テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
竹の音
裏垢の画面を閉じたまま、琉光子はリュックを背負って家を出た。
週に一度だけ通っている場所がある。
駅からバスで二十分ほど、住宅地を抜けた先にある、小さな竹細工工房だ。
きっかけは、たまたま学校に貼られていた地域講座のチラシだった。
進学にも就職にも役立つわけじゃない。
「竹かごづくり体験」。それだけ。
工房に入ると、竹の匂いがした。
乾いた、でも少し甘い匂い。
「こんにちは」
声を出すと、奥から年配の男性が顔を出す。
「お、来たな」
名前を呼ばれないのが、少し楽だった。
ここでは、琉光子は「高校生の女の子」で、それ以上でも以下でもない。
黙って座り、竹を割る。
均等に割れなくて、少し歪む。
それでも「まあ、そんなもんや」と言われる。
上手くやろうとしなくていい。
空気を読まなくていい。
誰かの気持ちを先回りしなくていい。
手を動かしている間、頭の中が静かになる。
裏垢の言葉も、教室の視線も、ここには入ってこない。
「今日は、素直やな」
ふいに言われて、琉光子は少し驚いた。
「……そうですか」
「力が抜けとる」
それが褒め言葉なのかどうか、よくわからない。
でも、悪い気はしなかった。
帰り道、琉光子は久しぶりに、胸の奥が軽くなるのを感じていた。
問題は何も解決していない。
それでも、一旦、呼吸はできていた。
やんわり拒否
数日後のことだった。
昼休み、また小さな揉め事が起きた。
今度はグループワークの役割分担だ。
「琉光子、まとめ役お願いしてもええ?」
何気ない声。
いつもの流れ。
一瞬、竹を割るときの感触が、頭をよぎった。
力を抜いても、折れない感覚。
琉光子は、少し間を置いてから言った。
「ごめん。今日は、ちょっとしんどい」
声は大きくも小さくもなく、
言い訳も、理由も、足さなかった。
空気が、止まった。
「……あ、そっか」
言った子は、すぐに笑った。
「じゃあ、私やるわ」
誰も責めない。
誰も怒らない。
それなのに、胸の奥がざわついた。
「ありがとう」と言うべきだったのか。
「ほんまごめん」と重ねるべきだったのか。
正解がわからないまま、琉光子は黙ってうなずいた。
そのあとも、何事もなかったように話は進んだ。
ただ、どこかで「一回止まった空気」だけが、残っていた。
放課後、すれ違いざまに言われた。
「無理せんでええからな」
やさしい声だった。
だからこそ、返事に困った。
拒否は、成立した。
でも、完全には溶けなかった。
削れる音
拒否したことで、何かが大きく変わることはなかった。
相談役にされる回数が、少し減った。
その代わり、「大丈夫?」と聞かれる回数が増えた。
どちらも、琉光子を思ってのことだとわかっている。
だから、文句も言えない。
竹細工工房には、変わらず通った。
そこでは、相変わらず素直でいられた。
でも、学校に戻ると、また別の自分になる。
やんわり笑って、
やんわり返して、
やんわりかわす。
拒否を覚えた分、
「拒否しない場面」を、前より意識するようになった。
その分、疲れは、細かく、確実に溜まっていく。
夜、ベッドに横になりながら、琉光子は思う。
――もうやめたい。
――でも、何を?
裏垢は開かない。
開いたら、また何かを書いてしまいそうだった。
竹を割るときの音を思い出しながら、
目を閉じる。
自分を守る術を、少し覚えたはずなのに、
世界の中では、相変わらず、削られていく。
その削れる音は、とても小さくて、
誰にも聞こえない。
だから、今日もまた、
やんわり、そこに立っている。