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雨の少ないある年のある夏のある夜深くのこと。月は透徹に輝き、東西の地平に冷たくて薄い銀の幕を広げているが、黄昏の残滓たる不遜な昼間の熱は不吉な風と共にまだ地上を徘徊している。星影は微睡む地上に降り立って、鏤められた星に祈る者のいない都から、西の平原を飛び過ぎて、深い森と辺鄙な村々へ奇妙な運命を追いやる。
獣道よりは少しましな森の道を一人の少年がぽつんと立っている。来た道を振り返り、僅かに聞こえる足早に去り行く足音に耳を傾ける。
「臆病な奴らだ。オレより年上の奴まで逃げやがった」
少年は命といった。近隣の村に姉と二人で暮らす少年だ。まだ幼さの残る顔立ちながら、腕に足に沢山の生傷を作っている恐れ知らずの少年だ。いつも生意気そうな顔で、有り余った元気をその日の内に使い尽くすべく、友人たちと駆け回り、喧嘩し、度胸試しをしている。
その夜も度胸試しが目的で、姉の目を盗んで家を抜け出し、村の共同墓地へと向かっているところだった。
バレオにとっては墓場や死体など恐るるに足りなかった。時に大人とでも殴り合いを演じるバレオは、特別喧嘩が強いわけでもないが痛みや怪我で怯んだりもしない。ましてや幽霊など見たこともない存在に脅かされるはずもなかった。しかし友人たちはそうではなかった。一人、また一人と逃げ出し、とうとう一人になってしまった。
バレオ少年は迷う。このまま墓地へ向かっても良いが、恐れ知らずの勇敢な男であることを証明するには目撃者がいなくてはならない。証明できなければ踵を返した臆病者たちと同じだ。何か、真夜中に一人で墓場を訪れたことを証明する方法はないだろうか、と悩みつつ森の奥へと向かう。
蛇が這い進むような風が吹き、葉擦れの音が死を予言する不気味な囁き声のように聞こえても、音もなく飛び交う梟の不確かな鳴き声が耳元で聞こえても、暗闇の向こうに何者かの跫音が聞こえても、鋼の魂の持ち主を自負するバレオは少しもたじろぐことはなく、むしろ英雄めいた確かな足取りで勝利を約束された領域へと前進するのだった。とはいえ、足音は聞き間違いではない、どころかその大それた人数に気づくと恐怖はなくとも疑念は生じた。
このような時間に墓地を訪れる者が自分以外にいるとは考えられない。子供はもちろん大人もだ。大人の場合、幽霊よりも森に潜む獣や野犬を恐れるという違いはあるが。何にせよバレオ少年の足を止めることはできなかったが、潜ませることはできた。
辺りを見渡すと明々と照らす松明らしき列に気づく。時折木々に隠されるせいか、妖しげに焔が明滅している。バレオと歳の近い他の少年たちであれば死者を導くという鬼火だと思い込んで逃げてしまったことだろう。
いずれにせよ、碌な大人は、それが勇敢であれ臆病であれ、夜中に外を徘徊したりはしない。夜盗か何か知らないが、神聖なものに背を向ける臆病な連中に違いない。バレオは森の闇に潜むならず者たちを脅かしてやろうと後をつける。
やってきたのはやはり共同墓地だった。とすると墓荒しに違いない。夜闇に隠れたバレオが注視していると、ならず者たちは各々手に手に掘削道具を構えて仕事を始めた。あちこちに松明を設えると風に揺れた焔が奇妙な影を墓地のそちこちに投げかけて、邪教の儀式じみた不穏な光景が現れる。不信人者たちは鶴嘴を振り下ろし、円匙を地面に突き刺し、耳障りな音が畏れ敬うべき墓地で鳴り響く。
このような田舎の棺に大した副葬品があるはずもないが、生来考えなしのバレオは怒りのままに手近な石を拾うと鶴嘴を振るう者たちに次々に投げつける。墓荒したちがこちらに気づくと自慢の短剣を振り上げて怒鳴る。
「やい! こんな時間にこんな所で何やってやがる! ここは父ちゃんや母ちゃんやオレの知らないみんなが眠ってる場所だ! 勝手なことしやがるとただじゃおかねえぞ!」
