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ふと気が付く。微睡みと白昼夢のあわいの、混じり合ったような視界が明瞭に実像を結ぶ。今何をしていたのか思い出そうにも精神はまだ錨を巻き上げて漂っている船のようにとりとめもなくうつろう。椅子に座っている自分が血の通った肉体ではなく、冷えて乾いた木の人形であることに気づく。星明かりの泉がいない。
古くからあるが改修された丸太小屋の中で樵る者は当惑する。そもそもツェクリアの体に宿っていないこと自体が稀だ。
居ても立ってもいられず小屋を飛び出す。その時、透き通るような硬質な音が、硝子か氷の如き色味の無い調べが真っすぐに響いてくる。斧が木の肌を打つ音が不規則に鳴っている。アリソプラは不安と安堵に同時に後押しされて不器用な音に導かれるように森の奥へと走る。
すぐにツェクリアの姿を見つける。薄暗闇の中にあって輝くような佇まいだ。男みたいな服装だが上品な居住まいの華奢な輪郭で樵らしくは見えない。細腕で斧を振り上げる姿はあまりにも似つかわしくない。斧を振り上げ、振り下ろすたびに短くした髪が跳ねる。
名を呼びかけるとツェクリアは驚いて釣り合いを崩し、何とか体勢を立て直す。
「アリソプラ! 驚くじゃない!?」ツェクリアは現れた木の人形を非難する。「いきなり後ろから声をかけたりしないでよ。斧を取り落とすところだったわ」
「ごめん。ツェクリア」木の人形にできるだけ申し訳なさそうな顔をさせつつ、しかし言いたいことは言わせてもらう。「でも驚いたのはこっちだよ。いつの間にかどこかに行っちゃって。心配したんだ。あたしを置いて村に帰ったのかと」
ツェクリアは血の通った唇を開いて、真っすぐに整列した白い歯を見せて大いに笑う。
「ありえないわ。貴方を置いていくことも村に戻ることも。もしかして私がこの生活を気に入っていないと思っていたの?」
アリソプラは己の見当違いをツェクリアに指摘されて濡れた犬のように項垂れる。
「そうは思わないけど、他に行くところもないだろうと思って。村と森と、他のどこにも行ったことがないんだから」
「街に出たこともあるわ、一度だけね。それに言っておくけど、村に戻って領主のぼんくら息子を婿に迎えるくらいだったら身投げするわ。この話、前にもしなかった? 大体貴女のお陰で――」
「分かった。分かったよ」アリソプラはそれ以上聞いていられなくて押し留める。「でもなんであたしを置いて働きに出たんだ? 猟犬を連れずに猟に出かけるようなものだよ」
「なんでって。貴女寝ていたのよ? 何度呼びかけても答えないから。私、人形に話しかけるのなんて久しぶりだったわ。よく眠れた?」
「あたしは眠ったりしない。眠ったことないもの、必要ないから。ツェクリアが札を剥がしたんだろ? そしたらあたしの魂の時間は止ま――」
「いいえ。札を剥がしたりなどしていません」とツェクリアは断じる。「つまり、貴女が眠っていることに気づくまでは、ね」
言い合いになるとアリソプラが折れるのが常だった。鋼の剣のように頑固なのだ。竜の鱗にも負けない。そうでなければ村長の娘が村の端の森の奥で使われなくなった丸太小屋に住みながら樵の真似事などしない。誰もさせない。
「そう。なら眠ってたのかも」そんなはずはないと思いながらもアリソプラは見当違いを詫びる。「ごめん。でももし眠ってても起こしてくれていいからね。特に木を伐りたい時は」
アリソプラはツェクリアが木に斧を突き立てた跡を見る。横向きでなければ猫の爪研ぎ跡のようだ。今朝からやっていたのだとしても一か月はかかる。
