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あの嵐の日、絶望の淵で黄金の光に救い上げられてから、数ヶ月。
実家の忌まわしい呪縛から解き放たれた私は
ディオール様の屋敷で、かつての自分が夢にさえ見なかったほど穏やかな日々を過ごしていた。
そんなある日の夕暮れ
窓の外が、あの日と同じような激しい雨ではなく、燃えるような茜色に染まる時刻。
私はディオール様に呼び出され、彼の執務室の重厚な扉を叩いた。
「失礼いたします、ディオール様。お呼びでしょうか?」
いつものようにメイドとして完璧な一礼をする私。
けれど、机に向かっていたディオール様は
どこか決意を秘めたような表情で、引き出しから一枚の書類を取り出した。
そして、驚く私を余所に、それを迷いなくその手で破り捨てたのだ。
「え……? ディオール、様……?」
ハラハラと床に散ったのは、私がこの屋敷に来た日に交わした、メイドとしての雇用契約書だった。
一瞬にして、頭の中が真っ白になる。
私、何か粗相をしただろうか。
それとも、もう家族の問題も片付いたから?
役に立たなくなったから、クビにされてしまうの……?
不安で膝が震え出した私の前で、ディオール様は静かに椅子から立ち上がり
あの日、崖の上で私を抱きとめてくれた時と同じように、私の目の前で片膝をついた。
「驚かせてすまない。……ラヴィ、今日でメイドとしての君との契約は終了だ。これからは、契約で縛る関係ではなく、別の形で私のそばにいてほしい」
彼はそう言うと、ベルベットの小さな箱を差し出した。
蓋が開かれると、そこには夕陽を浴びてキラキラと輝く、私の瞳の色に似た紫色の宝石がついた指輪が収められていた。
「メイドではなく、僕の妻として、一生君を甘やかしたいんだ。……僕と結婚してくれないだろうか」
「……っ!」
心臓が、跳ねるのを通り越して止まってしまいそうだった。
耳に届いた言葉の意味を理解しようとするたび、顔が火が出るほど熱くなる。
「ディオール様のような素敵な紳士様に告白されるなんて、夢にも思っていなくて……っ。あ、あの……ごめんなさい……こんなに嬉しいことを、なんと言ったらいいのか分からなくて……っ」
溢れ出してくるのは、言葉ではなく涙だった。
ボロボロのゴミのようだった私を、こんなに美しい指輪とともに「妻に」と言ってくれる。
そんな私を、彼は壊れ物を扱うような、どこまでも愛おしそうな眼差しで見つめた。
「それは……ラヴィも僕のことを好いてくれていると、受け取っていいんだね?」
「……は、はい……。ディオール様に女の子扱いしてもらえるのが嬉しくて……。私なんかじゃ手の届かない存在だって分かるのに……いつの間にか、好きに、なってしまっていました」
震える声で、必死に胸の奥に秘めていた想いを伝えた。
すると、ディオール様の碧眼が、とろけるような熱を持って優しく細められた。
「でも、私にそんな価値は……」
と、これまでの人生で染み付いた卑屈な言葉が漏れそうになるけれど
彼はそれを遮るように私の手を強く、けれど優しく包み込んだ。
「ラヴィ。謙遜も遠慮もいらない。僕は、君の本音が聞きたいんだ」
嘘も妥協も許さない、真剣な、熱を帯びた眼差し。
この人は、家柄でも能力でもなく、ただありのままの「私」を求めてくれている。
私は一度深呼吸をして、震える指先を、彼の大きな手のひらへと重ねた。
「……私で、いいのでしょうか。私を……ディオール様の隣に、いさせていただけますか?」
「もちろんだよ。君以外、考えられない」
ディオール様は私の手の甲に、一生を捧げるような深い誓いのキスを落とした。
唇から伝わる確かな熱に、私はまた真っ赤になって俯くことしかできなかった。
◆◇◆◇
それから一ヶ月
私たちは、まるで溶けてしまいそうなほど甘い新婚の日々を過ごしていた。
「ラヴィ、あーんして。このタルト、君の好きなお店のものだよ」
「そっ、そんなに甘やかされてはダメになります……っ!」
ふかふかのソファで私の隣にぴったりと座り
フォークでお菓子を口に運ぼうとするディオール様に、私は顔を真っ赤にして抗議した。
かつての絶望の影は消え、今ではこうして冗談めかして笑い合えるようになっているけれど
彼の溺愛ぶりは日に日に増していくばかりだ。
「ダメになってもいいよ。どんな君も可愛いんだから」
「で、でも……あ、甘やかしすぎだと思います……! 私はまだディオール様に、何もお返しができていないのに……っ」
「お返し?」
ディオール様が不思議そうに小首を傾げるので
私は勇気を振り絞って、昨晩からずっと一人で悩んでいたことを口にした。
「しょ、初夜など……っ、ディオール様の癒しになる行為も、キスも……まだ、満足にできていないのにです……っ」
「こんなに尽くしていただいて、恥ずかしがってばかりの私にご不満にならないのですか……?」
恥ずかしさで頭がどうにかなりそうだったけれど、必死に尋ねた。
すると、ディオール様は一瞬だけ驚いたように目を見開いた後
耐えきれないというように、くすくすと楽しそうに笑い出した。
「ふふっ、何を言うかと思えば、ずいぶんと可愛いことを。心配しなくても、僕は君の笑顔を見れるだけで十分に幸せだよ」
彼は私の頬に優しく手を添え、鼻先が触れそうなほど顔を近づけた。
逃げ場のない距離で、彼の甘い香りが全身を包み込む。
「顔を近づけただけで、こんなに真っ赤になって照れてしまう君のことだしね。……夜のことは、追々かな? 焦らなくても、一生かけて教えてあげるから」
「あうぅ……っ」
その先の、甘く激しい展開を想像してしまい、私の顔はさらに赤く染まった。
からかわれるのは恥ずかしいし、彼の手のひらで転がされているような心地がする。
けれど、その瞳の奥に、言葉以上の確かな愛と情熱が宿っているのが分かって、胸がいっぱいになった。