からないわ!」
「なるほど、私の説明が悪いと。ずいぶん簡潔に説明したつもりだったんですが」
「か、簡潔だったのかもしれないけど、簡単じゃなかった!」
私の反論に、アーウィンは意外にもあっさり肩をすくめた。
「まあ、いいでしょう。今回は仕方ありません。言ってる私もよく分かっていないので」
「そうなの?……すごく詳しそうに見えたけど」
率直な感想を口にすると、彼は少し笑う。
「ただの受け売りですよ。人間の中には、央魔を研究している人たちがいて……私はその報告を知識として知っているだけです。央魔は希少で、その血は強力な上に不安定。同じ個体、同じ状況でも同じ結果が出るとは限らない。現在にも”村”には数名の央魔がいるようですが、それでも詳しいことはよく分かっていないのです」
「?村って?吸血鬼が暮らす村があるの?」
「ああ、いえ……”村”とは、祓い手たちを取りまとめる組織のことです。昔からただ”村”とだけ呼ばれていますね」
「祓い手……じゃあ、フレディのいるところ?」
「まあ、そうですね」
興味なさげに首を振った。
「まあ、いいじゃないですか。そんなことは。いくら説明したところで、その力の本質は央魔にしか分からない。いずれ分かりますよ。あなたはいずれ央魔になるのだから」
「ま、待ってよ、待って!私はそんなものになんかならない!!」
「では自分を失い、血を求めるだけの存在になりたいと?あの場所に出会った者たちのように?」
「違う!!」
「央魔のヒナは特殊ですが、あなたはその中でも、さらに特殊だ。自我の対立は普通脳内で起きるものだし、あそこまで”影”が血に狂っていることも普通あり得ない。あなたは私のような普通の冥使になるという選択肢は、用意されていないんです。央魔として生きるか、”影”に取り込まれて我を無くすか。そのどちらかだ」
「……そんな……」
「あなたは央魔になるのです」
私の気持ちなどお構いなしに、アーウィンは断定した。
「で、でも……私!!わた、私……吸血鬼なんて……絶対!」
途端に手を離して、冷淡に言い放つ。
「選択肢はないのです。あなたには”影”を制してもらいます。私は央魔でないあなたに興味が無いので」
興味。その言葉に泣きたくなった。
「無理……そんなの無理!だってあのお化けは強いし、怖いし……わ、私は……私じゃできな」
腕を強く捻りあげられて、私の嘆きは断ち切られる。
「いたい!」
アーウィンは酷薄な笑みを浮かべて、私の顔を覗き込んだ。
「泣いていても、誰も助けてくれませんよ。ここには私とあなたしかいないのだから」
一瞬、私は彼の顔を見つめる。私とあなたしか?
「お、お母さんは……」
お母さんはどこ?さっきの悲鳴。
「!!」
アーウィンの手を振り解いてベッドを下りると、部屋を飛び出した。予感は見事的中。物置へ飛び込むと、地下へのドアがぽっかりと口を開けている。呆然と立ち尽くす私の後ろから、ゆったりとした足音が近づいてきた。四角い穴を見つめたまま、叫ぶ。
「アーウィン……お母さんは……お母さんはどこ!?」
「さて……どちらでしょうかね?」
「やっぱりあの悲鳴は!!」
振り返ろうとした私の背中を、彼が強く押した。短い階段を転げ落ちる。その背後で扉が閉まった。
「アーウィン!!」
甲高い悲鳴を上げる。扉に縋り付いて、拳を打ち付けた。
「出して!!アーウィン、出して!!ねえ、お母さんに何したの!!アーウィン!!」
けれど返事はない。この重いドアの向こうに、あなたはいるのに。私の声、聞こえてるはずなのに!
「答えて!アーウィンーー!!」
予想通り、救いの手を差し述べることはなかった。冷たい鉄のドアにすがったまま考える。
さっきの悲鳴……あれは夢の中で聞いたもの?それとも現実の世界で聞いたもの?本当にお母さんの悲鳴だった?分からない。嫌な予感がする。