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2025年 3月上旬。
「うっ!寒っ!東京ってこんなに寒かったっけ?」
宏章は12年ぶりに東京を訪れた。
地元の熊本に帰ってから、一度もこの地に足を踏み入れる事はなかったので、この気候の違いに改めて驚いていた。
「えぇ?そこまで寒い?」
さくらは宏章の寒がりぶりに驚くと、ほら!と言って腕を組み、ぴったりと体を寄せる。
「こうしてれば暖かいでしょ?」
さくらがにっこりと微笑んで宏章を見上げると、宏章は愛おしそうにさくらを見つめた。
「そうだな」
二人は今日、侑李に会う為に東京へ訪れていた。結婚の報告と顔見せの為、定休日に弾丸日帰りで東京へと向かった。
侑李は今も相変わらずバラエティの女王として人気を博し、最近は大御所の風格さえ漂わせていた。
今日は収録の合間に小一時間程時間を取れるというので、待ち合わせ場所の侑李が経営するカフェへと向かった。
街を歩いていると、宏章はふと12年前の記憶が蘇ってきた。
さくらが「桜那」だった頃の記憶。
……そういえば初めて出会った日に、二人して財布を落としたんだっけ。
宏章は思わずふっと笑みを溢す。
そして初めて結ばれた日から、あの別れの時まで……走馬灯の様に記憶が蘇って来た。
もう二度と、ここに訪れる事など無いだろうと思っていたのに……今はまたこうして、思い出の地を二人並んで歩いているとは。
宏章は感慨深く街を見つめていた。
「なんだか懐かしいね。昔を思い出しちゃった」
さくらもまた、宏章と同じ様に昔を思い出していた。
「俺もだよ」
宏章は静かにそう言うと、ぴたっと立ち止まり、さくらへと振り返った。
「今度はもう、離さないから」
宏章はしっかりとさくらを見つめた。
穏やかな笑顔を見せつつも、口調は迷いなく、はっきりとしていた。
さくらは宏章を見上げると、愛おしそうに宏章へと呟く。
「うん、私も。今度こそ、絶対離したりしない」
もう迷わない。
そして絡めた腕にぎゅっと力を込めて、また再び歩き出した。
二人はカフェに到着した。
さくらがスマホを取り出すと、侑李からあと数分で着くとのメッセージが入っていた。入店して窓際のソファ席に並んで腰掛けると、宏章が何やらソワソワし出した。
「俺、芸能人に会うのって初めてなんだよ。めちゃくちゃ緊張するなぁ」
さくらはそんな宏章を見るなり、思わずぷっと吹き出してしまった。
「そんなに緊張しなくて大丈夫だって。侑李さん、テレビで見たままの人だから。ってか、私も一応元芸能人なんだけど……」
さくらが冷静に突っ込むと、宏章は自虐気味に尋ねた。
「ああ!そう言われればそうだよな!なんか本当に自分が信じらんないよ。さくら、本当に俺なんかでいいわけ?」
「宏章が!いいんだよ」
さくらはちらりと視線を宏章へ向けて、きっぱりと言い切った。
宏章は嬉しさからさくらの肩に手を回して体を寄せ、髪に優しくキスをした。
「そういえば侑李さんて、昔から姿変わってないけど、あの人一体いくつなんだ?」
宏章はふと疑問に思い、さくらに尋ねた。
「えーと、私よりひとまわり以上年上だから、今48かな?」
さくらが指折り数えながら答えると、宏章は大きな声で驚いた。
「え⁉︎マジで⁇」
「うん、昔から見た目全然変わらないよね!」
……年齢不詳だな、さすが芸能人だな。
宏章が感心しながらそんな事を考えていると、そこで突然ガチャっとドアが開き、コツコツとこちらへ向かってくるヒールの音がした。
……来た!
