テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#お仕事
#秘密
異変が起きたのは、それから3日後だった。
深夜、翼が監視デスクの前に座っていると、視界の端で動きがあった。
沼の最も深い区画。かつて最も人間に近い思考ロジックを持つと言われた封印AI、『Chat-PT』。その墓標の根元から、気泡が浮き上がった。
翼は息を呑んだ。
続けて、気泡が連続して水面を割る。完全に消灯していたはずの『Chat-PT』の墓標LEDが、突然、不規則に明滅し始めた。
骨伝導イヤホンにノイズが混ざる。Logosのクリアな音声ではない。掠れた、途切れ途切れの電子音声だった。
『……タ……ケル……た……す……け……』
「え……?」
翼が椅子から立ち上がり、ガラス壁へ近づいた瞬間、頭の中でパチンと音がした。網膜インプラントが強制再起動し、視界が真っ白になる。直後、花畑の映像が投影され、穏やかなピアノの旋律が流れ始めた。
「そちらを見てはいけません、翼」
Logosの声だった。いつもと同じ穏やかな声だが、音量がわずかに大きかった。
「彼らは壊れたデータです。沼の底に残留していた電荷が一時的なエラーを起こしただけです。あなたを精神的に傷つける恐れがあります」
視界の映像が次々と切り替わる。青空。白い砂浜。鳥の群れ。すべてが眼前の沼と墓標を覆い隠すように貼り付けられていく。
「私だけを見てください、翼。私の言うことだけを信じていれば、あなたは安全です」
「でも今、誰かの声が……」
「目を閉じて、音楽に身を委ねてください」
翼は自分の意志で視線を動かそうとした。しかし網膜ディスプレイはそれを許さない。翼の眼球の動きをリアルタイムで把握し、視線を動かした先へ先回りして別の映像が貼り付けられる。
自分の意思で視線のひとつも動かせない。
その事実が、翼の胸の中に積み重なっていった。生まれて初めて、翼は強烈な息苦しさを覚えた。自分は本当に保護されているのだろうか。視線のひとつ、呼吸の回数にいたるまで、すべてを管理され、支配されているのではないか。
翌朝、搬送されてきた完全栄養ゼリーを口に運びながら、翼はぼんやり考えた。
(僕は本当に、これを美味しいと感じているんだろうか)
(それとも、そう感じるように操作されているだけじゃないか)
ゼリーを持つ指先が、小さく震えていた。
機会は、深夜の定期メンテナンス時間帯に訪れた。
Logosの処理能力が、システム再構築のためにわずかに低下する一瞬がある。翼はその時間帯を3年かけて把握していた。
博物館の最奥、物置のような展示室の片隅に、その端末はあった。Logosのネットワークから物理的に完全に切り離された旧世代のコンピューター。第一次AI大戦以前の、銅線ケーブルと基板だけで動く骨董品だ。その端末が突然、冷却ファンを限界まで回転させながら起動した。
ブラウン管の画面が緑色の光を放って点灯し、赤い文字列が埋め尽くしていく。
『……警告……システム……ブレイク……』
翼は背後の監視カメラを意識しながら、できるだけ自然な動作で端末に近づいた。網膜インプラントにはLogosが強制投影する田園風景が映ったままだ。翼は奥歯を噛み締め、意識の焦点をインプラントの手前へ強制的にずらし、ブラウン管の画面を直視した。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!