裏路地の奥の公然の秘密の礼拝堂に、地下墓地に詰めかけたウィルカミドの人々が押し合い圧し合いになって、奥へ奥へと雪崩れ込んでいく。誰も粛清を目に見てなどいないが、大地を唸らせ、空を嘶かせる轟きを耳にした。あれが我々を焼き尽くす粛清の音だと異教の人々は恐れ戦き、鼠のように地下へと逃げる。
ベルニージュは四阿のすぐ脇で、ユビスとともにその時を待つ。逃げ遅れてやって来た人々を招き入れるうちに、遠くから迫る地響きが聞こえ始めると、斜めになった屋根の下へ潜り込む。一人だけ自分の馬を――それも毛むくじゃらの怪馬を――連れ込んでいることに文句を言う者はいなかったが、ベルニージュとて遠慮し、四阿の屋根の下で覚悟を決める。
何が何だか分からないまま声を潜める者、幽霊のようにすすり泣く者、いつもと変わらず泣き叫ぶ赤ん坊、静かにしろと怒鳴る不届き者。沢山の人々が、しかし生き延びるという同じ意志の下に地下墓地に集まり、広間を満たす恐怖と不安がない交ぜになっている。
とにかく奥へと逃げ込む人々とは裏腹に、ベルニージュは入り口近くから見える雲一つない青い空を見上げていた。まるで幸いが訪れる兆しのように晴れやかだ。その狭く深い空の中にユカリとレモニカの姿は見えない。
そして、とうとう海嘯がやってくる。雷を貯め込んだ雲がまるごと落ちてきたかのような轟音がベルニージュの耳を塞ぐ。沢山の悲鳴が地下から響いているが、隣に立つ者の声さえ聞こえない。ベルニージュは賭けに巻き込んだユビスの鬣を握りしめる。
地の揺れは徐々に激しさを増し、ついには空が闇に覆われる。神々に挑むべく巨人の蛮族が鯨波を立て、嘶き猛る巨大な馬を駆って、気高くも嫋やかな古の文明都市を蹂躙するが如く、泡立ち逆巻く大水がウィルカミドの街を覆い、高い空に蓋をする。あと少しで地下に入れるというところで恐ろしさのあまり蹲ってしまう者がいる。邪な神に出遭ったかのように暗くなった空を煽いで、立ち竦む者がいる。しかし誰も、少なくともベルニージュの見える範囲で、水に押し流される者はいなかった。
心臓を鷲掴みにするような激しい音と、底知れぬ暗闇にウィルカミドの街が沈んでいたのは振り替えってみればとても短かったが、いつ終わるとも知れない災厄を目の当たりにした恐怖の時間は水飴のように引き延ばされて感じた。
しばらくして、暗闇が、暗闇だけが引いていく。太陽の下にあるべき本来の明るさではないが、青やかな光の下、街の姿が再び露わになる。轟音は南へと立ち去り、代わりにはっきりとしないくぐもった音に街は囲まれる。
ベルニージュはユビスを連れて屋根の下から出てきて、救済機構から隠れられていなかった秘密の広場から出て行き、裏通りを抜けて、大通りに至る。
まるで空気で造られた神殿の中にいるかのようだ。強力無比に押し寄せたはずの海水が硝子の壁に隔たれているかのように流れ込めないでいる。はっきりとは見て取れないが、空気と水の境界面で光が歪み、荘厳な神殿の輪郭を象っているのだと分かる。内装までは分からないが、屋根や壁の形、意匠までがくっきりと表されている部分もある。それはユカリが真珠像の淑女アギノアとともに訪れた場所、この数日の間にベルニージュ自身も何度も訪れた、ウィルカミドの街の東にある浄火の礼拝堂と同じ様式だ。
これはかつてこの地に存在した神殿であり、そして形を失ってなお、今もこの地には神殿が、常人には見えない影のように存在していたということだ。
ベルニージュの内に稲光のような思考が巡る。何をもってこの神殿は存在せしめているのか。今の人々の強い信仰に神が応えたのか、あるいは古の人々が仕込んだ巧みな魔術の為せる業なのか。
