テラーノベル
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カチリ、と無機質な音を立てて鍵を開ける。吉田仁人が自宅のワンルームマンションに帰り着くのは、いつも街の喧騒が一段落した頃だ。
「……はぁ、疲れた」
独り言が暗い玄関に溶ける。靴を脱ぎ、鞄を床に置くと、それだけで一日の社会人としての義務を終えたような解放感に包まれる。
暗闇に目が慣れてくると、街灯の光に照らされた壁のポスターがうっすらと浮かび上がる。
「お疲れ、勇斗くん。」
ネクタイを緩め、窮屈なシャツから脱ぎ捨てると、ようやく一人の「オタク」としての時間が動き出す。
キッチンで適当な野菜炒めを作り、胃に流し込む。味なんて二の次だ。
今の仁人にとって、食事は「夜の活動」のための燃料補給に過ぎない。
シャワーを浴びて、使い古したスウェットに着替える。
髪を乾かし、鏡の前で少しだけ自分の顔を整える。
部屋の隅、防音マットが敷き詰められた一角に、仁人は腰を下ろす。
そこには、彼が少しずつ買い揃えた機材が並んでいる。マイクスタンド、ポップガード、オーディオインターフェース。そして、相棒のアコースティックギター。
パソコンを起動し、いつもの配信ソフトの画面を開く。
時刻は二十時。リスナーたちが待っている時間だ。
「よし。……落ち着け」
深呼吸を一つ。
配信開始のボタンをクリックすると、瞬く間に「同時接続者数」の数字が跳ね上がっていく。
『仁人くん、待ってたよ!』
『お疲れ様! 今日の勇斗くんのストーリー見た?』
『待機してました!』
画面上に流れるコメントの速さは、仁人の鼓動とリンクしているようだった。
「はい、皆さんこんばんは。仁人です。……ねー、来ちゃいましたね。見ました? 今日の勇斗くんのインスタストーリー。……もう、何あれ」
仁人は、手元のタブレットで今朝から何度も見返した動画を再生する。
楽屋で眠そうにしている勇斗の、あの無防備な顔。
「いいですか、皆さん。あの方はね、自分がどうすれば人が喜ぶか知り尽くしてるんですよ。あんな寝ぼけ眼で『撮ったな?』なんて言われたらさ……。27歳ですよ? あの人。……いや、年齢は関係ないか。でもさ、あんなの反則でしょ。確信犯ですよ、完全に。……正直ね、あの顔でこっち見られたら、俺なんてその場で溶けて排水溝に流れる自信ありますもん。いや、むしろ流してくれって感じ。……汚い? 汚くないですよ、俺の成分は全部、彼への愛でできてるんだから」
『排水溝www出た、仁人くんの持ちネタ』
『確信犯www』
『語彙力失ってる仁人くん好き』
リスナーとのやり取りの中で、仁人は今日一日のストレスを昇華させていく。
会社での彼は、自分を押し殺して普通を演じている。けれどここでは、自分の「好き」を、どれだけ捻くれた形であっても、さらけ出すことができる。
それがどんなに偏った愛であっても、受け入れてくれる場所がある。
一通りの称賛を終えた後、仁人は傍らに立てかけていたギターを手に取った。
「……じゃあ、一曲歌います。今日は、この曲を。……彼らの、あの眩しい場所に少しでも届くように。まあ、届くわけないんですけど」
少しだけ照れ隠しの言葉を添えて、弦を爪弾く。
それまで賑やかだったコメント欄が、ピタッと止まった。
スピーカーから流れるギターの音色は、繊細で、どこか悲しげだ。
仁人がマイクに向かって歌い出すと、部屋の空気が一変した。
彼の歌声は、普段の喋り方とは全く違う。
透明感があり、聴く者の心の奥底に直接触れるような、不思議な説得力を持っていた。
歌詞の一つひとつに、彼は自分の中にある「吉田仁人」としてのやりきれない日常と、「ファン」としての純粋な憧れを溶け込ませていく。
(……いつか、彼らの目指すドームに。俺も、その光の一部になれたら)
そんな祈りを込めた歌声。
仁人は気づいていなかった。その歌声が、SNSという広大な海の中で、特定の人物の心に深く突き刺さっていたことに。
配信を終え、心地よい疲労感に包まれながら、仁人は機材の片付けをしていた。
ヘッドフォンを外し、冷めたお茶を一口。
時計の針は二十二時を回っている。
「……今日も、楽しかったな」
そう呟き、何気なく机の上に置いていたスマホを手に取った。
画面には、いくつかの通知が並んでいる。
その中に、一つの通知が紛れ込んでいた。
SNSのメッセージが1件届いています:佐野勇斗 [公式]
「…………は?」
仁人は、自分の目を疑った。
あまりの衝撃に、スマホを床に落としそうになる。
「いや、嘘でしょ……。偽物だ。絶対、誰かのなりすましだ」
そう自分に言い聞かせながらも、震える指で通知をタップする。
画面が切り替わり、そこには青い認証マークがついた、あの佐野勇斗の本物のアカウントが表示されていた。
メッセージを開く。
『初めまして。M!LKの佐野勇斗です。
夜分にすみません。
偶然、SNSであなたの歌声を拝見しました。
実は今度、僕の個人写真集のティザー映像を作ることになったのですが、その映像にどうしてもあなたの歌声を使いたいんです。
あなたの歌い方や声のトーンが、僕が作ろうとしている世界観にぴったりだと思って。
突然のことで驚かせてしまったかもしれませんが、一度お会いしてお話しできませんか?