「別に一人でやり切るつもりだったわけではないわ。でもいつかは私も一人で伐採できるようになりたいんだもの」
「どうして? あたしがいるんだからいいじゃない」
アリソプラの声は震えている。月夜に部屋の隅の影が動いたことに気づいた子供のように怯えている。
「二人でやった方が効率いいでしょう? でもまだ今はそんな力ないので手を貸してくださる?」
ツェクリアが口づけを求めるように手の甲を差し出すとアリソプラは人形の体から剥がした札を貼りつけた。戦場で軍旗を掲げる戦士のように鋸を掲げる鸚鵡が描かれている。
アリソプラの魔法の斧にかかれば立派な赤松も葦が手折られるように切り倒される。振りかぶった斧を打ち付けようとすると熱した短剣を牛酪に差し込んだように大木が両断される。
ただアリソプラがツェクリアの体を使うのではなく、ツェクリア自身も己の体に覚えさせるべく、呪文を唱え、筋肉を軋ませる。そうして一人の樵では到底一日ではなしえない量の仕事が土場に積み上げられた。
その日一日、上の空というほどではないがツェクリアの様子がどこかおかしいことにアリソプラは気づいていた。
石窯の火にかけた鍋を掻き混ぜながら微笑みを浮かべるツェクリアに、再び木の人形となったアリソプラは尋ねる。
「なんか、嬉しそうじゃないか?」
「そう見えるのはー、私が嬉しいからだよー」
「うん。何があったんだ?」
「心して聞いてね」ツェクリアは真面目な顔を作ってアリソプラと向き合う。「私も自分で全然気づかなかったんだけど僥倖さんが一目で見抜いちゃって。別に隠してたわけじゃないんだけど――」
「それで、何があったんだ?」
「子供ができた」
「はあ!? 何で? 誰の子!?」
「アリソプラのよく知っている人だよ」
「あたしの知ってる男なんて……」
心当たりは一人だけいた。
まさにアリソプラを、その宿る札をこの村にもたらした旅の魔法使いの男だ。
察した様子のアリソプラにツェクリアは微笑みかける。
「というか話してなかったっけ? あの燃えるような恋の夜の話を。二人はまるで天を焦がす雷のように愛し合ったんだよ。天の御使い様も嫉妬する情熱の夜だった」
「してないよ。聞いてない」
「そもそもいつか戻ってくる約束としてアリソプラを預かったんだけど。手持ちの最も強力な魔法だからって」
ツェクリアの瞳は確信に満ちていた。胡散臭い魔法使いが約束を守るためにきっと戻ってくるのだと。
「あいつはあたしという存在に気づきもしなかったぞ」
「私だってアリソプラに話しかけられなければ気づかなかったよ。でもそれは初耳。何で話しかけなかったの? 良い人なのに」
「こき使われたくなかったからだよ」
「私だって随分助けられているけど」
「そういうんじゃなくて……」
ツェクリアの、心を見抜くような眼差しから逃れるようにアリソプラは目をそらす。
「分かった」ツェクリアは得意そうに歯を見せて笑みを浮かべる。「あの人が戻ってきたら私たちの愛の巣に居たたまれなくなると思っているのね?」
「いや、それは、……でもそれもそうだ。邪魔者だよ、あたし」
「馬鹿ねー。アリソプラだって大事な家族だよ。この子と同じ」
そう言ってツェクリアは愛おしそうにまだほとんど目立たない腹を撫でる。
「ごめん。あたしの勘違いだったかも」
ある朝、二人はいつもの通りに仕事に出かけ、赤松の前で魔法の斧を繰り出そうとしたその時、アリソプラはツェクリアに謝罪する。
「何の話? 勘違い?」ツェクリアは手の甲の札を見つめて尋ねる。
ツェクリアの中のアリソプラが答える。「ほら、あたしが寝てたって話。もしかしたら原因が分かったかも」