宏章はシャキッと背筋を伸ばして立ち上がり、姿勢を正す。
「ごめーん!遅れて!待った?」
侑李は手を合わせながら、勢いよく駆け込んだ。
茶髪でロングの巻き髪に、前髪をかきあげたヘアスタイル。スレンダーで長身。そしてハスキーボイスで独特の緩い口調。さくらの言う通り、秦野侑李はテレビで観たままの姿だった。
侑李は宏章と目が合うなり、間髪入れずに勢いよく話しかけた。
「君が宏章くん?やだ!めちゃくちゃいい男じゃない!」
宏章が呆気に取られていると、すかさずさくらが笑顔で答える。
「でしょ?服も髪型も全部私がプロデュースしたの。宏章、素材はいいのに、何か野暮ったいから見てられなくて」
宏章は返す言葉がなく、苦笑いを浮かべた。
そんな宏章の姿を見て、侑李はあははとお腹を抱えて大笑いした。
「あー笑っちゃってごめんね、秦野侑李です。よろしくね」
侑李は涙を拭うと、笑顔で自己紹介をした。
宏章も我に返り、慌てて自己紹介をする。
「初めまして、斎藤宏章と申します。さくらがいつもお世話になっています」
緊張気味に頭を下げると、「そんなに畏まらないでよ。まあ座って」と言って、侑李はバシバシと宏章の背中を叩いた。
……さくらの言ったとおり、テレビで見たまんまだな。
キツめな顔立ちに反して、豪快かつ気さくなキャラで宏章は安堵した。
侑李は太陽の様に明るく陽気な雰囲気を纏い、やはりどこか惹きつけられる不思議な人だった。
「侑李さん、お気遣い頂いてありがとうございました。内祝いです」
さくらが丁重にお礼を言うと、宏章もパッと顔を上げて、さくらに続き頭を下げた。
「あの……ありがとうございました」
「あぁ!お礼なんかいいって!まあこれは受け取るけどさ。あんたが無事結婚してくれて、一安心だよ。会社立ち上げるって言い出した時は、このまま独身を貫くと思ってたからさ」
侑李は頬杖をついて、やれやれと笑った。
「あと、その事も改めてお礼を伝えたくて。侑李さん、会社の件、本当にありがとうございました」
さくらはこの度、自身が立ち上げた事業を侑李の知り合いの経営者に譲り渡したのだ。
それはつい一か月程前の事だ。
お互いの両親に無事結婚の許しを得て、さくらと宏章は一緒に暮らし始めた。さくらがマンションを引き払って、宏章の家に越して来たのだ。婚姻届の記入も終えて、後は入籍日と決めたバレンタインを待つのみだった。
夕飯の支度をしながら、宏章の帰りを待つ。
さくらは左手を掲げて、薬指に光る指輪を嬉しそうに眺めた。手を下ろして大事そうにぎゅっと右手で握り、幸せそうにふふっと微笑んでいると、宏章が片付けを終えて店から戻ってきた。
「ただいま」
声を聞くなり、さくらは宏章に飛びついた。
「お疲れ様!ご飯もうすぐ出来るよ」
無邪気に言うさくらを抱きしめてから、宏章は一呼吸置いて話し出した。
「さくら、ちょっといいか?大事な話があるんだ……」
宏章がいつになく真剣な表情をしているので、さくらの心に緊張が走った。
宏章は静かにダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。
さくらはガスコンロの火を消し、向かいに腰掛けて少し俯き加減になりながら、宏章が話し出すのを待った。
「お袋の事だけど……医者から、もう長くないって言われてるんだ……」
さくらは驚いて顔を上げた。
宏章は指を組んで俯きながら、声を絞り出すように話し始めた。
「癌が見つかってすぐに言われてたんだ。思った以上に進行してて……あとは本人の体力と気力次第だろうって。お袋には伝えてないけど、本人も薄々感じてると思う……」
宏章は指に力を込めて、ぎゅっと目を閉じた。
「お袋と楽しそうにしているさくらを見ていたら、中々言い出せなくて……今まで黙っててごめん……」
さくらは泣いたり取り乱したりせずに、ただ黙って宏章の話に耳を傾けていた。
