テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
鷹槻れん

33,761
鷹槻れん

16,605
#強引
#シークレットベビー
夏目萌*優しい彼~コミカライズ
2,312
『第二十八話 泣いていいよ』
──
千夏はその場に立ち尽くした。
ついこの前まで、悠真が暮らしていた部屋。
そこにはもう、何ひとつ残っていなかった。
「……うそ」
声が、かすれた。
千夏は部屋の奥へ一歩入る。
「お兄様……?」
返事はない。
当然だった。
もう、ここには彼はいない。
千夏は呆然としたまま、空っぽの部屋を見つめていた。
そのとき。
「千夏!」
背後から声がした。
振り返ると、千夏の母が立っていた。
「……お母さん?」
「あなたがこの部屋に入っていくのが見えたから……」
母も部屋の中を見渡す。
「……引っ越したのね」
母は罪悪感と安心感が混ざった複雑な口調で呟いた。
その言葉に、千夏の胸がざわついた。
「知ってたの?」
母は答えない。
「お母さん、知ってたの?」
「……」
「いつから?」
「千夏……」
「お兄様と、何かあったの?」
母の顔が強張り、目を逸らした。
その表情を見て、千夏は悟った。
「……何を言ったの?」
「……もう、あなたとは会わないでくださいって」
一瞬、何を言われたのか、理解できなかった。
「……え?」
「あなたを守るために……」
「どうして?」
千夏の声が震える。
「どうして、そんなこと言ったの?」
「あなたの将来のためよ」
「私たち、何も悪いことしてないのに!」
初めてだった。
母に向かって、千夏が声を荒らげたのは。
「お兄様は何もしてない!」
「分かってるわ」
「私だって何もしてない!」
「千夏……」
「なのに、どうして!」
涙がこみ上げる。
でも、それを拭う余裕すらなかった。
「どうしてお兄様をいなくしちゃったの!」
母は言葉を失った。
「……あなたを守りたかったの」
「そんなの……!」
千夏の唇が震える。
「そんなの、お母さんの勝手じゃない……!」
そして。
「お母さんの……ばか!!」
千夏は母の横をすり抜けた。
「千夏!」
呼び止める声を振り切って、外へ飛び出した。
──
雨が降っていた。
傘も持っていない。
制服が濡れていく。
髪も、顔も、全部、冷たい雨が染み込んでいく。
それでも千夏は走った。
「……なんで……」
息が苦しい。
胸が痛い。
「なんで……こんなことに……」
頭の中に、これまでの記憶が次々と浮かんでは消えていく。
初めて会った日のこと。
一緒に過ごした時間。
笑ったこと。
叱られたこと。
学校のことを話したこと。
友達ができたこと。
文化祭のこと。
夢を見つけたこと。
受験に失敗したこと。
そして──
空っぽになった部屋。
「……私のせいだ」
足が止まりそうになる。
「私が……」
悠真がいなくなった。
悠真の居場所がなくなった。
全部、私のせいなのではないか。
「私が……お兄様に迷惑をかけたから……」
雨が顔を叩く。
それでも涙は出なかった。
真っ黒な夜空。
雨粒が落ちてくる。
「……もう、どうなってもいい……」
そう呟いたのに涙だけは、こぼれなかった。
泣いてしまったら、本当に何もなくなってしまう気がした。
だから千夏は、泣かなかった。
泣けなかった。
ただ、雨の中を歩いた。
どれくらい歩いたのか分からない。
気がつくと、駅前に立っていた。
そして、見覚えのある店が目に入った。
──花村生花店。
もう閉店時間も近い。
照明が落とされ、鉢植えや花束も片付けられた店頭。
「……」
店の軒先に、誰かがいる。
花村さんだ。
その隣に、もう一人。
雨傘で顔が隠れている。
千夏は足を止めた。
背の高い人。
どこか見覚えのある立ち姿。
肩には、猫用のキャリーバッグ。
そして、困ったときのように、頭の後ろへ手を回す仕草。
胸が、大きく鳴った。
「……お兄様?」
その人が振り向いた。
傘の下で驚いた顔。
見間違えるはずがない。
「……千夏ちゃん?」
悠真だった。
千夏は息を呑んだ。
悠真も、何かを言おうとしたが。
「……っ」
千夏を見た瞬間、悠真は踵を返した。
「え……」
立ち去ろうとする悠真。
その前に、花村さんが回り込む。
そして、肩を押さえた。
「佐藤さん」
悠真が戸惑う顔で立ち止まる。
花村さんは静かに言った。
「逃げちゃだめです」
「……花村さん」
「千夏ちゃんと向き合って」