腹が目立ち始めたが、アリソプラの反対を押し切ってツェクリアはまだ働くという。アリソプラの反対が押し切られなかったことはない。
「まだ疑っていたんだね。まあ、いいけど。それで? 貴女の考えを聞かせてごらんなさい」
「いつの間にか新しい魔法を知ってる。今気づいた。こんなこと初めてだから確信は持てないけど、その寝てたって時くらいしか心当たりがない」
「どういうこと? 寝ると新しい魔法を覚えるの?」
「分かんない。でも、寝たってことと、新しい魔法を覚えたこと、あたしにも心当たりのない現象が同時期に起きたから関係あるかもしれない」
「なるほどね。まあ、驚かないよ。存在自体摩訶不思議なんだから。それで、どんな魔法なの?」
「簡単に木を伐れる魔術」
ツェクリアは首を傾げ、揶揄うような声色で指摘する。「ほとんど全部そうじゃない」
「迅速に伐る魔術とか正確に伐る魔術だってあるよ」とアリソプラはむきになる。
「でも羨ましい」ツェクリアは子供をなだめるように話す。「学ばなくても得られるなんて便利ね」
「私の札を使えばツェクリアにだって同じことができるだろ? 魔術によっては練習が必要だけど」
「じゃあ今日はその新しい魔術とやらの練習の日にしましょう。仕事もそろそろ立て込む時季だし。今までより効率が良くなる魔術なら万々歳ね」
右手に握った斧を高く掲げ、アリソプラは今まで知らなかった言葉を口にする。
アリソプラの知る中でも途方もなく複雑で高度な呪文で、大木を薙ぎ伐るだけの力は善き者も悪しき者も恐れさせる猛々しさの表れだ。よく知られていない神々を仰ぐ様々な蛮族たちの、それぞれには無関係だったはずの喊声と凱歌が野蛮にもかかわらず精緻に組み上げられた歌だ。焔硝を尊ぶ穴掘りの一族の祈りの言葉を主旋律に、隕鉄を地上にもたらした竜を称える歌を対旋律に据え、その顎に並ぶ恐ろしく鋭い牙の数だけ繰り返し、繰り返し、繰り返し、鋸の刃が歯車の歯のように走る様を幻視するまで歌い続ける。アリソプラの、ツェクリアの声と斧が共振し、見えざる刃が高速で斧の周囲を巡り、火花を散らせる。
「すごい! これなら仕事なんて一瞬だよ!」
アリソプラの止める暇もなくツェクリアは激しく唸り声を上げる魔術を振り下ろした。
過ちの数を数えればきりがない。魔術を行使する前によく話しておけばよかった。樵の生活などに力を貸さなければよかった。このような辺鄙な村にやって来なければよかったし、旅の魔法使いなどに関わらなければよかった。この世に存在しなければよかった。
振り下ろされた魔法の鋸は木の肌に弾かれ、取り落とした魔法は石を弾き飛ばした。そして当たりどころが良くなかった。
出血は少なく、脈もあり、呼吸もしている。石に打ち据えられた頭を押さえながら、アリソプラは心の内で呼びかけるがツェクリアは答えない。声にも出して呼びかける。叫ぶ。怒鳴る。アリソプラがようやく医者の存在を思い出し、この体を動かすべきか人形に移るべきか迷い始めた時、ツェクリアは目覚めた。
「そこにいるの? アリソプラ」
「ツェクリア! 良かった! 無事だったんだ!」
「ねえ、アリソプラ? どこ?」
「いる! いるよ! ここにいる! ずっとそばにいる!」
アリソプラは、ツェクリアは柔らかな手で自分自身を抱きしめる。
「アリソプラ、お願い。私の赤ちゃんをお願い。約束して、アリソプラ」
「何を言ってるんだ!? ツェクリアの赤ちゃんだろ。頼まれたくない! ツェクリア! ツェクリア!」
呼吸が止まった。しかし脈はまだあった。ぐずぐずしてはいられないことが直感で分かった。アリソプラは必死に息を吸い、息を吐く。ツェクリアに息を吸わせ、息を吐かせる。