話を聞き終えると、宏章の手を包み込む様にそっと両手で握った。
「宏章……私も一緒に、お義父さんとお義母さんのお店を守るよ」
宏章は目を見開き、勢いよく顔を上げた。
さくらはうっすら涙を浮かべながら、優しく微笑んでいた。さくらの手の温もりで、宏章は心が安らいでいくのを感じた。
宏章は目を閉じて、穏やかな笑みを浮かべて呟いた。
「ありがとう……」
それがさくらが宏章と共に、両親の思い出を受け継ぐ事を決断した瞬間だったのだ。
「しかしあんたも思い切ったねぇ、本当にいいの?結構儲かってたのに……」
侑李が改めて確認すると、さくらは落ち着いた口調できっぱりと言い切った。
「いいんですよ、経営者は引き際も大事ですから。今がその時なんです。それに、侑李さんの知り合いの方に渡るなら、安心して引き継ぐ事ができますから」
そんなさくらの様子を見て、侑李はふっと笑った。
「あんたが芸能界引退した時の事思い出したよ。相変わらず潔くて、清々しささえ感じるよ。ま、あんたなら上手くやれるよ」
さくらと侑李はにっこりと微笑み合う。
宏章は横で眺めながら、二人の絆の強さを感じていた。
「それにこれからの事考えると楽しみで。私が両親のお店を大きくしてみせるよ!今度はお酒のプロデュースでもしてみようかな♡」
さくらはすでに、次のビジョンを思い描いて張り切っていた。
……そういえば俺が店継いだばかりの頃は、そんな事考える余裕もなかったな。
宏章は地元に戻った頃の自分を思い返した。
改めてさくらの逞しさに、心から尊敬の念が湧いた。
「そういえば、バレンタインデーに入籍したんだっけ?」
侑李がさくらに尋ねると、さくらは声を弾ませた。
「そーなんです!13日が宏章の誕生日だから、前日でも良かったんだけど残念ながら仏滅で。次の日は大安の上、バレンタインデーだし丁度いいねって♡」
「なるほどねー!まあ、何はともあれ幸せそうでなにより……おっと、そろそろ時間だ!」
侑李はマネージャーからの着信に気付くと、慌てて立ち上がった。
「それじゃあ桜那、また今度ゆっくりね」
「はい、今日はお忙しい中ありがとうございました。侑李さん、お身体大事にして下さい。お酒も程々に」
さくらがそう言うと、侑李は「そういえば、二人で両親の酒屋継ぐんだもんね。今度オフの時遊びに行くよ」と二人に向けて、笑顔を見せる。
「是非いらして下さい、案内しますよ」
宏章が笑顔で答えると、侑李は宏章の目をじっと見つめた。
「宏章くん、桜那の事くれぐれもよろしくね」
侑李はさくらが事務所入りした時から、一目置いて大事に育ててきた。さくらがAV女優になって、芸能界を引退するその時まで、ずっと守り続けていたのだ。引退した後も、陰になり日向になりさくらを支えた。さくらが宏章と一緒になると聞いた時、やっと自分の役目は終えたのだと思った。そして今、その役目を宏章へと託した。
宏章は侑李の目を見て、その意図を感じ取った。
「もちろんですよ。安心して下さい、今度は俺が必ずさくらを守ります」
宏章の隣でさくらは幸せそうに目を輝かせて微笑んでいた。
「やだなぁ、こっちが照れるじゃない!」
侑李は二人へ向けてにっこり微笑み、宏章の背中をバシバシと叩いた。
「それじゃまたね!あ、これから杏奈の所行くんでしょ?杏奈にもよろしくー!」
そして二人に手を振って、勢いよく去って行った。
豪快な人だな……と宏章は呆気に取られたが、いつの間にか侑李に引き込まれていた。
陽気さと、包み込むような度量の大きさ。
会えたのはほんのわずかな時間だったが、侑李が今も尚、芸能界という厳しい世界において、第一線で活躍している理由が、宏章は少しだけ分かった気がした。
2
侑李と別れると、二人は杏奈のクリニックへ向かった。杏奈へ顔見せと、結婚内祝いを渡しがてら、診察をしてもらう予定だった。