バレオ少年は恐れていないが、墓荒したちも恐れていなかった。たった一人のまだ酒の味も知らない少年がこじんまりした刃物を振り回したところで失笑するばかりだ。
すると墓荒しの中から真っ黒な影が一人進み出た。松明の明かりがなければ気づくことができなかったかもしれないような、黒い外套を身に纏っていた。いかにも魔法使い然とした盛年の男で、頬がこけて目玉の出た不気味な顔つきだ。神経質そうに、少年が一人であることを確認するように周囲に目を向けながら近づいてくる。夜とはいえ、真夏に真っ黒な分厚い外套を身に着けるのは正気の沙汰ではないが、その魔法使いは汗一つかいていない。
「お前が墓荒しの頭か!?」少年は対峙する影がまだ何も言われない内から気色ばむ。
「ええ、いえ、違います」魔法使いは骨ばった青白い手を広げて弁解する。「頭ですが、墓荒しではありません。いえ、実際墓を荒らすことにはなりますが、つまりそういった法外な連中とは違います」
バレオは取り合わない。
「これが怖かったら塒に帰れ!」そう叫んでバレオは短剣の切っ先を魔法使いに向ける。
「怖いですが、帰りません。むしろ君に帰っていただきたいです」
男は素早く呪文を唱え、松明の光できらきらとする鉱石の粉末をばら撒く。するとまるで吹雪の中で長く過ごしたかのように少年の体温が奪われ、何より驚きのあまり少年は短剣を取り落として膝をつく。体温と同時に体力まで奪われたのか、体がだるくて動かせなくなった。意識までもがふらつき、五感の全てが遠のいていく。
「不動星さん! 来てください! 王墓を見つけましたが何か、古代の魔術か何かが!」
「何であれ撤収です」と魔法使いマイアッドは指示す。「試掘のつもりでしたが、引き当てるとは。運がいいですね」
バレオの意識もまた凍り付く。
目が覚める前に温もりを感じた。凍り付いた体の芯を解きほぐすように体の皮膚全体が熱を発しているかのようだ。
バレオが目を開けると目の前にマイアッドの忌々しい得意げな顔があり、思わず拳をお見舞いしようとしたが、かわされた。拳が鎌首をもたげて獲物に襲い掛かる蛇のように飛び掛かるが、宙を殴りつけるばかりだ。
「何をやってるの!? バレオ!」と姉の多彩がバレオの拳を押さえつける。「すみません。マイアッドさん。まだ朦朧としているみたいで」
目鼻は弟にも似ているところがあるが、その態度はまるで正反対の姉は静々とした振舞いで、しかし力強くバレオの腕を押さえつけている。
いつの間にか気を失い、家に戻って来ていた。どうやらこの魔法使いが連れ帰ったらしいと気づくとバレオは悔しくて、妖しい格好の魔法使いマイアッドを睨みつけてしまう。
「お気になさらず」マイアッドは紳士的な態度を崩さずに答える。「あのような場で我々の姿を見れば堅気ではないと勘違いするのも無理からぬことですよ。何より発掘調査についての説明前に墓地を訪れた私たちに非があります。どうかご寛大なご配慮をお願いしたい。我々にも、弟さんにも」
「ええ、それはもちろん。むしろあんな時間にあんな所で度胸試しをする弟が悪いんです。私の方こそ監督不足でした」
「それでは我々は村の代表に説明に参ります」マイアッドは居住まいを正す。「ああ、そうそう。度胸試しといえば、弟さん、墓場を守るために我々に挑んできてとても勇ましい立派な少年でしたよ。褒めてあげるといいです」
「ありがとうございます」と呟く姉リッサの声はか細い。
姉弟が暮らすだけの小さな小屋を出ていくマイアッドをバレオが呼び止める。
「おっさん。墓場で何を見つけたんだ?」
「とても危険な存在です。決して近づかないことですね」とマイアッドは言い残して出ていった。
マイアッドが去るとリッサがバレオに向き直る。いつも通りに怒られるのだと覚悟するが、その表情は濡れていた。空気が薄くなったかのようにバレオの胸が押さえつけられる。後悔などないが悪者になった気分だ。
「また傷だらけになってる」と姉が呟く。