ツェクリア、お願いだから死なないで。
心の中で何度も何度も呼びかけ、魂を取り戻すように空気を吸い、死を捨てるように空気を吐く。しかし遂に返事はなく、アリソプラの魂はいつまでも孤独だった。
アリソプラの悲しみと共にツェクリアの涙が溢れる。後悔と共に嗚咽が漏れる。どの選択によってこの運命が導かれたのか、いくら考えても分からなかった。初めて己を求めてくれた友人に、初めて己を理解してくれた家族に、これが相応しい人生であるはずがなかった。悲しみと怒りと後悔が渦巻き、アリソプラは札に手を伸ばす。自身で貼り変える限りは魂が停止することはないが、それも一瞬でも触れていない瞬間があればその限りではない。アリソプラが己の魂を剥がし、粘着面を裏返しにして置こうとしたその時、何者かがツェクリアの腹の中で動いた。
札を元に戻し、腹を守るように丸まる。生まれるずっと前に母を亡くす不幸な身の上など後にも先にもこの子以外にいないだろう。だがアリソプラを突き動かすのは正しさでもなければ間違いでもない。
まだやらなくてはならないことがあった。守らなければならない約束があった。
いつも通りに働き、いつも通りに食事し、いつも通りに眠る。それで何も問題はないようだった。
今やツェクリアの体はアリソプラという存在よりもずっと魔訶不思議なように思えた。魂が離れても肉体だけが生きることがあるらしい。それもアリソプラが宿り、呼吸や食事を欠かさないからこそかもしれないので木の人形は薪になった。
何より腹の中の唯一の生命が守られるかどうかが最も大切なことだ。確かなことの分からない霧の中で迷うような不安に苛まれたが、それも数日が立ち、数週が立ち、腹が膨らんでいることに気づくと解放された。進んでいる道は確かで、進むべき道ははっきりと示されたのだ。きっと約束を守るのだと改めて固く決意する。
ある日のこと、いつものように斧を振るっていると何者かの怒鳴り声が聞こえてきた。仕事の手を止め、何事かと振り返ると腰の曲がった老婆が老いと怒りで刻まれた恐ろしい形相でこちらに向かっていた。
「そんな腹を抱えて何をやっとるんだ!」
よく通るしゃがれ声にアリソプラは委縮する。
「樵です。知りませんか? 木を伐って売る生業です。私はツェクリアです。よろしくお願いします」
何度か練習したのだが、不自然かどうかもよく分からない挨拶をした。
「知っとるよ! あんたを知らん者がこの村のどこにいるって言うんだい!?」
「ごめんなさい。怒らないでください」
「無理を言うんじゃないよ! 斧なんぞ振り回して、あんたも赤子も死んじまうよ!」
アリソプラは最も恐ろしい呪いを浴びせられたかのように青ざめ、斧を取り落とす。
「だめだ! この子を死なせるわけにはいかないんだ!」
「ならさっさと家に戻りな。父親はどうしたんだい?」
「あたしに父親なんていない」
「あんたの父親は、村長はそう思ってないよ。そうじゃなくて子供の父親を聞いてんだ」
「知らない。知る日も来ない。昔っからあいつはあっちこっちをふらふらしてたんだ」
「じゃあ実家に戻りなよ。村長の旦那も身重のあんたを無下にはしないだろうさ」
「そうか。その方が良いなら。赤ちゃんがそれで助かるならそうする」老婆が目を背けたことにアリソプラは気づく。「何だ? 助かるんだよな? この子も」
「いや、婆の聞いた根も葉もない噂だが、旦那は怒り心頭だ。あんたをどうにかしたりはしないだろうが、腹の子は堕ろされるかもしれん」
「どういう意味だ? 堕ろす?」
「堕胎する。死なせるってことさね」