さくらがAV女優時代から、長年付けていた避妊リングを外す為だ。
杏奈には事前に電話で話していたので、クリニックの午後の休診時に診てもらえる事になっていた。
カフェから数十分ほど歩くと、杏奈のクリニックが入ったビルが見えてきた。
「杏奈先生って、あのよくコメンテーターでテレビ出てる人だろ?なんか緊張するなぁ……」
宏章はまたもテレビの人に会うのを前にして、緊張から苦笑いした。
「まーた緊張してる。大丈夫だって、杏奈先生もテレビで見たまんまの気さくな人だから」
さくらはそう言って、「ほら行こ」と宏章の手を引いてエレベーターへと乗り込む。
クリニックの扉を開くと、杏奈が受付の女の子と談笑しながら二人を待ち構えていた。
「あら!桜那ちゃん久しぶり!いらっしゃーい」
「杏奈先生、お久しぶりです」
さくらが嬉しそうに笑顔で挨拶すると、杏奈はさくらの後ろの宏章へ視線を向けた。
宏章は杏奈と目が合い、緊張気味にぎこちない笑顔で挨拶をする。
「初めまして、夫の斎藤宏章です。さくらがいつもお世話になっています」
宏章が深々とお辞儀をすると、杏奈がぱっと目を輝かせて話しかけた。
「こんにちは、医師の羽田野杏奈です。桜那ちゃんから聞いてた通り、素敵な人ね」
杏奈がそう言うと、さくらは宏章の腕にぴったりとくっつき、嬉しそうにはしゃいだ。
「でしょ?自慢の旦那様だよん!」
「あらあら、ラブラブでいいわね」
宏章は赤面してあたふたするが、手に持った内祝いに気付いて姿勢を正した。
「先生、お気遣い頂きましてありがとうございました。こちら内祝いです」
「あら、ご丁寧にどうもありがとう」
杏奈はにっこりと笑って受け取ると、雑談もそこそこに「じゃ始めましょうか。宏章くんはここで待っててね」と言って、診察室へと入って行った。
「じゃあ行ってくるね」
さくらは宏章へ手を振って、杏奈に続いて軽やかな足取りで診察室へ入った。
「じゃあ今日はミレーナを外すって事でいいのね?」
「はい、お願いします」
杏奈が確認すると、さくらは迷う事なくはっきりと返事をした。杏奈は避妊リングを外した後について一通り説明してから、隣の処置室へ移動するよう促した。
さくらが処置室へ入り、下だけ衣服を脱いで内診台に座るのを確認すると、杏奈がカーテンを閉めて台を動かした。
「リラックスしてね」
処置が始まると、さくらはゆっくりと目を閉じた。
処置をしながら、杏奈が尋ねる。
「赤ちゃん、欲しくなった?」
さくらは「うん……」と小さく頷いて、思いの丈をぽつぽつと話し始めた。
「年齢的には、不妊治療した方がいいと思うんだけど……宏章と話して、自然に任せる事にしたの。やっぱり私の過去の事があるから……。私と宏章は、自分達の意思で一緒になる事を選んだけど、子どもは親を選べないから……」
さくらは目を開いてぼんやりと天井を眺め、所々間を置きつつゆっくりと語った。
「宏章はもちろん子どもが出来たら嬉しいけど、その事で私を追い詰めたくないって言って……堂々巡りになっちゃって。それならいっそ自然に任せてみようかって。出来ても出来なくても、それが運命だと受け入れようって。出来たらもう、あとは覚悟を決めて育てるだけだよねって。その選択が正しいかどうかは、未だに分からないけど……」
さくらはそう言うと、目を閉じて美智子の顔を思い浮かべた。
女同士の約束を交わしたあの日以来、二人は強い絆で結ばれた。母娘の様でもあり、親友の様でもある……そして秘密を共有する共犯者の様な。そのどれでもあるようで、どれでもない、不思議な関係だった。
「それとね、宏章のお母さん、半年前に癌が見つかってもう長くないんだって……、お義母さんに孫の顔を見せてあげたいって言えば聞こえはいいけど……、本当は自分の為なの。いつかお義母さんがいなくなっても寂しくないように、お義母さんの遺伝子を残したくて。その子からお義母さんを感じたいのかもしれない……、身勝手だよね」
