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第六話「罪の重さ、あるいは眼帯の意味」
三学期が始まった。
始まった、という言葉が正しいのかどうか、灰次には分からなかった。時間は確かに動いている。カレンダーは一月になっていて、教室には生徒が戻ってきて、授業が再開した。でも灰次の中では何かが止まったままで、時間だけが外側を流れていく感じがした。
川の底に沈んだ石みたいに、ただそこにある。水は流れていくけれど、石は動かない。
灰次は毎日学校に来た。
来なければよかったのかもしれない。でも来なかったら、もっと悪いことが起きる気がした。家にひとりでいたら、あの日の準備室が頭の中で繰り返されて、止まらなくなる気がした。だから来た。ただ席に座って、黒板を見て、チャイムが鳴るのを待った。
授業の内容は何も入ってこなかった。
藍は三学期から登校していなかった。
入院している、という話は耳に入った。左目に重篤な損傷、という言葉も、どこかから流れてきた。灰次はその言葉を聞いたとき、教室の自分の席で、ただ前を向いていた。表情が動かなかった。動かし方が、分からなかった。
泣けばよかったのかもしれない。
でも泣けなかった。
泣く資格があるのかどうか、分からなかったから。
やったのは自分だ。咄嗟だった。思考より先に体が動いた。それは本当だ。でも、やったのは自分だ。藍の顔に塩酸をかけたのは、この手だ。
右手を見た。
制服の袖から出た、自分の右手。何も変わっていない。傷もない。きれいなままだ。
それが、おかしいと思った。
二週間後、藍が登校してきた。
灰次はそれを、朝のホームルームで知った。担任が「葛城さんが今日から登校します」と言って、扉が開いた。
灰次は前を向いたまま、視線だけを動かした。
藍が入ってきた。
制服は変わらない。髪も変わらない。歩き方も、背筋の伸び方も、変わらない。
ただ、左目に眼帯をしていた。
白い眼帯。それだけが、違った。
クラスがざわついた。ざわめきは一瞬で、藍が席に着くと静かになった。藍はいつも通りの顔をしていた。表情を崩さない。誰とも目を合わせない。ただ前を向いて、座っていた。
灰次は藍の方を見ることができなかった。
休み時間になると、クラスの空気が変わった。
ざわめきは灰次の方に向いた。
最初は小声だった。でも灰次の耳には届いた。
やったのあいつだろ、とか。最悪、とか。どうかしてる、とか。
いつものいじめとは違う温度だった。いつもは無視か、軽い悪意か、そのどちらかだった。でも今日のそれは、もっと重かった。根拠のある悪意、という感じがした。実際に何かをした人間への、正当な怒り、という顔をしていた。
灰次は机の上の教科書を見ていた。
文字が滲んで見えた。
泣いているのかと思ったが、違った。ただ焦点が合わなかった。
消しゴムのかすが飛んできた。
紙が投げられた。
椅子を蹴られた。
灰次はそれを全部、ただ受け取った。
今回は、反論する言葉がなかった。いつもの嫌がらせは理不尽だったから、心のどこかで自分を守る言葉があった。でも今回は、なかった。
やったのは、自分だから。
昼休み、灰次はひとりで屋上への階段の踊り場に行った。
誰も来ない場所。藍と話した場所。
階段に座って、膝を抱えた。
静かだった。
静かだから、あの日の音が戻ってきた。ガラスの割れる音。液体の飛ぶ音。藍の声。声ともつかない、あの音。
止めようとしても止まらなかった。
灰次は膝に顔を埋めた。
泣けなかった。やっぱり泣けなかった。泣けたら少し楽になるのかもしれないと思ったが、何かが詰まっていて、出てこなかった。
しばらくそうしていた。
チャイムが鳴って、五時間目が始まった。
灰次は立ち上がって、教室に戻った。
放課後、灰次は真っ直ぐ帰ろうとした。
図書室には行けなかった。行ったら藍を思い出す。あの窓際の席を思い出す。隣に座っていた気配を思い出す。
昇降口で上履きを脱いでいると、後ろから声がした。
「尖崎さん」
知らない声だった。振り返ると、二年生の女子が二人立っていた。藍と同じクラスだと思った。顔は知っていたが、名前は知らなかった。
「ちょっといい?」
いい、と言える状況じゃないことは分かっていたが、灰次は頷いた。
連れて行かれたのは、昇降口の脇の、人目につかない場所だった。
二人は灰次を挟むように立った。
「藍のこと」と一人が言った。「どう思ってるの」
灰次は答えられなかった。
「謝りもしないの?」
「謝って済む話じゃないけど」ともう一人が言った。「でも謝罪もないってどういうこと」
灰次は黙っていた。
謝れていない。病院に行けていない。連絡もできていない。それは本当だ。謝りたくないわけじゃない。でも、どんな顔で謝りに行けばいいのか、分からなかった。何を言えばいいのか、分からなかった。どんな言葉を並べても、あの眼帯の前では、全部が嘘みたいになる気がして。
「……すみません」と灰次は言った。
「私たちじゃなくて」
「分かってます」
二人は少しの間灰次を見て、それから行ってしまった。
灰次は昇降口の壁にもたれて、しばらくそこにいた。
