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#サレ妻
都築七美
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ゆうき
73
四月。陽翔の、小学校の入学式の朝だった。
受付の机の上に、保護者の名前を書く紙が置いてあった。
私は、ペンを左手で持った。
白瀬澪。
横の線が、わずかに、右へ下がった。
「白瀬さん。……陽翔くんの、お母様ですね」
受付の先生が、紙と、陽翔の胸の名札を見比べて言った。
「はい」
たった二文字の返事に、少しだけ時間がかかった。
*
体育館の窓の外で、桜が散っていた。
私は、保護者席の三列目に座っていた。
膝の上に、桜の枝が一本。
今朝、門を出るとき、源さんが、庭の桜を一枝切って、濡らした新聞紙で根元を包んで持たせてくれた。
「若奥様が嫁に来た春も、この木は咲いとった」
源さんは、そう言って、剪定鋏を腰に戻した。
「……もう、若奥様では、ありませんよ」
「わしにとっちゃ、ずっと若奥様だ」
日焼けした顔が、くしゃりと笑った。
担任の先生が、壇の上で、名簿を開いた。
一人ずつ、名前が呼ばれていく。
はい、と、小さな声や大きな声が、体育館の高い天井に上っていった。
「御影陽翔くん」
「はい!」
陽翔の声は、誰よりも大きかった。
紺の制服の背中が、まっすぐに伸びていた。
くせっ毛は、先週、私が切った。耳が、ちゃんと見えるように。
名前を呼ばれて、返事をする。
それだけのことが、この子にとっても、私にとっても、どれだけ遠かったか。
陽翔の名字は、御影のままだった。
蒼真の裁判は、夏に始まる。
陽翔には、パパは悪いことをして、いま、その償いをしている、とだけ話してある。この子がもっと大きくなって、自分で知りたいと言った日に、残りを話す。嘘は、一つも混ぜずに。
式の途中で、ポケットのスマホが一度だけ震えた。
水無瀬刑事からだった。入学、おめでとうございます。独り言です。
あの十一月、病室で、看護師が私の手を握った。
佐伯凛さん、聞こえますか、と。
あのとき、私は、返事ができなかった。
返事をしてはいけない名前だった。
保護者席の、いちばん後ろの列に、お義母さまが一人で座っていた。
喪服ではなかった。
淡い藤色の色無地に、白檀の扇子を膝に置いて。背筋は、相変わらず、異様なほどまっすぐだった。
式が終わる少し前に、お義母さまは、静かに席を立った。
扉のところで一度だけ振り返り、陽翔の背中を見た。
それから、私を見た。
何も言わずに、扇子を、ほんの少しだけ上げて、出ていった。
今朝、陽翔の新しい机の上に、和館から届いた祝いの包みが置いてあった。
表に、細い筆の字で、陽翔へ、とあった。
お義父さまが、私の嫁いだ日にくれた包みと、同じ紙だった。
許したわけではない。
許されたわけでもない。
それでも、月に一度、二十日に、あの人は私に茶を点てる。
私は、ぬるめの茶を、点て返す。
*
校門の脇で、トキさんが待っていた。
紺の番傘を、日傘の代わりに差していた。
その後ろに、紹介所とミカゲ・ホームの家政婦たちが、五、六人。
「おめでとう、陽翔坊ちゃん。……それから、あんたにも」
トキさんは、風呂敷包みを、私の手に押しつけた。
ほどくと、一冊の本が出てきた。
白い表紙に、生成りの帯。
題字は、私の字を写したものだった。
『澪の家事ノート』
著者の名前は、白瀬澪。
葛城編集長が、本にしましょう、と言ってくれたのは、十二月のことだった。
三冊のノートの、矢印が逆になったボックスシーツの図も、陽翔の鼻血の朝の酸素系漂白剤のページも、そのまま載っている。
帯には、推薦の言葉が刷られていた。
この人のノートで、私たちは家政婦になりました。
村雨家政婦紹介所と、全国の家政婦一同。
「みんなで、何べんも書き直したんだよ」
トキさんが、丸眼鏡の奥で、目を細めた。
ミカゲ・ホームは、冬のあいだに、別の会社に引き取られた。
家政婦の取り分は、七割五分に戻った。研修代は、もう一円も取られない。
本の印税の半分は、あかつき園に送ることにしている。
