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「まるで迷宮ですね」とベルニージュは呟き、干し肉の包み紙を千切り捨てる。「地上の神殿よりも広そう」
干し肉の油を吸った包み紙にはベルニージュの熱を帯びた呪文も染み込んでいて、石畳の上で燃え上がり、帰りの目印であるとともに小さな明かりにもなった。
進めば進むほど古の魔法の息遣いは気配を強め、天井の穹窿の重なりから、壁を覆う陶板の目地から、澱んだ濃密な神秘が漆の樹液のように滲み出る。時折哀れな髑髏の姿を見かけるが、それはこの地下墓地に埋葬された者たちではなく、勇敢にして不遜なる墓荒しのようだった。
「うん。ワーズメーズの気配に似てる」ネドマリアは干し肉を齧りながら言う。「ちょっと懐かしい気分だよ。あそこみたいに出鱈目ではないけど、でも狭いぶん、濃いかも?」
「一体何があるんだと思います? ただの地下墓地にしては広すぎるように思いますが」
「パデラ信仰についてはあまり詳しくないかな」
「神代のシグニカを治めた女王です。火と魔法を地上にもたらし、人間に分け与えた者。最初の魔法使いで、だから古の時代にはシグニカは魔法使いの聖地でした」
「神様は全員魔法使いみたいなものでしょ?」
「まあ、そうですけど。一番すごい魔法使いです。最古の戦の後、全ての巨人の亡骸を灰に帰したとされているのがパデラですから」
「詳しいね。だとすると、ここにはものすごい魔法が隠されているかも」
ベルニージュは乾いた骸を見つめて言う。「もう盗まれているかもしれないですけどね」
「何かは見つかるよ、きっと」
「ネドマリアさん。止まって。その床材。ちょっと浮いてる」
ベルニージュの指摘に、ネドマリアは子兎のように跳ねて通路を退き、腰を屈めて床を探る。「本当だ。よく気づいたね。罠?」
ベルニージュも隣から覗き込み、浮き上がった石材に積もった埃を慎重に払う。そこには古の呪文がいま彫り刻まれたかのように磨滅せず記されていた。とても古くからあるが今のシグニカの人々には伝えられなかった素朴で神聖な言葉だ。火の神とその徳を称える聖句であり、その神の苛烈さと信徒のあるべき振る舞いが記されている。
「似たようなものを見たことがあります。罠ではないけど、罠のように機能するんです」とベルニージュは考えを絞り出すように話す。「たぶん大昔に、当たり前に人が出入りしていた時代から存在するんでしょうね」
「なるほど。聖なる言葉を踏めば天罰が下る、と。じゃあ、そこだけ浮いてるんじゃなくて他が摩耗して沈んでるってわけだ。勉強になったよ」
ベルニージュははにかみながらさらに説明する。「今は廃れた昔の聖なる土地なんかを探索して稀に引っかかる魔法使いがいるんです。本当に廃れた土地なら力も弱まっているものですけど、ここは危ないと思います。罠として仕掛けられたものじゃないから、意識の死角になってしまうのかも」
「ベルニージュがいれば、百人力だね。迷宮に関しては私の方が得意だろうから手助けしようって意気込みだったんだけどな」
ベルニージュは照れ臭くなって、小さな明かりをばらまきながら、薄暗闇の新たな広間を見渡し、別の話題を探す。
「そうだ。まだ質問に答えてもらってない。お姉さんのこと、何か分かりました?」
「うん。姉と再会したよ」ネドマリアは何でもないことのように言った。「まさか手がかりを探していたら本人と再会できるなんて驚いたよ」
ベルニージュはさっと振り返り、ネドマリアと正面から向き合う。ネドマリアは小首を傾げて幽かな笑みを浮かべて見つめ返す。
「それは驚きますよ。お姉さん、生きてたんだ」と思わず口走ってしまってベルニージュは縮こまる。「すみません。失礼なことを」
ネドマリアは朗らかに笑ってベルニージュの無礼を受け止めた。
「いいよ。私も同じように思ったからね。あ、生きてたんだってさ。何せ二十年だからね」
そう言ってネドマリアはベルニージュが部屋の端に置いた明かりを見つめる、どこか寂しげな眼差しで。
ネドマリアが手放しで喜んでいない訳がベルニージュには分からない。再会したはずの姉がそばにいないことに関係があるのだろう、と想像する。どこまで踏み込んで尋ねていいのかも分からない。
「でも良かったです」そして気になっていたことを尋ねる。「でも、そうするとネドマリアさんはお姉さんとワーズメーズに帰るんですか? 故郷、なんですよね?」
ネドマリアははっと顔をあげて薄闇の向こうのベルニージュを見据える。
「その発想はなかったよ。それもいいね。正直なところ、これからどうしようって思ってたんだ。自分の生き甲斐のようなものだったからさ、姉を探すことがね。でも、生きてると分かってほっとして、ほとんど会話もせずに別れちゃった。生きてるなら良いかなって。話したいことも色々用意していたはずなんだけど、思い浮かばなかった。それに忙しそうだったし」
そういうものなのだろうか。ベルニージュは想像してみるが、分からない。自身に兄弟姉妹がいるという感覚も全く記憶にない。兄弟姉妹というものはもっと分かちがたいもので、だからこそネドマリアは生涯をかけて姉の行方を求めたのではないのか。
「つまりお姉さん探しの次は生き方探しですね」とベルニージュは古い地下墓地の壁に刻まれた文字を当たり前のように読み解きながら言う。
ネドマリアはベルニージュの背中越しに覗き込みながら言う。「生き方探しか。良いね。確かに考えてたんだよね、これからどう生きようかって。生き方を探す生き方も悪くない」
ベルニージュは後から通路が鎖されたらしい造りの違う壁を見つける。積まれた煉瓦は雑な割に、こと細かく文字が刻まれている。まるで急いで刻みつけたかのような雑な筆致だ。
「生き方、何か候補はありますか?」とベルニージュはネドマリアに尋ねる。
「そうだなあ。まだ姉が今どういう風な生き方をしているのか分からないんだけど、あまり楽ではなさそうなんだよね。だから何かお手伝いできたならいいな、とか。ああ、でも、姉が生きていると知ってれば犯さなかった罪もあるんだよ。後悔はしてないけど、昔の純真無垢な妹、ネドマリアちゃんのまま再会できたら良かったな、とか考えちゃうね」
ベルニージュは見たことのない強力な呪文を読み解いていて話半分に聞いていた。
「それはそれとして」とネドマリアは気にせず続ける。「人攫いへの憎しみは消えちゃいない。救済機構を罰してやりたい。海の底に閉じ込めてやりたいね。閉じ込められてるのは私たちだけど。ねえ、もしかしてその壁の封印を解こうとか、思ってる?」
「いや、思ってないですよ。まさか。思ってはいなかったんですけど。でも好奇心って恐ろしいですよね」とベルニージュは言って、数歩下がる。
途端に積み上げられた煉瓦が呪文の楔から解き放たれたかのように一つ一つ砂へ還っていく。真ん中の煉瓦が、天井近くの煉瓦が、壁近くの煉瓦が不規則に流れ出していく。
「わざとじゃないですよ」ベルニージュは説明する。「正確には封印ではなく罠だったようです。記された呪文を読み解くことそのものが鍵だったみたいで」
全ての煉瓦が砂に還り、現れた穴は真っ暗だ。すぐそこに壁があるのか、通路があるのか、広間があるのか、判断がつかない。静まり返った地下墓室に、その暗闇の向こうから聞こえてきたのは腹の奥から響くような獣の如き唸りだった。