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現れたのはヒルダだった。
どうやら、私が侯爵家を訪れたのを知って遊びに来たらしい。
「……ヒルダ、急に来られても困る。今日は帰ってくれないか」
「いいじゃない、ミカエル。いつも約束なんてしなくても、もてなしてくれたでしょう? どうしても三人でお喋りしたいの。ね、エイラもお願いよ。あなたが好きなお菓子も持ってきたのよ」
ヒルダがバスケットを掲げて朗らかに笑ってみせる。
突然の登場に驚いてしまったけれど、以前、私が三人でのお茶会をミカエル様に提案して断られたと話したのを覚えていて、こうやって機会を作ってくれたのかもしれない。
そう気がついて、私も微笑み返した。
「私もヒルダと一緒にお話できたら嬉しいわ。ミカエル様、今日は三人でお茶をしませんか?」
「だが……」
「せっかく来てくれたんですもの。お願いします」
「…………分かった」
ミカエル様は渋い表情を浮かべながらも了承してくれた。
私は彼にお礼を伝え、ヒルダをテーブルに招いた。
これから三人でいろいろな話をして、もしかしたらヒルダからミカエル様の子供の頃の話も聞けたりしないかしらなんて思っていた。
最近は彼との距離も縮まってきたし、今日ならきっと楽しいティータイムを過ごせるような気がしたのだ。
でも、それは私の思い上がりだった。
「……それでね、ミカエルがわたくしの代わりに池に落ちちゃったの」
「昔ミカエルが一緒に馬に乗せてくれてね、とっても楽しかったわ。エイラもお願いしてみるといいんじゃないかしら」
「ミカエルは甘いものが好きじゃないでしょう? だから甘さ控えめのお菓子を作ってあげたんだけど失敗しちゃって……でもミカエルは黙って食べてくれて嬉しかったわ」
ヒルダは楽しそうに笑いながら、ミカエル様の昔話を聞かせてくれた。
きっと私のために話してくれているのだろう。
ミカエル様のことを知って、これから仲を深めるきっかけになればと願ってくれているのだと思った。
でもそう思いながらも私は、ずっと胸のあたりにチクチクと針が刺さるような痛みを感じていた。
ヒルダに嫉妬したのではない。
ミカエル様への親しげな態度や、彼女が私よりもミカエル様をよく知っていること、共通の思い出が多いのは、幼馴染なのだから当然のことで、無い物ねだりをしたところで仕方がない。
それよりも私は、ミカエル様の様子がおかしいことが気になっていた。
先ほどから、彼はヒルダのことばかり見ている。
ヒルダがお菓子を取ろうとしたり、ティーカップに手を伸ばそうとしたりするたびに、彼女の手元をじっと見つめ、彼女の表情を窺うのだ。
ヒルダを見つめる彼の目はとても真剣で、彼女のことしか見えていないようだった。
(……私もいるのに)
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紫陽花
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痛みを増すばかりの胸にそっと手を当てたとき、ヒルダが窓際に視線を向けた。
「ねえ、ミカエル。あれって、昔あなたの部屋に置いていたピアノでしょう?」
ヒルダが懐かしそうに尋ねる。
「……ああ、そうだ」
「よく一緒に弾いたわよね。こんなに綺麗に手入れしてもらえていて嬉しい……」
あのピアノは、二人が子供の頃からあるピアノだったらしい。
私の心臓が嫌な音を立てた。
気づきたくないことに、気づいてしまいそうだった。
「ねえ、久しぶりに一曲弾いてみてもいいかしら?」
「何曲でも弾けばいい」
「ふふっ、じゃあミカエルの好きな曲を弾いてあげる」
そう言ってヒルダが弾き始めたのは、幼い子のピアノのレッスンで定番の、簡単で可愛らしい曲だった。
ヒルダはピアノはあまり得意ではないようで、少したどたどしい演奏だ。
けれど、そんな彼女の姿をミカエル様は食い入るように見つめていた。
私は、自分の勘が正しかったことを悟った。
(……ああ、やっぱり、そうなんだわ……)
震える手をぎゅっと握りしめ、ミカエル様の横顔を盗み見る。
そう、ミカエル様はヒルダのことが好きなのだ。
きっと、幼い頃からずっと。
だから私と婚約を結ぶとき、あんなに固い表情をしていたのだ。
私と婚約なんて、本当にしたくなかったから。
目を合わそうとしなかったのも、会話が続かなかったのも、私が婚約者だなんて思いたくもなかったから。
彼の眼差しも言葉も、すべてヒルダに捧げたかったから。
(きっと、ピアノのことだって……)
彼が私を見てくれていただなんて、愚かな勘違いだったのだ。
彼はピアノを弾く私を通してヒルダとの思い出を懐かしんでいただけ。
ミカエル様が見ていたのは、いつだって私ではなく、ヒルダだったのだ。
最近は私があまりに必死だったから、少しだけ相手をしてくれただけで、私を気にしてくれていたわけではなかったのだ。
何も知らずに一人で空回っていて、本当に馬鹿みたいだ。
きっと、ミカエル様はヒルダと結ばれたかったに違いない。
だって、私よりも先にヒルダとの婚約話が出ていたと聞いた。
我が家が婚約の話を持ちかけなければ、彼はそのままヒルダと婚約できていたはずだ。
それなのに、私が割り込んで邪魔をしてしまったせいで……。
「……ごめんなさい」
無意識のうちにぽつりと呟くと、ミカエル様が驚いて席を立った。
「エイラ嬢……顔が真っ青だ。どこか具合でも……」
彼がこんなに心配するなんて、よほど酷い顔色をしているのだろう。
大丈夫だと伝えようとすると、ヒルダも駆け寄ってきてくれた。
「エイラ、こんなに辛そうで可哀想に……。今日はもう帰って休んだほうがいいと思うわ。ミカエル、馬車の準備を」
「……分かった」
ヒルダはずっと私の背中を撫でてくれたけれど、気分の悪さは治らなかった。
虚しさと恥ずかしさと罪悪感で張り裂けそうな胸を押さえつけたまま、早くミカエル様の前から消えたくて仕方なかった。