【現実世界・聖環医療研究センター/第七特別病棟】
甲高い警報音が、廊下の天井スピーカーから一斉に鳴り出した。
《コードレッド、七階。担当医は至急――》
機械音声が告げるより早く、木崎はハレルの肩を叩いた。
「出るぞ」
707号室の床には、黒い焦げ跡だけが残っている。
ベッドごと“抜き取られた”空白。
ハレルは一瞬だけそこを振り返り――すぐに視線を切った。
「……二人は、守れた。日下部のコアもここにある。」
木崎が短く言う。
「だから、ここで全滅したら意味がない。動け」
ハレルは、握りしめたケースの取っ手に力を込めた。
四つあったはずの光は、今は二つ分だけ“空き”ができている。
(佐伯さんと、七海さんは――戻った。
日下部さんは、まだ“どこか”にいる)
考え込む暇はなかった。
ドアを開けて廊下へ出る。
白い床を、看護師たちが走っていく。
誰も二人に構っている余裕はない。
木崎は自然な足取りで、廊下の端へ身を寄せた。
「頭、下げてろ。目を合わせるな」
すれ違いざま、淡々と囁く。
707号室の横を通り過ぎ――
反対側の703号室の小窓が、視界の端で揺れた。
ハレルは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
ベッドの上。
佐伯蓮の瞳が、薄く開いている。
ピッ、ピッ、と規則正しい心電図。
手首が、シーツの上でかすかに動いた。
看護師が慌てて駆け寄り、モニターの数値を確認している声が漏れ聞こえる。
「……自発呼吸、上がってきてます!」
705号室の方からも、誰かの驚いた声が響いた。
村瀬七海のベッドでも、何かが“戻り始めている”のだろう。
木崎が、ハレルの肘をぐっと引いた。
「見るのはそこまでだ。今は“生きて帰る”のが仕事だろ」
「……はい」
ハレルは、唇を噛みしめて頷いた。
二人は非常階段側の角を曲がる。
階段の踊り場で、一瞬だけ人気が途切れた。
窓の外には、駐車場の赤い明滅が見える。救急車のライトだ。
「下まで一気に行く。途中で止まるな」
木崎の合図で、二人は足音を殺しながら駆け降りた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・聖環医療研究センター/一階・サービス通路】
一階のサービス通路は、表の慌ただしさとは別世界のように静かだった。
白い蛍光灯。
リネン庫と職員用の出入り口。
扉の向こうから、かすかに人のざわめきとアナウンスが聞こえる。
角を曲がったところで――
一人の男が壁にもたれていた。
城ヶ峰だった。
スーツの上着の前ボタンを外し、両手はポケットの中。
ただ、目だけが二人をまっすぐに捉えている。
「……やっぱり、こっちから出てくるか」
低い声。
木崎は半歩だけ前に出て、ハレルを背中に隠した。
「こんな時間に、偶然散歩か?」
「散歩にしては、ずいぶん汗をかいているようですが」
城ヶ峰の視線が、ケースへと一瞬だけ落ちる。
すぐに戻る。
「七階の第七特別病棟で、“同時に二人の昏睡患者が意識レベル改善”」
「そして、もう一人分のベッドが“消えた”」
事務的な口調で並べたあと、肩をすくめた。
「……普通なら、ここであなた方を拘束して、根掘り葉掘り聞くところですが」
木崎が薄く笑う。
「やってみるか?」
「やめておきます」
即答だった。
「さっき、駐車場で――
“普通じゃないもの”を直に見たばかりですからね。
あれの前では、銃も手錠も焼け石に水です」
木崎が目を細めた。
「……駐車場で、か」
短い一言だけで、ハレルの背筋に冷たいものが走る。
(サキ……巻き込まれてないよな)
城ヶ峰は、わずかに視線を和らげた。
「中の二人は、医者と看護師に任せます。
僕の役目は……“生きて出てくる側”を、今は止めないことにする」
木崎が片眉を上げる。
「ずいぶんと、甘い判断だな」
「甘いですよ」
城ヶ峰は、自嘲気味に笑った。
「でも、湾岸の路地も、赤錆埠頭も、旧本社地下も、さっきの駐車場も。
全部を追いかけてきた結果――
“そっちを全部敵に回す”のは、もっと悪手だと分かった」
短い沈黙。
「……礼は言わないぞ」
木崎がぼそっと言う。
「お前の上司にとっちゃ、俺たちは十分“厄介者”だろう」
「そうですね」
城ヶ峰は、ふっと息を吐いた。
「ただ、情報の貸し借りで言えば――
聖環センターの配置図と警備データを渡した分は、今夜でチャラです。
これ以上は、“こっちの責任”になりかねない」
木崎は、肩をすくめた。
「了解。
じゃあ、次に会うときは――その時の“立場”をもう一回考えてくれ」
「そのつもりです」
城ヶ峰は、二人の横を通れるだけの隙間を空けて、壁から体を離した。
「行ってください。
……ただし、一つだけ」
ハレルが、思わず顔を上げる。
「日下部奏一くん――彼がどこへ連れ去られたのか。
こっちでも追います。
“完全な失踪”のままにはしない」
その言葉に、ハレルは小さく頭を下げた。
「……お願いします」
それ以上、言葉は交わさなかった。
すれ違う瞬間。
ハレルと城ヶ峰の視線が、真正面からぶつかる。
銃も、手錠も、誰の手にもない。
ただ、その一瞬だけ――“同じもの”を見てきた目が、互いを確認した。
「行くぞ、ハレル」