バレオは改めて腕や足を見ると確かに傷が増えていた。かなり乱暴な運ばれ方をしたらしい。
「心配しなくていいよ。別に痛くない」
「父さん母さんに顔向けできないよ。君はどうして危ないことをするの? 他の皆はずっと前に戻ってきたのに――」
「あいつらは臆病なだけだろ!」
「君が勇敢だと思ってるなら大間違いだよ!」
リッサの言葉はバレオを硬直するに十分な力を持っていた。バレオが最後に逃げたのは、最後に助けを求めたのは、最後に泣いたのは、全て父母が死んだ時だ。それ以後怯えたことなど一度もない。バレオの腕っぷしは年相応で、頭の回転も普通の少年と変わらない。しかし勇気だけは誰にも負けないと自負していた。だから姉の言葉は間違っている、はずだ。
いつも口うるさい姉だが、正直で、真面目で、決して嘘などつかない。それ故にリッサの言葉にバレオは動揺した。夜の闇より、墓場の陰気な雰囲気より、体中の生傷より、姉の言葉にバレオの心は揺さぶられた。その夜、バレオはずっと眠れなかった。
決して、姉に自分が臆病者だと思われていてはならない。
バレオは再び、森を、共同墓地への荒れた道を、しかし今度は露に濡れた朝の道を一人きりで歩いていた。
暫くの間、墓地に近づいてはならない。
それは村全体への御触れであり、姉の命令でもあった。しかしバレオに恐れるものなど何もない。少年は己が勇敢であり、退くことのない挑戦者なのだと信じ切っている。そして余所者の魔法使いマイアッドが危険だと言っていた存在に興味を持っている。
木陰に潜み、作業者たちの様子を覗く。しかしまだ誰も鶴嘴など振るっておらず、何人かの魔法使いが集まって話し合っているだけだ。
「王墓を見つけたはいいが、どうしたものでしょうか」
「俺はもう帰りたいよ。昨日の奴を見ただろう?」
「命がいくつあっても足りねえぜ。マイアッドさんには賢明な判断をして欲しいものだが。さて、どうなるやら」
大の大人がびびってやがる、とバレオは心の中でほくそ笑む。
バレオは村長が聞かされたという調査の概要について思い返す。話によると、この墓地は元々古い時代の王墓だったことが判明したらしい。場合によっては呪いか怪物か何かを掘り出してしまうかもしれない。それ故に誰も墓地に近づいてはならないのだそうだ。しかしバレオは呪いも怪物も怖くない。
まだ静かな墓地を見て回る。確かにその墓地にはとても古い石碑や古びた墓室らしきものがある。村民たちの墓とは様式が違い、ところどころで土に埋もれているものもあれば、剥きだしていても長い年月の風雨によって崩れているものもある。バレオは今まで何も疑問に思っていなかったが、言われてみると元々あった墓場を利用しているようだった。
昨夜、マイアッドたちが作業を始めた辺りにやって来ると奇妙な何かがいた。
それは元々小さな丘のように、大きな盛り土のようになっていた場所だ。しかし今では墓室への入り口がぽっかり空いている。奥は暗くて見えないが、入り口の手前にすらりとした人型の存在がいた。
バレオは気づかれないように灌木の陰に潜みながら、ゆっくりと近づき、得体のしれない存在を観察する。銀色の金属だ。初めは鎧かとも思ったが、一切の接ぎがない。人が入っているとすれば関節を動かせないだろう。滑らかに磨かれた表面は鏡のように周囲を反射している。銀の人形は微動だにせず、墓室の前で突っ立っている。
あれが王墓で、あれが危険な存在に違いない。バレオは少しも躊躇うことなく、しかし無闇に気づかれないようにゆっくりと忍び足で近づく。灌木から木の幹へ、そして背の高い下草の間を這い進む。
恐れ知らずだけど強いわけじゃない。弱いからといって臆病なわけじゃない。バレオは心の中で呟き、もはや隠れきれない場所まで来ると素早く立ち上がって走り出し、皆が恐れる銀の人形の脇を通り抜けようとした。
その時、銀の人形が素早く飛びついてきて少年の腕をつかんで捻り上げた。