悠真はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと千夏を見る。
「……どこ行ってたんですか」
千夏の声は震えていた。
「私……大変だったんですよ?」
責めたいのに。
怒りたいのに。
声に力が入らない。
「受験も……うまくいかなくて……」
一歩。
千夏が近づく。
「先生にもなれなくて……」
一歩。
「お兄様もいなくなって……」
もう一歩。
「私……」
千夏は両手を差し出した。
まるで、そこにいることを確かめるように。
あと少し。あと数センチ。
悠真に触れられる。
──その瞬間。
千夏の手が止まった。
──ぎゅっ。
両手を強く握りしめる。
震えている。
そして、ゆっくりと下ろした。
「……泣いちゃ、だめですよね」
千夏は笑った。
いつものように。
悠真の前で見せる、少し困ったような笑顔。
だけど、悠真には分かった。
それが笑顔ではないことくらい。
千夏が本当に心から笑っている時。
誤魔化している時。
強がっている時。
今は、そのどれでもない。
ただ必死に崩れないようにしている。
悠真は、その表情だけで会わない間に彼女に何が起こったかを悟った。
「もう高校卒業するんですから」
笑えていない笑顔。
「……大人なんですから」
口元だけが、かすかに動く。
「だから……ちゃんとしなきゃ」
涙は落ちない。
落とさない。
「千夏ちゃん……」
悠真は呼ぶが、返事はない。
代わりに彼女は笑おうとした。
もっと強く。
もっと明るく。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
「大丈夫です」
震える声で言う。
悠真は、何も言わなかった。
ただ千夏を見ていた。
──違う。
全然大丈夫じゃない。
千夏の肩が小さく震えていた。
唇も、握りしめた指先も。
「私、もう……大丈夫ですから」
その言葉が、悠真にはどうしようもなく悲しく聞こえた。
大人は泣いちゃいけないなんて。
誰かに頼っちゃいけないなんて。
──そんなの誰が決めた?
雨音だけが響いている。
悠真は手にしていた傘を落とした。
そして肩からキャリーバッグを下ろす。
悠真は一歩近づいた。
千夏が顔を上げる。
驚いたような目。
──次の瞬間。
悠真はそっと彼女を抱き寄せた。
力は入れない。
ただ包むように。
守るように。
千夏の身体が固まる。
「お、お兄様……?」
悠真は答えなかった。
代わりに、静かに言った。
「泣いていいよ」
千夏の瞳が揺れる。
「また、立ち上がれるなら」
千夏の中で、何かが切れた。
「ひっ……」
喉の奥から、小さな声が漏れる。
「ひぐっ……」
千夏は唇を噛んだ。
それでも止まらない。
「お……お兄様ぁ……!」
堰を切ったように、涙が溢れた。
「うわぁぁぁぁん……!」
声を上げて泣く。
悔しかった。
怖かった。
寂しかった。
苦しかった。
頑張った。
頑張って、頑張って。
それでも何もかも失ったと思った。
だから、泣いてはいけないと思っていた。
もう大人だから。
すべては自分のせいだから。
でも今だけは。
この人の前では。
泣いてもいいんだ。
千夏は、子どものように泣いた。
悠真のシャツを強く握って、胸に顔を埋めて。
悠真は何も言わなかった。
ただ、その涙を全部受け止めていた。
雨の音に混じって、千夏の泣き声が響く。
その姿を見つめながら、花村さんは目尻を指で拭いながら静かに微笑んだ。
そして、悠真の足元に置かれたキャリーバッグから、
「……にゃ……」
小さな鳴き声が聞こえた。
「……くしゅん!」
ピスカのくしゃみ。
「ふふっ」
花村さんが思わず吹き出す。
千夏も泣きながら、ほんの少しだけ笑った。
雨は、まだ降っている。
けれど。
千夏の夜は、もう真っ暗ではなかった。
──続く
コメント
3件
読んでいて色んな感情が混ざりあって、 言いたいことたくさんあるはずなんですが、言葉が出てきません……😢 千夏さん、幸せになってほしい。
うわぁぁぁもうこれずるすぎるよぉ😭💕💕千夏が強がって「泣いちゃだめですよね」って笑ったところで完全にやられた……悠真くんが「泣いていいよ」って言うシーン、マジで心臓掴まれたわ…!!雨の中で抱きしめる展開とかエモすぎて涙腺決壊したんだけど?!ピスカのくしゃんまで可愛くてずるいっす😭💖続き気になりすぎる!!宇津Qさん神回ありがとうございます…ッ!!!✨