なんて身勝手なんだろう、自分の罪深さを感じているのに、望む事をやめられない……さくらは理性と本能の狭間で揺れ動いていた。
「そうね……でも人間って、誰しも身勝手なものなのかもね」
杏奈はそう言うと、昔侑李がAVに出演する事を、杏奈に打ち明けた時の事を語り始めた。
「うちは母子家庭でね、お母さんが看護師だったの。だから仕事が忙しいお母さんに代わって、お姉ちゃんがよく私の面倒見てくれててね。だけど私が高校の時に、お母さんが癌になって……それでお姉ちゃんは、お母さんの治療費稼ぐ為にホステスとして働き始めたの。私も高校辞めて働くって言ったんだけど、お姉ちゃんには、バカな事言ってないで勉強しろって一蹴されちゃってね」
杏奈は過去を思い出し、ふっと苦笑いした。
「私、昔から成績だけは良くて。医者になるのが子どもの頃からの夢だったの。それで二人からうんと期待されて……お母さんは頑張って働いて、高い塾の月謝やら高校の学費を捻出してくれて……私を医者にすることが夢だって言ってね。でも結局、治療の甲斐なくすぐ亡くなっちゃって。私は医大に進学するのは諦めて、高校卒業したら、働きながら看護師目指そうって決意したんだけど……」
話しているうちに、あっという間に処置が終わった。
杏奈は「はい、終了。じゃあ着替えしたら、また診察室に戻ってね」と言い、内診台を動かす。
さくらは着替えて診察室に戻ると、カルテを入力する杏奈の前に腰掛けた。
杏奈がカルテを入力し終えると、ちょうど受付の女の子がコーヒーを二つ運んで来た。杏奈は「ありがとう」と言ってコーヒーを受け取ると、「どうぞ」とさくらへ促した。
「さっきの続きだけどね、ある日突然、お姉ちゃんが医大の願書持ってきて、今すぐ記入しろって言うの。私はとっくに医大なんて諦めてたから、何言ってるんだろうって。学費の目処が立ったからっていきなり言うもんだから、問い詰めたらAV女優になったって言い出してね。もうすでに出演もした後だったの」
さくらはコーヒーを飲みながら、俯き加減に侑李がAV女優の道を選んだ経緯を静かに聞き入っていた。
侑李とは長い付き合いだったが、初めて聞く話だった。
「それを聞いた時はひどく取り乱して……、お願いだからそんな事しないで!って泣きながら懇願したの。私の為に自分を犠牲にしないでって言ったらね、勘違いするな、あんたの為じゃない、自分の為だ!ってえらい剣幕で言われちゃって。私を医者にするのが私とお母さんの夢だから、絶対に叶えてくれって言うの。それを聞いた時は、私の気持ちなんか無視して、なんて身勝手なんだって思ったよ」
さくらはコーヒーカップに視線を落とすと、ふと侑李の顔が浮かんで来た。
そしていかにも侑李さんらしいなと思った。
「お姉ちゃんて昔からこうと決めたら頑固で、絶対に譲らなくて。あの時のあまりの気迫に恐怖すら感じて、もうそれ以上何も言えなくなっちゃって。その後はもう、死に物狂いで勉強したよ。お姉ちゃんがそう言うなら、私の夢は医者になって、お姉ちゃんを楽にさせてやる事だって。そして一生贅沢な暮らしをさせてやるんだって誓ったの。おかげで大学はストレートで合格して、国試も一発で受かってね。お姉ちゃんの事はすぐ噂になって、在学中も研修医の頃も色々言われたりしたよ。でもそんな奴は、私がすぐに黙らせてやったけどねー」
杏奈は勝ち気な笑顔を浮かべ、コーヒーをグビグビと飲み干した。さくらは苦笑いしつつ、やっぱり二人は姉妹だなと感じた。
「誰がなんと言おうと、お姉ちゃんは私の誇りなの。子どもの頃からずっと、愛情かけて守ってくれた大事な家族だから。AV女優だろうと何だろうと関係ない。お姉ちゃんは今でも、私の全てなの。……だから、なんていうのかな……子どもも同じだと思うんだ。もし、二人の間に子どもが出来たら、二人の気持ちが伝わればいいね」
