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揺れ動く気持ちを隠して、響子は言った。
「こんな重大なこと、即答は出来ないわ。一度、帰って、よく考えてみたいの。返事をするのは、それからでもいい?」
志保の顔に笑みが広がる。
「もちろんです。いいお返事を待ってます。よかったね、ボクちゃん」
志保は、乳児の頬に、ちゅっとキスをした。
事の経緯を知っている芙紗子は、当然のごとく反対した。
「響子さんには関係のないことです。志保さんのご両親のおっしゃる通りにするのが一番だと思いますよ。
今後、志保さんには関わり合いにならないほうがよろしいと存じますが」
芙紗子の言う通りだと思う。自分を捨てた男が、ほかの女に産ませた子供の面倒を見るなんて、お人好しにもほどがある。
それはわかっているのだが。
「でも私、後悔だけはしたくないの」
何を血迷っているのかと、我ながら呆れる。芙紗子の言う通り、照彦のことも志保のことも一切忘れて、新しい人生に踏み出すべきなのだ。
何度も、そう自分に言い聞かせたにも関わらず、結局、響子は、子供を預かることに決めたのだった。なぜそうしたいのか、本当のところは、自分でも、よくわからないのだが、一つだけ言えるのは、今もまだ、照彦のことが忘れられないということだ。
実際、芙紗子とともに、照彦の忘れ形見、行彦を洋館に連れ帰ると、密かに危惧していたわだかまりは、すぐに消え去った。実質的に、行彦の世話をしたのは芙紗子だし、響子も、芙紗子の存在がなければ、簡単に引き受けなかったかもしれない。
それでも、小さくいたいけな行彦の愛らしさに心を奪われ、やはり、この子を預かってよかったと思った。志保のことは、あえて考えないようにした。
行彦と別れるとき、志保は涙ぐんでいたが、その後、彼女から連絡はなかった。芙紗子は、ずいぶん冷たいと憤慨していたが、体調のせいもあるだろうし、きっと必死に仕事を探しているのだろうと、響子は、あまり気にしなかった。
口には出さなかったが、なんなら、この状態がずっと続いてもいいと思っていた。出自を別にしても、行彦はかわいく、懐いてくれると、とてもうれしい。
自分が本当の母親だったらよかったのにと思ったりもした。
だが、連絡がないまま二ヶ月ほど経った頃、さすがに違和感が頭をもたげた。電話の一本もないのは、やはりおかしいのではないか。
もしかすると、電話をかけることすらままならないほど具合が悪いのかもしれない。そう思い、散々迷った末に、響子のほうから電話をかけたのだったが。
「響子さん? お久しぶりです」
志保の声は、拍子抜けするほど明るかった。
「体調はどうなの? まだ病院にいるの?」
「病院は、先月退院して、元気にしてます」
「行彦ちゃんは、とてもいい子にしているわよ」
「そのことなんですけど……」
志保は、いくらかすまなそうに言った。
「ようやく仕事が見つかったんです。パートですけど。それで、少しお金が貯まるまで、もうしばらく行彦を預かっていてもらえませんか?」
響子は、志保の望みを快諾したのだが、電話を切った後で、芙紗子に叱られた。
「赤ちゃんは、犬や猫などのペットとは違うのですよ。このまま、いつまでもお預かりしたままではよくありません。
志保さんが育てられないのであれば、やはり志保さんのご両親がお世話なさるべきです」
「でも、それだと……」
行彦は養子に出されてしまう。
煮え切らない響子に、芙紗子はぴしゃりと言った。
「それは、ご家族がお考えになるべきことであって、響子さんには関係のないことですよ。
このままでは、響子さんのためにもよくありません。行彦ちゃんは、お返ししましょう」
「でも……」
大人の事情など知らない行彦は、芙紗子の腕の中から、響子に向かって手を伸ばす。あーあーと声を上げながら笑う姿が愛おしい。
そう言えば志保は、最後まで、行彦について何も尋ねなかった。そんなはずはないと思うけれど、行彦のことが気にならないのだろうか……。
結論から言うと、響子は、行彦を引き取った。正式に養子として迎え入れたのだ。
芙紗子は大反対したが、響子は、それならば家政婦を辞めてもらってかまわないと言った。芙紗子が辞めても、新たに別の人を雇うまでだと。
失礼な言い草なのはわかっているが、決意の固さをわかってほしかったのだ。芙紗子は、折れた。
「一生、響子さんのおそばにいて、お世話するという、亡きご両親との約束を違えるわけにはまいりません。ですから、これまで通り、響子さんと行彦ちゃんのお世話をさせていただきます。
ですが、私が本当は、行彦ちゃんを養子になさることに反対であること、本当は、響子さんに幸せな結婚をして、ご自身のお子様をもうけていただきたいと思っていることを、どうぞお忘れにならないでください」
もちろん、ここまでして行彦を引き取ったのには理由がある。
それは今回も、響子のほうから連絡をしてわかったことなのだが、志保は、パート先の上司と恋仲になっていた。響子が知らなかっただけで、多分、彼女は、とても惚れっぽい質なのだ。
彼は、志保の過去を知った上で、結婚を望んでいるという。だが、さすがに彼の両親は、行彦を育てることには難色を示しているらしい。
行彦のことはともかく、志保の頭の中から、照彦の存在は、もはや、すっかり消えているようだった。