「おやおや。子供までもが墓荒しとは。おっかない時代がやってきなすったもんです」
その声は艶やかな女の声のように聞こえたが、口らしきものはどこにもなく、銀の体全体から響いていた。
「墓荒しじゃねえよ」とバレオは腕を振りほどき、思いつくままに言い返す。
「おや、そうですかい。まあ、昨夜の物騒な連中の仲間には見えませんね。ともかくこの先は子供の遊び場じゃあねえんですよ。戻っておくんなさい」
「何なんだよ、お前。ここで何してるんだ?」
バレオは掴まれた腕を揉み解しながら銀人形と王墓の隠された暗闇を交互に見つめる。
「あっしは墓守でさあ」銀鈴の如き玲瓏な声で墓守は答えた。「王墓を守り、ずうっと面倒を見てるんですぜ。だから誰であれ通さないし、王墓には指一本触れさせません」
「ずっとっていつから? ここはずっと土の中だったんだぞ?」
「ずっとはずっと、土の中でもずうっとです。墓荒しの心配はなくて楽でしたが暇してたんで助かりましたよ。かといって墓荒しの相手をし続けるのも御免蒙りたいですがね」
「嫌ならやめればいいだろ」
「それがやめるわけにはいかないんです。理由は話せませんが……。それで? 少年は墓荒しでないなら何をしに来たんです?」
バレオは少しばかり思い悩む。何をしに来たのかと問われれば、挑みに来たのだと答えるべきだろう。しかし魔法使いたちでも突破できない存在を前にして、恐怖などないが手立てもない。とすれば相手にしない方法を、出し抜く方法を探さなくてはならない。
「ただの興味本位だよ。野次馬さ」ととりあえずは答えておく。
「ほうほう」銀の人形は目の無い顔でバレオの顔を覗き込む。「お暇でしたら相手をしてくださいよ。あっしも暇なんです。さっきも言いましたがね」
「あんたはやることがあるだろ。次の瞬間にも魔法使いたちが襲い掛かってくるかもしれないぞ?」とバレオは脅かす。
「無いのと同じですよ」墓守は平然と答えた。「魔法使いが何人束になろうが、少年が一人で来ようが、誰も来なかろうが負担は同じようなものです」
絶対王墓にたどり着いてやる、とバレオは焼べられた闘争心で魂がめらめらと燃えだした。
「あんた、名前は?」
「守る者です。少年は?」
「バレオ」
その日から恐れ知らずの少年バレオと負け知らずの墓守ヒプレクシアの交流が始まった。不思議とマイアッドたち調査団は本格的な作業を始めなかった。初めは村の者たちも怪しげななりのマイアッドたちを警戒していたし、何より御上の命令とはいえ先祖の眠る墓地を荒らされて良い気はしなかったが、今では気前よく金を落としてくれる者たちを様々な方法で歓待していた。
おかげでバレオが人の目を盗む気遣いは姉を除けばあまり必要なかった。
少年と墓守は多くの言葉をかわした。ヒプレクシアが墓を守るようになった古い時代のことはバレオにとってまるでおとぎ話のようだった。古い王国や、その外のこと、大陸のあちこちから吹き寄せる風の噂をよく覚えていて話してくれた。特に、バレオのことを良く知ってからは少年を試すように恐ろしげな話をした。地を這う者たちを容赦なく食い尽くす竜の話や鼓動の途絶えぬ者たちを脅かす悪霊の軍団の話だ。
一方でバレオは自分の知っている狭い世界を少しばかり恥じ入ったが、ヒプレクシアは楽しそうに聞いてくれた。姉との諍いで笑い、父母を亡くしたことに心を痛め、村の大人たちの笑い話や少年の友人たちとの武勇伝を興味深く聞いていた。
バレオ少年は隙あらば王墓に飛び込もうとしたが、墓守のヒプレクシアはそれを決して許さなかった。とはいえ、最初の時のように捻られることは一度もなった。
時には他の少年たちとやるような遊びをした。墓荒したちの恐れる墓守と木登りをし、海賊ごっこをし、色々な力試しをした。ヒプレクシアは決して王墓から離れられないわけではない、という知識は大きな収穫だ。しかし腕っぷしだけでなく、足の速さでも勝てず、仲良くなればなるほど悔しくもなった。