木崎の声で、二人は通路を抜け、非常口から外へ出た。
◆ ◆ ◆
【現実世界・聖環医療研究センター/来客用駐車場】
夜風が、焦げたアスファルトの匂いを運んできた。
軽バンの横には、まだ炎の輪の焦げ跡が残っている。
そのすぐそばで、サキが身を縮めるようにして座っていた。
「お兄ちゃん!」
ハレルは思わず駆け寄り、サキの肩に手を置いた。
「サキ、大丈夫か……? ここで、何があったんだ」
サキは一度だけ深呼吸して、震える声を押し出す。
「変な人が来たの。
目が真っ黒で、炎みたいなの出して……でも、城ヶ峰って人が来て――」
「そうか……無事でよかった」
「うん」
サキは木崎の方へ視線を向ける。
「二人は?」
「703と705は、“戻りかけてる”」
木崎が簡潔に答えた。
「日下部は、持っていかれた。
別の場所に」
サキは唇を噛みしめ、焦げ跡の一つを見下ろした。
「さっきの……あの人?」
「そうだ」
木崎は短く頷き、空を見上げた。
白い建物の窓のいくつかが、まだ不安定に明滅している。
「ここで長居はできない。
救急と警察が本格的に動き出す前に、離れるぞ」
サキは、深く息を吸い込んだ。
「……分かった」
ハレルは、胸のネックレスに一瞬だけ触れた。
その奥で、異世界の腕輪の熱が、かすかに響き合っている気がした。
(二人は、戻せた。
一人は、どこかに“持っていかれた”)
ケースの中で、二つのコアが静かに光っている。
「日下部さんも、取り戻す」
誰に聞かせるでもなく呟き、ハレルは車のドアを開けた。
軽バンのエンジンが、低く唸りを上げる。
聖環医療研究センターの灯りが、バックミラーの奥に小さくなっていった。
◆ ◆ ◆
【現実世界・都心/オルタリンクタワー】
深夜のガラスの塔が、街の明かりを鈍く映していた。
昼間は企業ロゴと広告で賑やかなファサードも、
今はほとんどのフロアが暗い。
それでも最上層近く、いくつかの窓だけが、
青白い光を脈のように点滅させている。
塔の足元には、規制線と警備車両。
「システム障害による一時閉鎖」というテロップが、
ニュースの画面の隅で静かに流れていた。
――聖環医療研究センターから、そう遠くない距離。
病棟側でかろうじて守られた“器の座標”のすぐそばで、
もう一つの座標――
オルタリンクタワーは、まだ誰のものでもない戦場として、
夜の空に突き刺さっていた。
【異世界・王都/解析室】
薄暗い部屋に、魔術式の光だけが浮かんでいた。
円卓の中央にホログラムのような立体図。
その上には、三つの点が淡く瞬いている。
一つは、《オルタ・スパイア》。
一つは、《聖環医療研究センター・第七特別病棟》。
そして、最後の一つは――
座標だけが示され、地図の上ではどこにも一致しない空白の位置に浮かんでいた。
「……やっぱり、そうなったか」
ノノが椅子の背にもたれ、深く息を吐く。
《703と705の器は、ここと現実側でロック完了。
“再会”は成立した。
でも――》
指先で、三つ目の点を拡大する。
《707、日下部奏一くんの座標だけが、完全に別の場所へ持っていかれた》
アデルとリオが、ホログラム越しにその点を見つめた。
オルタ・スパイアから引かれていた線は、
途中で折れ曲がり、見たこともない方向へ伸びている。
「……カシウスの“実験場”か」
アデルが低く言う。
「塔と病棟と、どこか第三の場所。
三角形の最後の一角を、あいつらが先に押さえた」
リオは腕輪に触れた。
「でも、完全に切れたわけじゃない」
腕輪の内側で、かすかな熱が続いている。
「703と705は、こっちとちゃんと繋がったままだ。
日下部さんの線も――消えずに、“別の空の下”で光ってる」
「うん」
ノノが頷き、コンソールに指を走らせる。
《今のところ、“追跡フラグ”だけ立ててある。
あっちの実験場がどんな場所でも、完全に隠れきることはできないはず》
ホログラムの中で、三つ目の点がじっとりとした光を放った。
他の二点より、わずかに不気味な脈動を刻んでいる。
「……ハレルたちは?」
リオが問うと、別の画面に現実側の簡易モニタが映し出された。
聖環センターから離れていく車の軌跡。
ネックレス越しの微細な魔力波形。
《生きて出た。
二人分の器を戻して、“一人分の行方不明”を抱えたままだけど》
ノノはスクリーンに浮かぶログを一通り確認してから、椅子の背にもたれた。
《……“器の座標”での再会は、これで最低限は守れた。
でも、一つは奪われたまま。
次は――“奪われた座標”を取り返す番だね》
誰に聞かせるでもなくこぼした独り言が、静かな解析室に溶けていった。
アデルは、小さく頷く。
「こっちは塔を守る。
あいつらが三角形を閉じようとするなら――
残った二点から、逆に殴り込む」
リオは、ホログラムの三つ目の点を睨んだ。
(日下部さん。
今度は、そっちの“扉”を叩きに行く)
解析室の灯りが一度だけ明滅し、魔術式の光が少しだけ鮮やかになった。
救い上げたはずの三つの光のうち――
二つは、ようやく元の座標で静かに瞬き始めている。
ただ一つ。
知らない空の下で、じっとりとした脈動を続ける光だけが、
次の戦場の場所を、誰にも告げないまま待っていた。
第五章 器の座標ーコンテイナー・ポイントー 了






