偉央の方を見ようともしないばかりか、
「想ちゃ――……っ!」
他の男の名を呼ぼうとするとか、言語道断じゃないか。
――頼むからその愛らしい唇で、僕以外の男の名前を気安く呼ばないで⁉︎
結葉が想の名を呼ぼうとした瞬間、偉央は無意識に結葉の首にグッと手をかけていた。
ほんの少し力を込めれば、きっと結葉の華奢な首なんて、簡単に捻り潰せてしまう。
「い、ぉさっ……どぉ……、して?」と偉央の名を呼んで、苦しそうに首に掛けられた手を掴んでくる結葉を見下ろして。
もうこれで終わりにしたんでいいんじゃないかと……。
愛しい結葉が自分の手を離れて誰かのものになるぐらいなら、いっそこのまま彼女を縊り殺してしまった方が、心穏やかでいられるに違いないよね? と思ってしまった偉央だ。
だって、少なくともいまこの瞬間だけは、結葉の瞳に映るのは偉央だけだったから。
偉央は、かつてはあんなに結葉を殺してしまうんじゃないかと恐れていたことも忘れて、結葉の首にかけた手にほんのわずか、躊躇いがちに力を込めた。
***
想が寝室のドアを開けた時、偉央が結葉の上に馬乗りになっているところだった。
ベッドは入り口に対して並行に置かれていたので、偉央の手が伸びた先――。
ベッドの上の結葉が偉央の下、華奢な首元に手を掛けられている姿がハッキリと見えた。
偉央の手を遠ざけたいみたいに結葉の白い手がギュッと旦那の手を握っていた。
なのに――。
想の目の前で、偉央の腕を掴んでいた結葉の手が、パタリとベッドの上に落ちて、ダラリと力なく伸ばされたのが見えた。
それを目にした瞬間、想は偉央を殴り飛ばして、結葉の上から跳ね除けていた。
「結葉!」
向こう側へ薙ぎ倒された偉央のことなんて構っている気にはなれなかった想だ。
グッタリと手足を弛緩させた結葉の姿は、想をただただ不安にさせる。
締められた首を見ると、それほど強い力は加えられていなかったのか目立つ痕は残っていないのに。
結葉が目を開けないという事実だけが、重く重く想の心に伸し掛かってくる。
結葉の話し声が聞こえていたのはつい今しがたの事だ。
だとすればきっと、偉央に首を絞められてから、そんなに時間は経っていないはずなのだ。
想はざわつく心の片隅で、高校時代、友人に誘われて柔道を少し齧っていた時のことをふと思い出した。
あのとき、絞め技で落とされた友人を、先生が即座に処置をして意識を取り戻させていた。
結葉のこれも、あの時の友人同様、いわゆる「落ちた」という状態ではないのだろうか?
そう思うのに、あの時の教師が友人にどういう処置を施していたのかが全く思い出せないのだ。
「結葉っ! 何で目ぇ開けねぇんだよ!」
言いながら結葉の頬に触れると、ほんのり温かくて……。
目を開けないのが嘘みたいに思えた。
「結葉っ!」
友人が「落ちた」時、先生は何をしていた⁉︎
すぐにでもそれを思い出さないといけないのに、頭がまともに働かないのは何故なんだ!
焦る気持ちばかりで、すぐ目の前の結葉に何をすればいいのか分からないことが、想は堪らなく情けなかった。
と、不意に想の背後から伸びてきた手が、結葉の足の下に丸めた布団を差し込んで、彼女の足を高くする。
突然手を出してきた偉央に、想が勢いよく振り返って睨みつけたら、
「脳に……血が足りてない」
偉央が疲れたようにそうつぶやいて、結葉を悲しそうな目で見下ろした。
「キミが止めてくれなかったら……僕はきっと結葉を殺してしまっていた……」
偉央が沈痛な面持ちでそうつぶやいたのと、結葉のまぶたがピクッと揺れて、ゆっくり瞳が開かれたのとがほぼ同時で。
結葉は意識を取り戻してすぐ、眉根を寄せて喉を押さえると、数回小さく咳き込んだ。
それを見て、偉央がホッとした様に吐息を落とすと、結葉の咳き込む声に紛れて聞こえないぐらいの微かな声で「有難う」とつぶやいてベッドから降りる。
瞬間、キラリと光るものがベッドサイドに落ちて、
(涙……?)
そう思った想だ。
まるでそれを裏付けるみたいにこちらを一切振り返ろうともせず、フラフラと揺れる覚束ない足取りで偉央が寝室を出ていく。
そんな偉央をどうこうしようと言う気は、今の想にはない。
結葉を危険な目に遭わせたのも紛れもなくあの男だが、結葉が意識をとり戻す手助けをしてくれたのも、間違いなく御庄偉央だったから。
想には、偉央が何を考えているのかさっぱり分からないけれど、結葉を殺したいほど憎らしく思っているのも、殺さなくて良かったと涙を落とすくらい愛しく思っているのも。
そのどちらもが、疑う余地もなく偉央の本心なんだろうと思った――。
***
「想、……ちゃ……?」
意識を取り戻した結葉が、咳き込んだせいで涙に潤んだ目で、ぼんやりと自分を見上げてくる。
結葉が掠れた声で想の名を呼ぶのを聴いた途端、そんな全てがどうでもいいと思えてしまった想だ。
「助……け、に……来て……くれた、の……?」
「ああ……」
結葉の途切れ途切れの問い掛けにぶっきらぼうに応えながら、想は結葉が今こうして自分の名前を呼んでくれて、泣きそうな顔で自分を見上げてくれることを、心の底から幸せだと思った。
「あ、の……偉央さ、ん……は?」
あんな目に遭わされてもそれを聞かずにはいられないのが結葉なんだと少し腹立たしく思いながら、彼女の質問に想は小さく首を振ることしか出来ない。
さっき玄関扉が閉まる音が聞こえた気がしたからきっと。
偉央はもうこの家の中にはいないと思う。
だけど――。
コメント
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偉央さん、出て行っちゃったけれど死なないよね?