「どうして墓なんて守ってるんだ?」
ある日の夕暮れが迫り、村に戻る前にバレオは尋ねた。
「命令がありましたし、それに良い王様だったんでさあ」
「墓を暴かれるなんて許せないくらいってことか?」
バレオが尋ねるとヒプレクシアは静かに頷く。
「ええ、こうして晒されちまった以上、どこか静かな所に改葬してやりてえんですが……」
表情は読めないが、神妙な気持ちが伝わってきて、バレオは少し引け目を感じた。しかし墓守を出し抜きたい少年は気を張る。別に墓を暴きたいわけではない。誰もが恐れるヒプレクシアを、一切恐れない自分が出し抜く、そのことに意味があるのだ。
「すれば良かったじゃないか。あいつら全然調査始めないし、いつでもできただろ?」
「それがそうでもねえんですよ」
ヒプレクシアが珍しくバレオの目線に腰を落とす。その銀色の体に人影を見た。ずっと監視されていたのだ。
バレオがヒプレクシアとの時間を過ごす中で出し抜く方法を探していたように、マイアッドたちは二人の交流を観察して墓を暴く方法を探していたのだ。
バレオは後悔し、少しだけ不安に感じる。
「ご心配なく。あっしは必ず王墓を守り抜きますよ」
「改葬したらどうするんだ? またそこで墓守か?」
「いえ、誰にも見つからない場所に葬ったなら、墓守じゃなくて時々墓参りするような、そんな生活を送ってみたいですね」
バレオは帰り道に心に決めた。決着の時だ。ヒプレクシアもマイアッドも出し抜き、王墓を改葬する。そうすれば仮にマイアッドたちがヒプレクシアに打ち勝ったとしても王墓は既に存在しない。何もなかったならマイアッドたちはこの墓地に用はなく、ヒプレクシアは穏やかな生活を手に入れられ、それらを成し遂げた少年は真に勇敢な男として認められる。そういう心積もりだった。
家に戻ると姉リッサが待ち構えていた。
「君、墓地に近づくどころか、入り浸ってるんだってね」
仲間たちには口裏合わせを頼んでいた。マイアッドの調査団が告げ口したのだ。
「別に危ないことはしてねえよ。大体あいつらが働いてるところみたことねえもん」
「そうだろうね。マイアッドさんたちは今日までずっと準備をしていたそうだから。だから教えてくれたんだよ。本格的な調査を始める前に、君が不用意に近づいて怪我しないように」
「今日まで?」
「そう。明日には作業を始めるってことじゃないかな。もう近づかないでね。お願いだから」
「分かったよ」
父さんと母さんに顔向けできない、と言われる前にバレオは答えた。
自分の部屋として使っている屋根裏にバレオは急ぐ。今日までに策を考えていたのはマイアッドたちだけではない。煙幕作戦。括り罠作戦。投網作戦。他にもある。
全ての準備を整えると夜が更けるのを待つ。食事をし、床に入り、リッサの寝息が聞こえると必要な装備を身に着け、気づかれないように家を出た。
宵闇に沈んでいるはずの森の奥から太陽が昇ったかのような光が見え、バレオの鼓動が早まる。ヒプレクシアに気づかれないように忍び足で近づくはずだったが、気が付くとその激しい明滅に急かされるように駆け出していた。
火の爆ぜる音が耳を聾し、熱風が吹き付けて肌をじりじりと痛めつける。僅かに吸い込んでしまったためにバレオは咳き込みながら王墓の方へと急ぐ。しかし決して王墓には近づけないことを思い知る。
壁の如く聳える猛火が王墓を囲い、それをさらに遠巻きにマイアッド率いる魔法使いたちが弧を描いて対峙している。無数の言語と歌と韻と律を駆使した呪文を唱え、手振り足振りを交えて薬物と呪物を組み合わせた複雑な儀式を行っている。
「用意!」と叫んで魔法使いたちの中で一人マイアッドが腕を上げる。そして腕を振り下ろすとともに、「放て!」
魔法使いたちの弧の更に外で屈強な男たちが鉄の槍を構えていた。その槍が次々に投擲され、魔法使いの呪文を浴びると紫の電光が妖しく弾け、火の壁を突き破って王墓のあるべき辺りに突き刺さる。すると燃え盛る火が、炎の形の氷へと変わった。