もちろん、お仕事として正式にお願いしたいと思っています。
良いお返事をお待ちしています』
「………………」
仁人は、息をすることを忘れていた。
心臓が、耳元で鐘を鳴らしているかのように激しく打っている。
(……え? 俺の歌を……聴いた? 勇斗くんが?)
メッセージの内容を、何度も読み返す。
勇斗は、仁人が自分のファンであることなど、微塵も知らない様子だった。
あくまで「偶然見かけた才能のあるシンガー」として、プロの目線で依頼をしてきている。
(……これ、夢じゃないよね?)
頬を強くつねると、確かな痛みがあった。
推しが。自分が毎日ポスターに向かって話しかけていた、あの佐野勇斗が、自分を見つけ、自分を必要としている。
しかし、喜びと同時に、猛烈な恐怖が仁人を襲った。
(待てよ。俺、さっきの配信で『排水溝に流れる』とか言ってたよな……? そもそも、毎日インスタの分析とかしてるのバレたら、どうなるんだ?)
勇斗のメッセージには「偶然見かけた」とある。
もし、彼がこの「仁人」というアカウントが、自分の熱狂的なファンであることに気づいたら、どう思うだろう。
引かれる。確実に、引かれる。
「……バレちゃダメだ。絶対」
仁人は、戦場に赴くような覚悟でキーボードを叩いた。
ファンであることをひた隠しにし、あくまで「クールでプロフェッショナルな作曲家」を装わなければならない。
『佐野勇斗様。
初めまして、仁人と申します。
この度は、身に余る光栄なお話をいただき、心より感謝申し上げます。
私のような者に大役が務まるか不安もございますが、佐野様の素晴らしい作品に少しでも貢献できるよう、精一杯取り組ませていただきます。
お打ち合わせの件、承知いたしました。
日程等は、改めてご相談させていただけますと幸いです。』
送信ボタンを押す瞬間、仁人の指は氷のように冷たくなっていた。
「送信済み」の文字が出た瞬間、彼はそのままベッドに倒れ込んだ。
ポスターの中の勇斗が、今夜だけは、少しだけこちらを伺っているように見えた。
天井を見上げながら、仁人は一人、震える手で顔を覆った。
これが、二人の境界線が音を立てて崩れ去る、長い長い夢の入り口だとも知らずに。
運命の対面を翌日に控えた夜、仁人は一睡もできなかった。
枕元のスマホを点けては、勇斗から届いた「事務所の住所」と「会議室の番号」が記されたメッセージを何度も読み返す。指先は無意識に、画面に映る『佐野勇斗 [公式]』の文字をなぞっていた。
(……明日、会うんだ。本当に)
壁のポスターに目を向ければ、そこにはいつもの完璧な笑顔。けれど、明日会うのは紙に印刷されたインクではない。呼吸をし、体温を持ち、自分に言葉を投げかけてくる「生身」の佐野勇斗だ。
仁人は頭まで布団を被り、必死にシミュレーションを繰り返す。
まずは失礼のないように挨拶をする。椅子に座る時は背筋を伸ばす。彼が自分のファンだと気づかれないよう、適度な距離感で、あくまで「仕事に真摯な作曲家」として振る舞う。
「……排水溝に流れるなんて、死んでも言っちゃダメだぞ、吉田仁人」
自分に言い聞かせ、ぎゅっと目を閉じる。
けれど、まぶたの裏に浮かぶのは、今朝見たインスタのストーリーでの、あのかっこいい自撮りだ。そんな人間が目の前に現れて、自分は果たして正気を保っていられるのだろうか。
期待と恐怖が入り混じったまま、窓の外が白み始めるのを、彼はただじっと待っていた。
指定された事務所は、都心の一等地にある、洗練された高層ビルの中にあった。
普段、事務職として平凡なビルに通っている仁人にとって、そのガラス張りの外観はまるで異世界への入り口のように見えた。
一歩足を踏み入れれば、そこは数多のスターを輩出してきた「聖域」だ。エントランスには、所属タレントのポスターや受賞トロフィーが誇らしげに並んでいる。
「……吉田仁人です。佐野勇斗様の打ち合わせで伺いました」
受付の女性に告げる声が、わずかに震える。
案内されたのは、最上階に近い場所にある会議室だった。エレベーターが上昇するたび、仁人の心臓の鼓動は激しさを増していく。
