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【異世界・転移した学園/体育館】
夜が来る前に、体育館の空気は一度だけ落ち着いた――ように見えた。
泣き声が途切れ、誰かが水を配り、先生が点呼を取り直す。
でも落ち着いたのは、表面だけだ。
窓の外は、森の影が濃くなっていく。
街灯もない。車の音もない。
現実なら聞こえるはずの「遠くのサイレン」すら、ここでは鳴らない。
その静けさが、逆に怖い。
「先生……家に、連絡できないんですか」
誰かが言った。震える声。
それに続いて、別の声が重なる。
「親に……俺、生きてるって言わないと……」
「弟、迎えに来るって言ってたのに……」
「ここ、ほんとに日本じゃないの……?」
先生たちが「落ち着いて」と繰り返す。
でも、言葉だけでは埋まらない穴がある。
それは――“現実がどうなっているか”という穴だ。
自分たちが消えたのか。置いてきた家が燃えているのか。親が探しているのか。
知れないまま夜になるのが、怖すぎる。
体育館の入口近くで、ハレルはその声を聞いていた。
胸元の主鍵が、じわりと温い。
熱というより、遠くで脈が打っている感覚。
(こっちが揺れてる。向こうも揺れてる)
そういう手応えだけが残る。
サキはスマホを握りしめ、残量表示を何度も見ては目を伏せた。
地図アプリは開ける。けれど、開くだけで心が削れる。
“使ったら減る”。
その現実が、今の二人には痛い。
「雲賀くん」
担任の先生が近づいてきた。声は小さく抑えているが、目が真剣だ。
その後ろに、教頭と数人の先生が並ぶ。
いわゆる「職員側の会議」が始まりそうな顔。
「君たち……外のことを、少し知っているんだろう」
ハレルは一瞬だけ息を止めた。
言いたくない。言えば“確定”する気がする。
でも、先生たちの目はもう引けない目だ。
「言えない部分があるなら、そこはいい」
教頭が、意外に冷静な声で言った。
「ただ――生徒たちが、現実の家族のことを気にしている。
何も分からないと、夜にパニックが来る。……情報が必要だ」
正論だった。
夜は、人の想像を勝手に大きくする。
ハレルは小さく頷いた。
「……俺たちも、現実が知りたいです」
それだけで、先生たちの顔が少し緩む。
同じ不安を持っていると分かるだけで、集団は少しまとまる。
「外の兵士たちに聞けないのか」
別の先生が言った。
「彼らは……王都の人たちなんだろう?」
ハレルは首を振る。
「向こう側の街のことは分かっても、こっち――現実の細かいことは分からないと思います」
それは嘘じゃない。
アデルたちは“現実”を知っているわけではない。知っているのは“座標”と“薄点”だ。
サキが小さく付け足した。
「……私たちが知ってるのも、全部じゃないです」
その声に、先生たちが頷く。
「分かった。じゃあ、どうする」
ハレルの喉が乾く。
ここで、あの名前を出すしかない。
(セラ)
橋渡し。
でも、セラは現実の人間じゃない。
“現実のニュース”を見ているわけでもない。
それでも――今頼れる線はそこしかない。
「……俺、試します」
ハレルはスマホを取り出し、胸元の主鍵を指で押さえる。
サキがそっと近づき、スマホの画面を支えるように覗いた。
「セラ」
声を出すと、体育館のざわめきが少し遠のく。
耳の奥に、白いノイズがうっすら走る。
「セラ、聞こえるか」
もう一度。
“お願い”が混じって、声が少し揺れた。
――返事は、すぐには来ない。
先生たちの後ろで、生徒が小さく泣き出した。
誰かが「大丈夫」と言い、誰かが「大丈夫じゃない」と言う。
その波が、また体育館を揺らす。
その時、スマホのスピーカーが、かすかに鳴った。
《……聞こえます》
セラの声。
遠い。薄い。けれど、確かに“いる”。
ハレルが息を吸う。
「セラ。現実は今どうなってる」
言い切った瞬間、先生たちの視線が一斉にこちらへ集まる。
生徒の何人かも、気配で黙る。
体育館が、情報を待つ耳になる。
《……私は、現実の“全部”は見えません》
セラの声は落ち着いている。案内役の声だ。
《でも……揺れています。あちこちで。
人の気配が……逃げる気配が増えている》
「逃げる?」
教頭が思わず聞き返す。
ハレルはそれを止めない。今は情報が必要だ。
《……黒い影》
セラが言う。
《人の形をした煤。獣の形もある。
あなたたちが見ているものが、向こうにも出ています》
体育館の奥で、誰かが「やっぱり」と呟いた。
“ここだけの異常じゃない”。
それが確定した瞬間、人は少しだけ落ち着く。
理由が分かる怖さは、理由が分からない怖さより耐えられる。
でも、次の言葉がそれを壊した。
《……ただ》
セラの声がわずかに沈む。
《現実側の中心は……危険すぎて近づけません》
「中心?」
ハレルが問う。
《元の刑務所。カシウスの実験施設の跡》