この春から、私は月に二度、根津の紹介所の二階で、新しく登録した家政婦たちに、ノートの話をしている。
シャツの襟の汚れの落とし方。子どもが熱を出した夜の、お粥の炊き方。誰かの家の秘密を、墓まで持っていくやり方は、トキさんが教える。
先週、松本のお寺で、凛さんの遺骨が、新しい墓に納められた。
石に彫られた名前を、私は、指でなぞってきた。
佐伯凛。
もう、誰の名前でもない。凛さん一人の名前だった。
*
帰り道は、坂の上の家まで、歩くことにした。
七曲り坂の手前の並木道で、桜が、頭の上に重なっていた。
並木の向こうに、坂が見えた。
あの夜、私が下りていった坂。凛さんが、ハンドルを握ってくれた坂。
五つ目のカーブの、新しい白いガードレールの足元には、今は、花が絶えない。
月に一度、私が取り替えに行く。野の花ばかりの、小さな束を。
陽翔が、ムギのリードを両手で握って、前を歩いていた。
ランドセルが、背中で弾んでいた。赤いバンダナのムギが、ときどき振り返って、私の足元を確かめた。
陽翔は、小さな声で歌っていた。
ねんねの舟は ぎいこ ぎい
あさのみなとで まってるよ
その横を、玲司さんが歩いていた。
濃紺のスリーピース。
入学式には、伯父として、後ろの壁際に立っていた。陽翔が、来てほしいと言ったから。
玲司さんの左手には、白いガーベラの花束があった。
離れの窓辺の月下美人に、蕾がつくのは夏だ。
咲いたら、陽翔と、玲司さんと、三人で夜更かしをして見る約束をしている。
一本の桜の下で、玲司さんが、足を止めた。
「澪」
人の行き交う道の上で、この人は、私をそう呼んだ。
もう、壁に耳のある家ではなかった。
玲司さんは、花束を、私の腕に抱かせた。
数えなくても、わかった。
遍照寺の墓に供えるときと同じ、いつもより一本多い束だった。
凛さんの分を、この人は、今日も忘れていなかった。
それから、上着の内ポケットから、白い布を出した。
木綿の、ハンカチだった。
千鳥の形に、畳んであった。
角が、うっすらと黄ばんでいた。
「父の葬儀の日」
玲司さんの声は、わずかに、かすれていた。
「勝手口で、あなたが渡してくれたものだ。……あれから、一度も広げていない」
息が、止まった。
あの雨の日。
ずぶ濡れの肩の人に、私は、エプロンのポケットから、このハンカチを出した。母に教わった千鳥の形に、畳んであったから、そのまま渡した。
「広げたら、二度と同じ形には畳めない気がした」
玲司さんは、ハンカチを、私の手のひらにのせた。
包帯の取れた、まだ少しだけ桃色の残る手のひらに。
「ムギの顔を拭いたほうは、まだ返していない。……あれは、返さないことにした」
私は、笑った。
声を出して。喉が、ん、と鳴った。
玲司さんも、少しだけ笑った。
それから、桜の花びらの散る道の上で、まっすぐに私を見た。
「全部、取り戻したな。あなたの名前も、陽翔も、あの家も」
「……はい」
「だから、答えを聞きに来た」
眼鏡の奥の目が、少しも揺れなかった。
「榊澪に、なってくれないか」
風が吹いて、花びらが、ハンカチの上に一枚落ちた。
陽翔が、ムギのリードを持ったまま、駆け戻ってきた。
玲司さんの上着の袖を、ぐいと引いた。
「澪ママ」
六歳の、歯の生えそろった口が、大きく開いた。
「早く、『うん』って言って」
ムギが、私の足元で、ごろりと腹を見せた。
私は、千鳥のハンカチを、胸に抱いた。
それから、陽翔の耳を、二回、ぽんぽんと叩いた。
これは、守れる約束だった。
一年と五か月前、私は、知らない人の名前で呼ばれて、目を覚ました。
今、私の前には、私の名前を呼んでくれる人が、二人いる。
私は、私の名前で答えた。
(完)
コメント
1件
第80話、完結おめでとうございます…!🌸 入学式の朝から始まって、全部が優しくて、でも一つ一つにちゃんと重みがあって。玲司さんがずっと持っていたハンカチ、凛さんの分のガーベラ、陽翔の「うんって言って」——どの瞬間も、ここに辿り着くまでがあったからこそ泣けました。澪が自分の名前で答えられたこと、本当によかった。 最後まで丁寧に紡いでくれてありがとうございました…🌙