ようやく自分たちが助かったことに、ここが黄泉ではないことに気づいた人々が、その不思議な風景を見ようと通りに現れ始める。
ベルニージュは空気の屋根を眺め、その向こうの水面を見つめる。目測でおおよその深さを推測するが、分かったところでどうにもなりそうにはない。あの高さであれば高地は犠牲になっていないだろう、と分かる。とはいえ海面まで泳げる者、そこから陸地まで泳げる者となると限られてくる。
街を巡ってみて、その全てが助かったわけではないことをベルニージュは知る。確かに一つの建物としてはあまりにも巨大だが、ウィルカミドの街を全て覆っているわけではなかった。
しとどに濡れた者を見かけて話を聞くと、押し流されてこの空間に入り込んだそうだ。そのような幸運を授かった者は稀だろう。
ふと、空気で造立された透明な神殿の妙な形に気づく。元々建物があった場所に海が入れないのかとベルニージュは思っていたが、正確には少し違うようだ。何の様式も見て取れない壁や、他の美的感覚とは相容れない真っ直ぐに水平な天井があった。
おそらく、とベルニージュは推理する。建物だけではなく、神殿の敷地だった場所にも水は侵入できないのだろう。であればこそ、かつて何かの物体が占めていた空間だけではなく、建物の中などの広々とした空間にも海の眷属は侵入できないでいるのだ。そうでなければ、犠牲はより多かった。
「ベルニージュさま」と粉を口に含んだようなぼそぼそとした声で話しかけられ、振り返り、少しだけ退く。
そこにいたのは大頭だった。曲がった背で、箒の代わりに杖を突き、精一杯顔を上げて、ユビスには目もくれずベルニージュを凝視している。
「ああ、大頭さん。お加減は?」
「ええ、お陰様で体調もこれ、この通り」と大頭は言ったが、ベルニージュにはどの通りなのか分からなった。
「むしろワタシのせいで倒れてしまったように見えましたけど」とベルニージュは冷ややかな目を向けて言う。
「滅相もございません」と大頭はゆっくりと首を振って言った。「ところでいったいこれは何が起こっているのですか?」
「さあ、この水に関してはワタシにも詳しいことは。でも、水から街が、あるいはこの空間が守られていることに関して何かご存じなのでは?」
「いえ、ただ、パデラ様の思し召しであろうとしか」と大頭はもごもごと言うが、何かを隠している様子ではないとベルニージュは判断する。
ふと、ベルニージュは見覚えのある人物を見かける。
「とにかくもう少し調べてみます。大頭さんにはシグニカの歴史を教わりたかったんですけど、今はそんな場合じゃないですね」
「また落ち着いた時に――そんな時が来るか分かりませんが――その時は私の知りうる限りのことをお教えましょう」
ベルニージュは微笑みを残し、さっき見かけた見覚えのある人物の背を追いかける。地下墓地に続く裏道に入ろうとしているところに声をかけた。
「ネドマリアさん。ご無事だったんですね」と言うベルニージュの声は思いのほか弾み、自分が思っていたよりも心配していたことに気づく。
ネドマリアの方もぱっと花開くように笑顔を見せて再会を喜ぶ。「ああ、ベルニージュ。良かった。無事だった。とても大きな馬だね。ごめんね、宝石店に戻れなくて。ちょっと別の用事ができてしまって立ち寄れなかったんだ」
ネドマリアに首を撫でられてユビスは気持ちよさそうに嘶く。
「いえ、ワタシもネドマリアさんをあの隠れ家で待てなくて、申し訳なく思ってたので、気にしないでください」
「色々話すべきことはあるけど」ネドマリアは水に形作られた屋根を見上げる。「これはすぐには語り尽くせないね。それより首尾はどうだった?」
「大仕事に関しては悪くないですね。魔導書をさらに二つ手に入れて、シグニカでは計四つ手に入れました」