鏡のようなエレベーターの壁に映る自分は、新調したばかりのチャコールグレーのシャツに身を包んでいる。髪もいつもより丁寧にはねを抑え、清潔感を意識した。
(大丈夫だ。俺はプロだ。……そう思え。そう思い込め)
会議室の扉は、重厚な木製だった。
案内人の「こちらでお待ちください」という言葉に従い、仁人は静かに中へ入る。
広い部屋の中央には、黒い革張りの長テーブル。窓の外には、冬の澄んだ空に広がる東京の街並みが一望できた。
仁人は入り口に一番近い下座の椅子に、浅く腰を下ろした。
手元の鞄の中には、昨夜遅くまでかけて練り直した楽曲の構成案が入っている。それが唯一の、自分の盾だった。
十分ほど経っただろうか。静まり返った廊下から、軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。
仁人の全身の筋肉が、一瞬で硬直する。
「ごめんなさい、!遅くなった!」
扉が勢いよく開き、その声が響いた瞬間、会議室の空気が一気に華やいだ。
「……っ」
仁人は弾かれたように立ち上がった。
そこにいたのは、ラフな黒のパーカーに、ゆったりとしたパンツを合わせた、驚くほどナチュラルな姿の佐野勇斗だった。
テレビやライブで見る「武装したスター」の姿ではない。けれど、その等身大の姿から放たれるオーラは、あまりにも強烈で、仁人の視界を一瞬で白く染め上げた。
「初めまして! 佐野勇斗です。急に呼び出しちゃってごめんね、遠かったでしょ?」
勇斗は、人懐っこい笑みを浮かべて仁人の目の前まで歩いてきた。
画面越しに何千回と見てきたあの顔が、今、自分からわずか一メートルの距離にある。
整いすぎた鼻筋、意志の強そうな眉、そして何より、自分を真っ直ぐに射抜く、深みのある茶色い瞳。
(……本物だ。本物の、佐野勇斗だ)
「……は、初めまして。仁人と申します。この度は、このような……光栄な機会をいただき、本当に、ありがとうございます」
仁人は、練習した通りの、けれど自分でも驚くほど硬い言葉で挨拶をした。
頭を深く下げると、勇斗の足元にあるスニーカーが見えた。それさえも、特別なものに見えてしまうのが、ファンの悲しい性だ。
「そんなに固まらなくていいよ、仁人くん。俺、ずっと君の歌声、聴いてたんだから。こうして会えるの、実は俺の方が楽しみにしてたんだ」
「え……?」
仁人は驚いて顔を上げた。
勇斗は、大きなテーブルを回って仁人の隣の椅子を引くと、「ここに座りなよ」と自然に促した。
(近い。……近すぎる)
勇斗から漂う、石鹸のような清潔で柔らかな香りが、仁人の理性をじわじわと削っていく。
「あ、ありがとうございます。……佐野さんに、私の歌を聴いていただけていたなんて、……本当に驚きました」
「嘘じゃないよ。SNSで流れてきたのを聴いてさ、一瞬で『これだ!』って思ったんだ。……君の声って、なんて言うのかな。すごく切ないんだけど、その奥に強い意志がある感じがする。今回の写真集、僕にとってすごく大事な節目になる作品だから、どうしてもその『温度』が必要だったんだよね」
勇斗の話は、具体的で、情熱に満ちていた。
彼はあくまで、仁人のことを「才能ある表現者」として見つめている。その眼差しは真剣で、仕事に対する一切の妥協を許さないプロの顔だった。
仁人は、その期待に応えたいという一心で、必死に自分の動悸を抑え込み、鞄から資料を取り出した。
「……ありがとうございます。佐野さんの、今回のコンセプト……『虚像と実像の狭間』という言葉から、私もいくつかイメージを膨らませてきました。序盤は、ピアノの旋律を中心に、少し孤独を感じさせる音で始めて……中盤、佐野さんの表情が力強くなるカットに合わせて、弦楽器で一気に色を乗せていきたいと考えています」
「いい……! それ、すごくいいよ!」
勇斗が身を乗り出す。その拍子に、彼の肩が仁人の肩と僅かに触れ合った。
ビビッ、と電流が走ったような感覚に、仁人は思わず背筋を震わせる。
勇斗はそんな仁人の様子に気づいているのか、いないのか、少年のように目を輝かせて資料を覗き込んできた。