杏奈はさくらの手を両手でそっと握った。
杏奈の手の温もりが伝わり、さくらは目頭を熱くした。
「もちろん二人が決める事だし、こればかりは神のみぞ知る事だから、無責任な事は言えないけど……もしも授かる事が出来たなら、桜那ちゃんが一緒懸命生きてきた事。宏章くんを心から愛して一緒になった事。そして、だからこそ二人の間の命を望んだ事。伝えてあげて欲しいな」
杏奈はさくらの目をしっかりと見つめると、優しく微笑んだ。
「あとは医療従事者として、命に関わる者としては、純粋に命の誕生は喜ばしい事だなって。……それを望んでも叶わなかったり、悲しいケースも沢山見てきたからさ」
杏奈の話はとても説得力が籠っていて、さくらの胸の奥深くまで広がった。杏奈の話を聞いて、さくらはより深く、子どもを持ちたいとの想いを強くした。まだ完全に迷いが消えた訳じゃない。だけど迷いながらも進んでいく。この先どんな結末が待っていたとしても、受け入れて生きていく。その覚悟だけは決まっていた。
さくらは目を閉じて微笑んだ。
「ありがとう、杏奈先生」
「さて!」
コーヒーを飲み終えると、杏奈は医師モードへ切り替えて説明する。
「一週間くらい少量の出血があるかもしれないから様子見てね。あとはまた生理が戻ってくると思うから」
さくらは浮かない顔で杏奈の説明を聞いていた。
「生理か……、来るのやだなぁ」
「そうね、もし生理が重かったり気になる症状があればいつでも言って。紹介状書くから」
ため息をつくさくらに、杏奈が宥める様に言った。
「違うよ。それも心配だけど……」
「え?」
「生理の間、エッチできないじゃん」
杏奈は一瞬目が点になり、思わず大爆笑してしまった。
「そっち?」
杏奈は涙を流して笑っていた。
「だって五日間もエッチできないんだよ?」
「五日間って……、どれくらいのペースでしてるの?」
杏奈は半ば呆れ気味に尋ねた。
「週五!一晩に二回する時もあるよ!ほんとは毎日でもしたいんだけど、宏章が歳だから勘弁してって。でも私がその気にさせるんだけど」
さくらはあっけらかんと笑って言った。
「へぇ……お元気ねぇ。宏章くん、頑張るねぇ」
杏奈はさくらのペースについていける宏章に感心しきりだ。
「今はね、昔と違って心置きなく宏章とだけできるから。たくさん宏章を感じる事が出来て幸せなんだ」
さくらは純粋に、宏章にだけ抱かれる喜びを噛み締めていた。杏奈は幸せそうなさくらの表情を、穏やかに眺めた。
「赤ちゃん、授かるといいね」
杏奈がさくらに微笑みかける。
「桜那ちゃん、人間って結局本能には抗えないものよ。色々と思うところはあるだろうけど、幸せそうな二人を見ていたら、心からそう思ったの」
さくらもまた、穏やかに微笑み返した。
「杏奈先生、今日は本当にありがとう。会えて嬉しかった」
診察室から出て、さくらは外来待合室で雑誌を読んで待っている宏章のもとへ駆け寄った。
宏章はさくらに気付いて立ち上がると、心配そうに尋ねた。
「大丈夫だった?」
「うん、待たせてごめんね。久しぶりだから杏奈先生と話盛り上がっちゃって」
さくらはなんだか楽しそうだ。
宏章は優しい眼差しでさくらの頭にぽんと手を置いた後、そっと肩を抱き寄せた。その様子を、挨拶と見送りの為に診察室から出て来た杏奈が眺めていた。
「先生、ありがとうございました」
宏章が杏奈に気付いて、丁重にお辞儀をした。
「いいえ、待たせてごめんなさいね。桜那ちゃんから聞いたよ。宏章くん、体力あるね!まだまだ若いから大丈夫よー」
杏奈はクスクスと笑った。
宏章はきょとんとしながら「へ?」と言うと、みるみる赤面して慌てふためいた。
「ちょっ!何言ったんだよ」
宏章がしどろもどろになりながらさくらに問いかけると、さくらは悪戯っぽくふふんっと笑った。
二人の幸せそうな掛け合いを眺めながら、杏奈が穏やかに語りかける。