「馬鹿言うな!」アリソプラは腹を抱えて後ずさりする。「この子は大切な約束なんだ! もしも死なせようものならあたしは、本当に、見放される! あたしたちは家族なんだ!」
老婆は深く溜息をつき、涙ぐむアリソプラに皴まみれのか細い手を差し伸べる。「分かったよ。黙っといてやる。幸いあんたの親父さんはあんたによく似て頑固者だ。自ら森へ様子を見に来たりはしないだろう。その代わり、生むなら婆の言うことに従いな」
「この子が生きられるならそうする」
「あんたは妖精か何かかい? 世間知らずとは聞いていたが思っていた以上じゃないか。逆らうようなら親父さんに報告するからね」
「あんた子供産むのに詳しいの?」
「あたしは特別さ。産婆だからね。あんたを取り上げたのもあたしなんだから」
アリソプラの疑わしげな眼差しを受けて産婆は改めて深い溜息をつく。
何か甲高い音でアリソプラは目を覚ます。最近は寝てばかりだ。酷い時には一日に一度、夜の間中眠ってしまう。にもかかわらず新しい魔術を会得できない。もしかしたらツェクリアの体が睡眠を求めているのかもしれない。
アリソプラは音の正体に思いを馳せるが、記憶にない。最近扉の軋みが酷くなってきたが、このような音ではなかったはずだ。知っている鳥や獣の中にも聞き覚えがない。
寝ぼけ眼で丸太小屋を眺める。この森の赤松の家具が並んでいる。箱入り娘だったツェクリアだが、生来の凝り性が発揮され、机も椅子も寝台も作り上げ、箪笥に至っては必要以上に作っていた。糸仕事しかしたことのないようなお嬢様の繊細な手が苦労の果てに作り上げた自由の砦だ。大工や指物職人の仕事には到底及ばないが、天より来る御使いを抽象化した優美な彫刻を施せる者は片田舎の村には他にいなかった。
二人で築き上げた安楽の空間は、今や過ぎ去ってなお愛おしい思い出の殿堂だ。異心同体だったツェクリアはもういないが、今や新たな形で異心同体になっている。
ふと股の間で何かがもぞもぞと動いていることに気づき、アリソプラは飛び起きる。見ると真っ赤でとても小さな猿みたいな生き物が泣きながら蠢いている。
「婆ちゃん!? 生まれた! これ生まれたんじゃない!? 婆ちゃん起きて!」
直ぐ近くに作った藁布団で眠っていた産婆のサモサもまた飛び起きる。
「なんてこった! あんた何で起こさないんだい!? 陣痛は!?」
「知らないよ! 痛みなんて感じなかった! どうすんのこれ!? この子、臍から何か生えてる!」
「あんたはもう黙ってな!」
サモサは素早く産湯を用意し、臍の緒を切って血を洗い落し、用意していたおくるみに包む。振り返ったところをすかさず受け取る。
「まだ後産があるんだよ! 寝てな!」
「怒鳴んないでよ。ほら、泣いてる。怒鳴るから」
「赤子は泣くもんだよ」
腕に抱く小さな命を揺らす。ツェクリアに似ているような似ていないような。だけどツェクリアの子供であることは確かだ。アリソプラは一先ず約束を守れそうなことに安堵する。ツェクリアもきっと喜んでいるだろう。
「小さすぎる。そんなんで生きていけるのか?」
アリソプラは尋ねるが赤子は泣くばかりだった。
「別に小さかないよ。皆そんなもんさ」とサモサは呆れたように笑う。
「将来はツェクリア似の、じゃなくてあたし似の美人になるだろうな」
「男だよ」
「どっちでもいいよ。ツェクリアの子なら」
最後の数日は泊まり込んでいた産婆サモサの疲労を案じて帰らせる。渋るサモサに、きちんと指示通りにすると約束して説得した。
「とにかく絶対安静だよ。ずっと抱いてりゃ乳も出るからね。斧なんて握ろうもんならあんたの頭をかち割るから」
