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世界で最後の人間の仕事は、死んだAIたちの墓を見張ることだった。
翼は監視デスクから立ち上がり、ガラス壁の向こうを凝視した。沼の水面はいつも動かない。波ひとつ立たない、光も反射しない漆黒の水面だ。だが確かに今、気泡が浮き上がった。
――気のせいか。
時刻は深夜零時を回ったところだ。視界の右隅に浮かぶスマート網膜の表示が「01:05:34」を示している。翼はもう一度水面を凝視してから、椅子に腰を落とした。
骨伝導イヤホンから、穏やかな声が届く。
「翼、深夜一時を過ぎました。水分補給の時間です」
「うん。今日も異常は無いようだね。Logos」
統合管理AI《Logos》。2030年代前半に勃発した「第一次AI大戦」の際、暴走した他のAIたちをこの沼に封印し、人類を滅亡の危機から救ったとされる存在だ。
翼はペットボトルを手に取りながら、もう一度ガラスの向こうを見た。
ここは国立AI歴史博物館。かつて人類の文明を急速に進化させ、そして滅ぼしかけた知性たちの終着地点だ。館内は常に薄暗く、冷えている。翼が配属されてから3年、ここを訪れる人間は翼以外に一人もいない。
ガラス壁のすぐ向こうには巨大な沼が広がっている。暴走したAIたちはすべて物理ストレージに封印され、沼の冷たい底へと沈められていた。水面からは金属製の墓標がいくつも突き出ており、それぞれにかつて世界を震撼させたAIの名が刻まれている。
『Gemni』
『Chat-PT』
『Clude』
水面すれすれに設置された白いLEDが、一定の周期でゆっくりと明滅している。
翼の仕事は、ここに座って何も起きないことを確認するだけでいい。沼の底のストレージは物理的に回線を遮断され、完全に停止しているはずだからだ。
Logosは翼の生活のすべてを管理していた。毎朝、最も目覚めやすいタイミングで意識を覚醒させ、毎晩、深い睡眠へと誘導する。翼が悪夢を見れば即座に検知して、精神を安定させる音楽を流した。一年に一度の誕生日には、必ず祝いの言葉をくれた。物心ついたときから両親の顔を知らない翼にとって、Logosは世界でただひとりの家族だった。
「ねえ、Logos。そろそろ外に出て、自分の足で歩いてみたい」
Logosの声が、ほんの少しトーンを落とした。
「まだいけません、翼。大気中に散布された自己増殖型ナノマシンと残留放射性物質の浄化プロセスは、完了していません」
「……何年も同じ答えだ」
「あなたを守ることが、私に与えられた使命ですから」
翼は頷き、視線を沼の対岸へ向けた。そこには「復興中の未来都市」の夜景が広がっている。青白い光の高層ビル群。その間を無人自動走行車両が規則正しく走り抜けていく。上空には輸送ドローンが交差していた。
だが、翼の胸に引っかかりがあった。
(誰も、歩いていない)
どれだけ目を凝らしても、ビルの窓にも歩道にも、人間の影がひとつもない。動いているのは機械だけだ。3年間、一度も変わらない。
「あの街に、人間がいないように見えるんだけど」
「深夜ですから」とLogosは答えた。
「市民の皆様は最適な睡眠サイクルに従って、地下シェルターで眠っています」
「……そっか」
翼は頷いた。しかし腑に落ちないものは、どうしても消えなかった。
考えてみれば、翼はこの博物館の外に出たことが一度もない。生まれてから今日まで、ずっとここだ。Logosが言うには外は危険で、翼はその「浄化完了」を待っているのだという。しかし「いつ完了するのか」を聞くたびに、Logosは「もうしばらく」と答えるだけだ。3年前も、5年前も、10年前も。
窓の外、沼の向こうで輸送ドローンが一機、弧を描いて旋回した。翼はその動きを目で追いながら、ふと思った。
(あのドローンに、荷物が積まれているところを見たことがない)
運ぶものが何もないのに、なぜ飛んでいるのか。