外は夕方の光で、オレンジ色だった。きれいな色だと思った。きれいだと思える自分が、少し嫌だった。
その夜、灰次はスマートフォンを持ったまま、一時間動けなかった。
画面には、藍とのトーク履歴が開いていた。
最後のメッセージは、事件の前日だった。
『明日、会える?学校に用事があって。一緒に来て』
『行きます』
その二行の下に、何も続いていなかった。
灰次は文章を打っては消した。何度も。
ごめんなさい、と打った。消した。
あのとき、と打った。消した。
私は、と打った。消した。
何を言えばいいのか分からなかった。ごめんなさいは本当だ。でもそれだけじゃ足りない。何を言っても足りない気がして、でも何も言わないのは違う気がして。
結局、何も送れなかった。
スマートフォンを伏せて、天井を見た。
藍の右目が、頭から離れなかった。
指の隙間から見えた、あの目。責めていなかった。怒っていなかった。ただ灰次を見ていた。
なぜ責めなかったのか。
なぜあの目は、ああいう色をしていたのか。
灰次には分からなかった。分からないまま、夜が深くなった。
藍が登校するようになって、一週間が経った。
二人は一度も話していなかった。
廊下ですれ違うことがあった。灰次は反射的に視線を逸らした。藍がどんな顔をしていたか、見られなかった。見てしまったら、何かが崩れる気がして。
でも一度だけ、見てしまった。
放課後の廊下で、藍が窓の外を見ていた。灰次は角を曲がってすぐにそれに気づいたが、止まれなかった。歩いてしまった。藍の横を通りすぎようとして、
藍が振り向いた。
眼帯のない側の目が、灰次を見た。
一秒、二秒。
灰次は動けなかった。
藍は何も言わなかった。ただ見ていた。いつもの目で。暗くて、深くて、熱い目で。眼帯がある分、その目の重さが、前より増した気がした。
灰次は先に目を逸らした。
そのまま歩いた。早足で、でも走らないように。
角を曲がってから、壁に手をついた。
心臓が変な音を立てていた。
怖い、と思った。
でも——
怖いだけじゃない何かが、胸の奥にあった。
それが何なのか、灰次は考えたくなかった。
藍は、眼帯に慣れなかった。
慣れる必要があるのは分かっていた。左目の視力は戻らない、と医者に言われた。戻らない、という言葉を聞いたとき、藍は静かに頷いた。動揺しなかった。動揺する理由がなかった。
自分がしようとしたことの結果として、これがある。
因果は正しい。
ただ、誤算だったのは——灰次が抵抗した、ということではなかった。
誤算だったのは、抵抗した灰次を見て、もっと好きになった、ということだった。
床に崩れ落ちたとき、指の隙間から灰次を見た。灰次は壁際に座り込んで、膝を抱えて、震えていた。でも逃げなかった。呼んでも来ない場所に逃げるのではなくて、ただそこにいた。
ずっと自分に依存していると思っていた。
でも違った。
依存しながら、それでも、ぎりぎりのところで自分を持っていた。
それが——
それが、たまらなかった。
眼帯を鏡で見るたびに、藍は灰次のことを考えた。
これは罪の証拠ではない、と思った。
これは愛の刻印だ、と思った。
歪んでいることは分かっている。でも藍の中ではそうだった。この眼帯がある限り、灰次のことを忘れない。忘れられない。それは呪いじゃなくて、むしろ——
望んでいることだった。
一月の終わり、灰次のスマートフォンに通知が来た。
藍からだった。
灰次は画面を見て、三秒動けなかった。
通知を開いた。
『元気?』
それだけだった。
たった二文字。たった二文字が、灰次の中で何かを揺さぶった。揺さぶって、壊して、また組み立てようとして、うまくいかなかった。
元気、なはずがなかった。
でも元気じゃないとも、言えなかった。
灰次はスマートフォンを持ったまま、しばらく動かなかった。
返信を打った。消した。打った。消した。
最終的に、送ったのは一言だった。
『……ごめんなさい』
送ってから後悔した。こんな状況でごめんなさいの一言は、軽すぎる。でも取り消せなかった。
しばらくして、返信が来た。
『謝らなくていい』
灰次は画面を見た。
謝らなくていい。
謝らなくていい、とはどういう意味か。許す、ということか。それとも別の何かか。灰次には読み取れなかった。
また返信が来た。
『また話したい』
また話したい。
その四文字が、灰次の中で膨らんだ。膨らんで、破裂しそうになった。また話したい、と言っている。塩酸をかけられた相手が。左目を失った相手が。
なぜ。
なぜそんなことを言えるのか。
なぜ怒らないのか。
なぜその目は、ああいう色をしているのか。
灰次はスマートフォンを持ったまま、床に座り込んだ。
壁にもたれて、天井を見た。
返信できなかった。
できなかったけれど、メッセージを閉じることも、できなかった。
ただその四文字を、画面の中に見ていた。
また話したい。
また話したい。
怖い、と思った。
でも——
でも灰次の中に、もっと正直な感情があった。
うれしい、と思っていた。
それが一番、灰次には怖かった。
#年の差
コメント
2件
サムネイルに魅力がありすぎる💕こういうの、好き