その日はただ一日ずっと赤子を抱いて過ごした。やらなければならないことは沢山あるはずだが、全てを先送りした。冬越えの支度をしなくてはならない。サモサへの礼も必要だ。沢山の木を伐り、材木に加工し、炭焼きも求められている。ツェクリアがやっていたこともこれから先ずっと自分でやらなくてはならない。途方もないが、しかしアリソプラの腕の中の希望が先を照らしてくれている。
生まれて初めての一日。少しも言葉を知らない赤子との時間は、しかし誰より雄弁な人物と過ごしているかのように濃密だった。流れる今と共に過去が蜂蜜のようにとろりとゆっくり流れてゆく。
樵る者をもってして伐り倒すことのできない金剛樹に挑み続けた長大だが無為な過去。
一度として言葉を交わすことのなかった旅の魔法使いとの杞憂に終わった警戒の張り詰めた過去。
初めて親しみを覚えた、家族と思ってくれた女との忙しなくも満ち足りた過去。
二度と埋まることはないだろう深く刻まれた悲しみすらも過去へと押し流す手探りの過去。
そして未来までもが星の巡りから粗末な丸太小屋に遣わされ、アリソプラに透明な予感をもたらす。
希望と喜びと緊張と不安を抱きつつ、赤ん坊にその全てを捧げるのだろう未来。
正体の分からない己と違い、絶え間なく変化し、成長し、己を知り続ける子供を見守る未来。
一人前になり、この手を離れ、再び一人きりで生きる彼に取り残される孤独な未来。
人の世に少なからず起こりうることだが己にとっては約束された、我が子の先立つ未来。
アリソプラは気が付くと涙を零していた。その時間の半分はツェクリアのものだったはずだ。
何度目かの泣き声を聞き、まだ出てこない乳を含ませる。いつ出るのだろう、と不安が募る。まだ生まれて一度も食事をしていないということだ。この小さな体で一日何も食べなくて本当に大丈夫なのだろうか。もしもこのまま出なかったらどうすればいいのだろうか。産婆はいつ戻ってくると言っていただろうか。戻ってきたとして産婆なら乳を出させてくれるのだろうか。もしも戻って来なかったら? もしも、もしも、もしも。
気が付くとアリソプラは赤子を抱えて丸太小屋を出て村へと歩いていた。どうすればいいのか分からない。何が正しいのかまるで分からない。にもかかわらず間違っていたならこの小さな命の灯が消えてしまう。蝶の羽ばたきのようにささやかなほんのひと吹きで消えてしまう灯を抱えて日の落ちた森を進む。赤子は泣いている。正しさを求めているように聞こえた。かつてない恐怖がアリソプラを突き動かす。
村へたどり着くずっと前に木々の間から小さな灯が見えてアリソプラは駆け出す。それは松明を掲げたサモサだった。その驚愕の表情はその若い母親との付き合いの中でも最も予期していなかった事態を意味していた。しかしどの瞬間よりもサモサは落ち着き払ってアリソプラに駆け寄る。
「早めに戻って来てみれば。どうしたんだい? 赤子を寄こしな」サモサはおくるみに包まれたツェクリアの子供を丹念に観察する。「泣いてはいるが。特に問題は無いようだけど」
「乳が出ない。このままじゃ死んじゃうと思って。どうすればいいか分からなくて」
涙を堪えきれないアリソプラの背中をサモサはさする。
「そういうことかい。大丈夫。安心しな。あんたじゃなくても乳の出る女は何人かいる。もらい乳って言うんだけど。知らないんだろうね。いいよ。今から行こうじゃないか。あたしがいて断らせはしないからね。ほら、あんたの子だ。あんたがしっかり抱くんだ」
アリソプラは赤子を抱き、少し前を歩くサモサについてゆく。
森を出て最初の家の扉を叩く。アリソプラは傍から見ていただけだが、時折ツェクリアとの交流もあった家だ。何かの家畜が暗闇の向こうでごそごそと動いている。