《座標が汚れている。
あなたがたの線が、そこへ引かれると……燃えます》
“線が燃える”
言葉の意味が、背中に刺さる。
橋が焼けたら、繋がらない。
繋がらなければ、助けは来ない。
サキがスマホを握り直した。
「……じゃあ、私たち……」
声が震える。
ハレルは言葉を探す。
「セラ、木崎さんは……」
現実側の“大人”。
ハレルたちのことを知っていて、味方で、動ける人間。
《……近くにいます》
セラが言う。
《あなたたちを探している。心配している》
それだけで、体育館の空気が少しだけ温くなる。
“探している人がいる”。
それは生徒たちにとっても救いだ。
帰れなくても、忘れられていない。
◆ ◆ ◆
【現実世界・転移現場/駅前跡地】
駅前だったはずの場所に、駅がない。
駅ビルも、ロータリーも、信号機も。
代わりに――森がある。
街路樹じゃない。幹の太い大木が何本も生え、根がアスファルトを割っている。
地面は持ち上がり、段差が崖みたいになって、元の道路の白線が途中で途切れていた。
「……冗談だろ」
木崎はカメラを握りしめたまま、ゆっくり歩いた。
人はいる。警察の規制線。誘導の声。泣いてる子ども。
でも、景色だけが“別の世界”の匂いをしている。
湿った土。苔。青い葉の匂い。
それが、駅前で嗅ぐ匂いじゃない。
崖の縁に近づくと、下に落ちた“駅の看板の欠片”が見えた。
広告パネルの一部。割れたガラス。
現実の残骸が、異世界の地面に刺さっている。
「……学園だけじゃねえ。こんな所まで」
木崎は息を吐き、シャッターを切った。
カシャ。
その音が、妙に軽い。
まるで“証拠だけ取って帰れ”と言われているみたいに。
(ハレル……サキ……)
学園が消えた瞬間を見た。
あれが嘘じゃないと分かっている。
だから余計に、想像が勝手に走る。
向こうで何を見ているのか。
今夜、誰が泣いているのか。
怖いのに、背伸びしてしまうサキの顔が浮かぶ。
「……無事でいろよ」
木崎は小さく呟き、カメラのレンズを崖の下へ向けた。
森の中で、黒い影が一瞬だけ動いた気がした。
猫みたいに軽い跳ね方。ぴょん、と。
木崎の背中が冷える。
だが足は止めない。止めたら、負ける。
規制線の向こうで警官が叫ぶ。
「下がってください! 撮影は危険です!」
木崎は適当に手を上げて返し、距離を取ったまま、もう一枚撮る。
(城ヶ峰。日下部。匠……)
線が繋がっていく。
でも、繋がった先が“救い”とは限らない。
木崎はスマホを取り出し、学園方向の地図を一瞬だけ見る。
そこにはもう、学園はない。
森と、中心の建物の影だけが残っている。
「……あっちも、こっちも地獄かよ」
声は軽く言った。
でも、目は笑っていない。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館】
――具体的な情報はまだ足りない。
どこが安全で、どこが危険で、今夜どうなるのか。
ハレルが歯を食いしばる。
「セラ、もっと分からないのか。現実の状況」
言い方が強くなってしまう。
抑えられない焦りが、言葉に混じる。
《……分かりません》
セラははっきり言った。
《私も、万能ではありません。
私が見えるのは“境界の揺れ”と、そこを渡る気配だけ》
正直な声。
その正直さが、今は少し痛い。
体育館の奥で、また泣き声が増える。
先生たちが走って、座らせ、背中をさすり、声をかける。
「大丈夫」「呼吸して」
それでも、夜は来る。
サキが小さく言った。
「……お兄ちゃん。もしまた、あの円を使ったら」
スマホの残量が頭に浮かぶ。
穴が残ることも。
使うほど世界が削れる感じも。
ハレルは頷く。
「分かってる。だから……今夜は守る。使うのは最後」
教頭がハレルを見る。
「外の兵士……アデルさんたちは、ここを守ってくれるのか」
ハレルが答える前に、セラの声が先に言った。
《守ります》
《すでに、学園の中にいます。
門も、体育館も――いま“守る線”が引かれている》
《そして……あなたたちの側には、鍵がある》
鍵。
主鍵。副鍵。サキのスマホ。
その言葉が“責任”に変わる。
ハレルは息を吐き、セラへ低く言った。
「……セラ。頼む。もう少しだけ、現実と繋げないか」
《……》
返事が一拍遅れる。
《方法がないわけではありません》
セラが静かに言った。
《ただ……橋を借りる必要がある。
“向こう側の端末”を》
端末。
スマホ。
誰かのスマホ。
木崎の――?
ハレルの心臓が一つ強く鳴った。
「できるのか」
《……試します》
その声が、最後に少しだけ近く聞こえた。
それは約束じゃない。
でも、“何かが動く”気配だった。
体育館の窓の外で、風が強くなる。
木の枝が鳴る。
夜の森が、校舎を囲む影を濃くする。
そして――どこかで、門番がひとり消えたままだ。
その事実だけが、静かに残っていた。