ほとんど空気と変わらない透き通った氷の向こうに王墓が見える。そしてバレオの知らない怪物がいた。それは銀で出来ているようだったが、まるでぶよぶよと太って肉が垂れ下がったような輪郭だ。頭は人の形をしておらず、長く太い鼻づらに上下に生える四本の牙、離れた円らな二つの瞳の近くに三対の角が生えている。関節が三つはある二本の腕を持ち、なぜか氷の中で火の灯った油燈と円匙を握っている。
怪物は氷の中で円匙を持つ腕を振り上げる。すると容易く氷は砕かれ、驚きの声をあげる魔法使いたちの方へ怪物は躍りかかる。魔法使いだけではなく、鎧を身に着けた戦士たちもいた。しかし誰も彼もが怪物の円匙に叩きのめされ、油燈から噴き出す炎に巻かれていた。あちらこちらで野太い悲鳴が聞こえる。まるで踊るように墓荒したちの間を駆け抜ける怪物の様はまだまだ余裕があるように見え、必死に叫ぶ男たちと対照的に高らかに哄笑して楽しんでいるようだった。
想像だにしていなかった光景を前にして、バレオは両目を見開き、ただじっと見ているしかできなかった。
あれはきっとヒプレクシアだと心のどこかで気づいていたが、今なら王墓へ忍び込めるかもしれないなどという考えすら思い浮かばなかった。
まるで子供をあしらうように魔法使いや戦士たちを薙ぎ倒すヒプレクシアから目を離せなかったが、目を離せなかったために目が合った。遠目に見ても底の知れない瞳の黒に慄き、全身に悪寒が走り、びくりと震える。次の瞬間、ヒプレクシアが地の底で吹き鳴らされた幾千の喇叭のような雄叫びをあげると、バレオは背を向け、一目散に逃げ去った。まるで獣に怯える獣のように森を転げるように走り抜け、泥まみれ、傷だらけになって家に逃げ込み、やはり待ち構えていた姉の胸に飛び込んだ。
リッサの声は少年に届いていたが、何を話しているのかはまるで分からなかった。少年の魂は未だに共同墓地にあって、暴れる怪物に怯えて縮こまっていた。
どれくらい経ったか分からない。背を撫でられていることに気づき、自分が震えていることにバレオは気づいた。自分が怯えていることが、たまらなく悔しかった。
翌朝、バレオは飛び起きる。未だに昨夜の恐怖は皮膚の下で蠢いているようだった。姉リッサがそばで突っ伏して寝ていることに気づき、姉の寝台に寝かされていたことに気づき、恥ずかしそうに寝台を下りる。同時に姉も目を覚ます。
「おはよう。大丈夫?」と姉に心配される。
「大丈夫。ご、ごめん。姉さん」
「良いんだよ。また墓地に行っていたらしいけど、今度ばかりは後悔しているようだね」
素直に頷きかけ、しかしバレオは問いかける。
「だ、誰に聞いたんだ?」
「マイアッドさんだよ。墓地にいた魔法の守護者は取り除いたって聞いたよ。そもそもそんなものがいたなんて初耳だったけど」
信じられない話だ。少なくとも見た限りではヒプレクシアに翻弄されていた。まだまだ奥の手があったということだ。
「その、その守護者はどうしたって?」
「都に連れ帰るってさ。そもそも魔法の守護者の伝承の調査に来たんだそうだよ」
ヒプレクシアは負けてしまったのだ。どのような作戦が功を奏したのか知る由もないが、マイアッドたちがヒプレクシアを手に入れた。
それはヒプレクシアにとって良い王様の墓参りができるような穏やかな生活ではないだろう。
「ね、姉さん。どうしよう」
リッサは真剣な表情で受け止める。「何があったの?」
バレオは全てを明かす。ヒプレクシアについて知っていることを、ヒプレクシアと過ごした日々を、ヒプレクシアを友人だと思っていたことを、しかしとても恐ろしい存在だと知ってしまったことを、そしてマイアッドたちはさらに強力な手立てを持っていることを、つっかえつっかえ話して聞かせる。
「助けたいんだね?」と姉は弟に尋ねる。バレオはゆっくりと頷く。「でも怖いんでしょう?」