「仁人くんって、やっぱり俺のイメージ、ちゃんと掴んでくれてるんだね。……なんか、初めて会った気がしないな」
「……それは、……その、……光栄です」
仁人は、喉の奥まで出かかった「だって毎日あなたのこと考えてますから」という言葉を飲み込んだ。
勇斗は、時折大人びた表情で仕事の話を詰め、時折「これ、めっちゃかっこいいじゃん!」と子供のように無邪気に喜ぶ。その、予測できない感情の揺れ動きに、仁人は一喜一憂し、翻弄され続けていた。
一時間ほどの打ち合わせが終わり、具体的なスケジュールが決まった頃。
会議室には、少しだけ打ち解けたような、柔らかな空気が流れていた。
「今日は本当にありがとう。仁人くんに頼んで、正解だった」
勇斗が満足げに立ち上がる。仁人も慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「こちらこそ、精一杯頑張らせていただきます。……では、本日はこれで失礼いたします」
逃げるように去ろうとする仁人の背中に、勇斗の声が降ってきた。
「あ、待って。……最後にお願いがあるんだけど、いいかな?」
仁人が振り返ると、勇斗は少しだけ神妙な表情で、仁人の前に歩み寄っていた。
「……なん、でしょうか、」
「握手、してくれない?」
「え……?」
「これから、一緒にいいもの作っていくパートナーとしてさ。……よろしく、の意味を込めて」
勇斗が、大きな右手を差し出してきた。
仁人は一瞬躊躇したが、ここで断る理由などない。
「……はい。よろしくお願いいたします」
仁人は震える右手を伸ばし、その掌に重ねた。
勇斗の手は、驚くほど大きく、そして熱かった。
包み込まれるような安心感と、相反するような力強さ。
仁人は、一秒でも早くその熱から逃げたいような、けれど一生離したくないような矛盾した感情に包まれる。
だが、勇斗は握った手を離さなかった。
それどころか、空いている左手をゆっくりと伸ばし、仁人の右手の首――脈打つ部分を、そっと包み込んだのだ。
「……っ!?」
仁人の心臓が、跳ね上がった。
勇斗の指先が、仁人の薄い皮膚の上を、確かめるようになぞる。
ドクン、ドクン、と、暴走するような鼓動が、指先を通じて勇斗に伝わっているのが分かった。
「……あ、……あの、佐野……さん?」
戸惑う仁人の声を、勇斗は遮るように、さらに顔を近づけた。
その距離、わずか数十センチ。勇斗の整った顔立ちが、網膜を埋め尽くす。
彼の瞳の中に、困惑し、顔を真っ赤に染めた無様な自分の姿が映っているのが見えた。
「……仁人くん。心臓、すごい速いよ。……そんなに緊張してるの?」
勇斗の声は、先ほどまでの明るいトーンとは違い、どこか熱を孕んだ、低く甘い響きを帯びていた。
その指先が、手首の脈を、愛おしむように、そして挑発するように、ゆっくりと一周なぞる。
「……そ、それは……、こんな、憧れの……仕事ですから……」
仁人は、掠れた声で必死に応えた。
勇斗は、その答えを待っていたかのように、フッといたずらっぽく、けれど深い慈しみを込めて微笑んだ。
「……そう。お仕事、楽しみにしてるね」
勇斗はゆっくりと指を離すと、何事もなかったかのように、いつもの余裕のある笑顔に戻った。
「じゃあ、また連絡する。気をつけて帰ってね」
仁人は、もはや返事をすることもままならなかった。
手首に残る、焼けるような熱。そして、最後に勇斗が見せた、すべてを見透かしたような、それでいて何も知らないふりをした瞳。
重い扉を閉め、廊下に出た瞬間、仁人はその場に崩れ落ちそうになった。
(……バレてない。……いや、絶対、何か思われた……!)
手首を左手でぎゅっと握りしめる。そこにはまだ、佐野勇斗の体温が、鼓動と共に鮮明に刻まれていた。
それは、一人のファンとしての「境界線」が、取り返しのつかない形で踏み越えられた瞬間だった。
冬の冷たい廊下の風が、熱を持った仁人の頬を、虚しく冷やしていった。
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