夜は深く、街は眠りに沈んでいた。しかし、眠りの帳を裂くように、街の片隅には奇妙な気配が漂っていた。赤黒く染まった石畳の路地に、静かに、しかし確実な足音が響く。闇に溶け込むように歩く影。その名は カイラス。漆黒の翼を持つヴァンパイア――血の契約に縛られた一族の末裔であり、夜の王と呼ばれる存在だった。
その瞳は琥珀のように光を帯び、暗闇の中で異質な輝きを放っていた。カイラスの心には、ある記憶が深く刻まれている――かつて愛した者の唇、温もり、そして奪われたもの。血と契約に絡め取られた愛の残滓が、彼の胸を痛く締めつける。闇の世界に生きる彼は、決して人間の感情を忘れてはいない。いや、忘れられないのだ。人間ではないからこそ、その感情はより鮮明に、より鋭く彼を突き刺す。
闇夜に浮かぶ塔の影。カイラスはその頂上に、儀式の痕跡を見つける。赤い蝋の跡、乾いた血の跡、そして消えかけた魔法陣の残像――誰かが、ここで何かを求めた。彼の鋭敏な感覚は告げる。近くにいる――少女の気配。いや、単なる少女ではない。魂の色が異様に濃く、闇の縁を削るような存在。彼女の名は リリス。血を飲むことで覚醒し、夜の世界を揺るがす力を秘めた者。
「……リリスか」
カイラスは静かに呟く。夜風が耳元で囁き、石畳に冷たい影を落とす。リリスは振り向いた。その瞳には、恐怖と好奇、そして何か抗いきれない衝動が混ざっている。彼女の瞳は、カイラスの血の契約を求めていることを示していた。
「……あなたは誰?」
リリスの声はか細く、夜に溶けていく。だが、そこに潜む渇望は明瞭で、カイラスの理性を試すかのようだった。
「闇の夜に生きる者……そして、あなたを追う者」
カイラスは答える。その声は低く、濃密な夜の空気を震わせた。
「私は……君のために来た。逃げるな、リリス」
リリスの心臓は早鐘のように打った。彼の言葉は脅しでもなく、優しさでもなく、ただ一つの真実を告げていた――血を交わす運命は避けられない。だが、彼女の唇にはまだ迷いがあった。彼に触れることは、禁忌であり、危険である。夜の生物としての彼女の理性と、人間の心の残滓がせめぎ合っていた。
「……でも、どうして私を?」
リリスが問う。彼女の手が微かに震える。
「君は……誰よりも強い。だが、誰よりも孤独だから」
カイラスは答えた。その瞳に揺れる光は、渇望と愛憎の混ざった色を帯びていた。
その瞬間、闇夜を切り裂くような叫びが塔の上で響いた。天上界の使者――純白の羽を持つ者たちが、二人の存在を感知したのだ。光と闇の交錯――それは、この世界では許されぬ異常であり、天の秩序を乱す危険であった。カイラスは微笑む。天の者たちが来ようと、彼は屈しない。リリスを守り、血の契約を交わすまでは――。
「夜を、君に――」
彼の言葉とともに、夜の闇が渦を巻き、塔の上の風景を赤黒く染める。リリスは恐怖と期待が入り混じる瞳で、彼の掌に手を差し出した。血の契約は始まった――一度結ばれたら、逃れられぬ運命。唇が触れ合い、血が混じる瞬間、世界の秩序が微かに歪む。二人の周囲に、漆黒の光が渦巻き、夜の息吹が鋭く尖る。
「……私、変わるの?」
リリスの声は震えていた。変化は避けられない。血を交わすことは、身体だけでなく、魂も変質させる。
「そうだ、でも恐れるな。私は君を守る」
漆黒の翼が夜風を裂き、塔の影を覆う。カイラスはリリスを抱き、空を舞う。星々が見下ろす中で、血の契約の火花が散り、夜の世界に新たな秩序を刻む。それは愛か、狂気か、それとも復讐か――まだ誰にも分からなかった。
だが、二人の心には、確かな約束があった。
どんな夜も、二人で生き抜く――血の誓いを交わす限り、誰も彼らを止められない。
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