リッサがバレオの両手を握り、持ち上げる。バレオは初めて自分の手が震えていることに気づき、未だに昨夜の恐怖がこびりついていることに気づいた。
「怖い。こ、怖いけど助けたい。すごく良い奴なんだ」
「本当に?」と呟く姉は微笑みを浮かべていた。そうしてバレオの髪をくしゃくしゃにする。「わたしの弟ほどではないんじゃない?」
銀の人形は荷車に積み込まれていた。マイアッド率いる調査団もまたそれなりに村人たちと交流したせいか、お互いに別れを惜しんでいる。
その魔法使いや戦士一人一人があの恐ろしい姿の怪物に挑めるのだ。バレオは敵意と共に敬意を抱かざるをえなかった。
バレオは回り込むようにして荷車の方へと近づき、リッサはマイアッドのいる一団の前方へ向かう。
「おう、バレオ君。君、昨日も来てたんだって?」と墓荒しの一人に話しかけられる。
バレオは飛び上がるのを何とか堪え、震えているのを隠すように抑え込む。
「まあね」
バレオの方は大して関わったつもりはなかったが、墓荒したちの方はバレオ少年が強く印象に残っていたらしくやたらと話しかけられる。
「もう思う存分墓地で遊べるぞ。奴はもういないけどな」
「おっと、それ以上近づくなよ。凶暴な化け物だ」
荷車に近づくのを阻まれ、バレオの心臓が強く打つ。もしかして企みがばれているのではないか、と。ヒプレクシアを抑え込める者たちにかかれば自分など一捻りだろうと思うと冷や汗が流れる。それに、命懸けで手に入れたものを奪われたならば容赦はないかもしれない。
バレオは息を潜めるようにして、ヒプレクシアの様子を見守る。頑丈な鎖で縛られているが、少しも抵抗することなく大人しく横たわっている。
どうしたものかと悩んでいると、企ての一つが始まる。
「行かないで! マイアッドさん!」とリッサがしおらしく叫ぶ。
「どうかしたんですか? リッサさん」とマイアッドが不思議そうに尋ねる。
「どうかしたですって!? あんなにも親しい日々を送ったのにわたしを置いていくの!?」
「そんなに言葉も交わしてなかったと思うんですけど」
「ひどい! ひどいわ!」
姉の安い芝居は墓荒したちの注目を集めた。揶揄うような言葉と口笛が飛び交う。その隙にバレオは荷車からはみ出した銀の人形の首に近づき、そっと話しかける。
「ヒプレクシア。お前を助けたい。何か方法はないか?」
「ああ、ありがてえ。バレオ少年。あっしを助けたいならあっしの口に手を突っ込んでください」
「口どこだよ」
「いま開きます」
リッサの演技はさらに熱が籠り、今にも色恋沙汰から刃傷沙汰に変わってしまいそうな雰囲気だ。調査団の人間も仲裁しようと集まっていく。ヒプレクシアはこっそりと銀の頭に切れ込みのような口を開いた。覗き込むと菱形の札が貼ってある。
「それを持ち去ってください。ことが済めば何かに貼ってください」
全てヒプレクシアの言う通りにする。バレオの合図を待って痴話喧嘩は終わった。リッサは妙に潔く諦め、調査団は空っぽの銀の人形を都に持ち帰った。
さらに一日待って、何事も起きないことを確信する。マイアッドは何の異変も察知していないらしい。バレオは隠していた札を家の机に貼った。すると机がもぞもぞと動き出し、少し不格好だが人の形になった。
「おお、素晴らしい。ご姉弟には助けられてしまいましたね。本当に勇敢な姉弟でさあ」
「わたしの演技のお陰だな」
「オレは別に勇敢でも何でもないよ。そのことをこのことで思い知らされた」
リッサとヒプレクシアが不思議そうにバレオを見つめる。
「でも君、すっごく怯えていたじゃないか」とリッサは指摘する。
「何がでもなんだよ。オレは怯えてたんだから、オレは勇敢じゃないって話をしてるんだよ」
今度はリッサとヒプレクシアが顔を見合わせて噴き出す。
「何だよ! 何もおかしくないだろ!」
「分かってないですね、少年」とヒプレクシアは分かったような口を利く。「恐ろしいものに立ち向かう力が勇気というものですよ」