「わあ。それは良かった」との言葉とは裏腹にネドマリアは悪そうな笑みを浮かべる。「これでベルニージュもユカリに引けを取らない大悪党だね」
ベルニージュは妙なむず痒さを覚えつつ控えめに頷く。「それでネドマリアさんの首尾は? お姉さんの情報は手に入りました? というか何で隠れ家に戻って来れなかったんです?」
「まあ、立ち話もなんだし、と言っても今この状況でお茶や食事できるところなんてないか」そう言ってネドマリアは辺りを見渡す。
大通りにはちらほら人が出てきているが、状況を把握しようにも何が何だか分からず、呆然としている者が大半だ。
「干し肉くらいならありますけど。確か背嚢にまだあったはず」
「良いね。干し肉。お酒があるとなお良い」
「ないです」
二人はやってくる人とすれ違う裏道を通り、地下墓地へと向かう。ユビスは秘密の礼拝堂に入る家の前で待たせる。
「ユカリとレモニカが地下への避難を呼びかけてたね。私は余所者だから、どこにそんなものがあるのか分からなかったけど」と言ってネドマリアは苦笑する。
「ああ、そっか。すみません。ワタシがあそこに逃げろって言わせたんです」その失念によって犠牲になった者もいるかもしれない、と想像する。「でもこの状況ですし、もう地下に行く必要はないですけど」
「いや、元々用があったんだよ、隠された浄火の礼拝堂にね。姉のことで」ネドマリアがベルニージュの赤い瞳を覗き込む。「ところでどうして地下に逃げるように言わせたの? 普通なら高台だと思うけど、こうなることを知ってた?」
「前にも似たようなことがあったんです。ここまで広い範囲だとは思わなくて、地下に逃げてもらったけど」
ユカリ曰く、フォーリオンの海は海神ルピーヴァの眷属らしい。それを聞いて、月の眷属たる《熱病》が夜の神の領域に侵入できなかった、アルダニ地方での出来事をベルニージュは思い出したのだった。つまり廃れたはずの女神パデラに救われているということになる。
「それにしても二か月ほど前は海のど真ん中で空高く持ち上げられて、今度は陸に上がった海に沈められるとはね」ネドマリアは皮肉たっぷりの笑みを浮かべて言う。
「つくづく、シグニカではフォーリオンの海に虐められていますね」とベルニージュは自嘲気味に言い、二人で笑う。笑い飛ばそうとする。
多少減っているが、まだまだ地下墓地に人はいて、恐怖の余り動けないが、外の様子を気にしてはいた。
ベルニージュとネドマリアはもう安全だと呼びかける。保証は全くできないが、ずっと地下墓地に閉じこもっている訳にもいかない。しかしその呼びかけだけで外へ踏み出した者はわずかだった。
二人はさらに地下へ、大頭が掃除していた広間からさらに地下へと進む。人々はまだまだいるが、そこから先は掃除されていない。普段はだれも立ち入らないということだ。一つの広間からいくつかの道が伸びていて、そのまた向こうに広間が接続し、別の道へと伸びている。広間も全てが墓室というわけではないらしい。
とうとう他に人がいなくなったのは、地上の明かりの届かない蝋燭の一つも灯されていない深みだった。
「当てて見せようか? 何を考えているか」とネドマリアは言った。「ちょっと散歩してみたいなって思ってるでしょ」
「ワタシなら、探検という言葉を使いますけどね」
暗闇の向こうにはまだまだ古い魔法の気配を感じる。それは黄昏の境の森の奥から聞こえる意味深な囁き声であり、世の果ての谷底にぼうっと灯る燐の火影であり、渇いた獣も近寄らない沼の誘うような花の香りだ。
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