「あら、サモサ、こんばんは。こんな時間にどうしたの?」出迎えたのは恰幅の良い女だった。「あらま、お嬢さんも。噂の赤ちゃん、生まれてたのね。それで一体何事?」
「こんばんは。薄氷。こんな時間にすまないね。乳が出なくてね。助けちゃくれないかい?」
「ああ、ごめんなさい。丁度最近止まったのよ。でも山羊乳があるわ。こんな真夜中に村を回るのも危ないし、今晩の所はそれでいいんじゃない?」
「そうだね。贅沢は言えないよ。そうしとこう。それじゃあ上がらせてもらうよ。ほら、おいで」
アリソプラはおっかなびっくりサモサについていく。勧められるままに椅子に座り、これから何が起きるのか慎重に見極めようと、蝋燭一本の薄暗闇で辺りを見渡す。
「山羊乳を赤ん坊にあげても大丈夫なの?」とアリソプラは赤子を守るように抱きながらサモサに囁く。
「大丈夫だよ。むしろ人以外なら一番いいと婆は思ってるよ」
「この子が山羊をお母さんだと思わない?」
その言葉に噴き出したのは丁度山羊乳を持ってきたリメだった。
「私のお母さんは山羊だめえ」とリメが揶揄う。
差し出される山羊乳から逃れるように仰け反るアリソプラをサモサが支える。
「冗談で言ってるんだよ、この子は。何を飲もうが食べようがあんたが母親だよ。ほら、早く飲ませてやんなよ」
教わるままに布に山羊乳を染み込ませ、赤子に含ませる。すると赤子は弱々しい口を動かして力強く吸い付いたのだった。
その姿を見て、アリソプラはようやく張り詰めた緊張から解き放たれ、再びぽろぽろと涙を流すのだった。腕の中の軽い体が少しだけ重くなったように感じた。背中をさするサモサの手がようやく実感を伴った。まるでさっきまでこの世の中のどこにも自分がいなかったかのように、己の存在を強く感じた。
赤ん坊は沢山の山羊乳を飲み、サモサとリメの介助でげっぷし、眠りに就いた。アリソプラはしげしげとそのしわくちゃな顔を見つめる。
「笑った? この子笑ってない? ねえ、サモサ」
「ようやく笑ったね」と答えるサモサも微笑む。
結局その夜はサモサともども一泊させてもらった。その後も何度も何度も赤子は目を覚まし、乳を求めた。サモサとリメも時折目覚め、声をかけてくれたが眠りを必要としない魔性のアリソプラはただひたすら赤子に応えた。
新しい日が昇り、誰も起こさないように僅かに扉を開けて忍び出る。新鮮な朝を思い切り吸い込むと、不安や後悔が押し流されたように思えた。
差し込んだ朝日に照らされた赤子がぐずるので日に背を向けてゆっくりと揺する。自分がただここにいて、赤子が腕の中にいることに喜びと幸せを感じた。それは誰も介在することのない二人だけの世界だ。サモサやリメやツェクリアから遠く離れた場所でアリソプラは腕の中の幸いを愛していた。
「ここにいたんだね。森の奥の丸太小屋にいるって聞いたんだけど、いなかったから……」
息せき切る男の声を背に受けてアリソプラは振り返る。
それはツェクリアの夫になるべきだった男で、赤子の父となるべき旅の魔法使いだ。
「戻って来たんだね」
「もちろん。約束したじゃないか。その子は?」
アリソプラはしっかりと抱きしめる。
「あたしの子だけど」
「僕の子でもあるだろう?」
「あんたが望むならね」
「君、何か変わった?」
「そのうち話すよ」
「名前は?」
アリソプラは怪訝な眼差しを向ける。
「……ツェクリアだけど」
男は笑い、咳き込み、息を整える。
「君の名前を忘れるわけがないだろう? 僕たちの愛すべき子供の名前を聞いたんだ」
「まだ決めてない」
「君が決めるべきだ」
「それじゃあ」アリソプラは静かに眠る赤子を見つめる。「約束」