「二人とも、幸せにね。いい報告待ってるね」
二人は会計を済ませ、満面の笑みで杏奈に手を振ってクリニックを後にした。
東京から戻った翌日の夜、二人はいつものように愛し合った。
昨日東京から戻ったばかりにも関わらず、今日は朝から仕事だったが、さくらはお構いなしに宏章を求めた。宏章もさすがに疲れていたが、さくらにうっとりした眼差しで求められると、自分も理性が効かず、どうにも止まらなくなるのだ。
薄暗い部屋に、二人の荒い息遣いが響き渡る。
宏章はさくらの乳首に少し歯を立てて強く吸い、右手でもう片方の乳首を強めに摘んで愛撫した。さくらはこうされるのが好きなのだ。
「あっ!もっと……もっとして!」
宏章がさくらの秘部に指を挿れて、卑猥な水音を立てて激しく動かすと、さくらはいつも以上に大きな声でよがった。
……いつも以上に濡れてる。
まるで発情期の猫のような、さくらの尋常じゃないよがり方に宏章も我慢ならず、「もう挿れるよ」と言ってゆっくりペニスを挿入した。
「んあっ!……あああっ!」
ぐいぐいとゆっくり押し広げるたびに、さくらが快感から声を上げる。行き止まりに触れると、ゾクっと脳まで刺激が走った。
……ヤバいな……今日はすぐイキそうだ。
宏章は腰をゆっくり動かし、焦らす様に緩急をつける。
「いやっ!もっと激しくして!」
さくらが叫ぶと、宏章は激しく腰を動かした。
「さくら……もう出そう」
宏章が達しそうになるにつれ、さくらの声があまりに大きくなるので、思わず口唇でふさいで舌を押し挿れた。さくらは苦しそうに「んんっ!」と声を漏らし、顔を歪めた。宏章はそんなさくらへお構いなしに、射精の間舌を強く吸った。
さくらの中ですべて出し切って、ゆっくりペニスとともに口唇を離す。舌を深く押し挿れていたため、唾液が糸を引いた。その様子を、さくらは恍惚の表情を浮かべて眺めていた。
宏章はベッドサイドからティッシュを取り出し、さくらの陰部を優しく抑えたあと、自分のペニスを拭った。そしてふーっと長めに息を吐いて、ベッドに横たわった。
「……さくら、今日いつも以上にすごくない?声も大きいし、濡れ方も尋常じゃなかったよ」
宏章はついていくのがやっとという感じで、さくらに問いかけた。
「んー……なんか今日いつも以上に感じちゃって……いつも気持ちいいんだけどさ」
さくらは宏章にしなだれかかりながら、気怠そうに答える。
「まあ、俺も気持ちよかったけどね」
宏章はやれやれと、ふうっと息を吐いて笑った。
「あ!多分今日排卵日かも!」
さくらは思い出したかのように、突然声を上げた。
「え?ほんと?」
「うん、カレンダー的に多分そうかも。それでいつもより感じてたのかな?」
さくらはにっこりと嬉しそうだ。「この一回で出来ちゃったりして」なんて、悪戯っぽく笑っている。
「そうだといいな……」
宏章はさくらを抱き寄せて、穏やかに微笑んだ。
さくらは宏章の胸にぴったりと頬を当て、しばらく宏章の鼓動を感じていた。規則的に繰り返される生命のリズムに、生まれる前の遠い記憶の彼方……まるで母の胎内にいるかのような安らぎを覚えた。
「子守唄みたい……」
宏章は腕に抱いたさくらの温かさで、うとうと眠りかけていたが、その呟きで目を覚ました。
「あ……ごめん、今何か言った?」
寝ぼけ眼の宏章の顔を、さくらはまるで我が子を慈しむ、母親の様な優しい眼差しで見つめた。
……愛おしい。
「……何でもない。好きだよって言っただけ」
そうして二人は抱き合って、幸せな眠りについた。
それから数か月後、侑李と杏奈の元にさくらから嬉しい報告が届いた。安定期に入り、やっとみんなに報告する事が出来たらしい。
杏奈の元へやって来た時のさくらは、迷いと不安が大きかったが、妊娠が分かった時はただただ嬉しいのみと感じたそうだ。侑李と杏奈は無事の出産を祈り、これから産まれてくる子どもの未来が、どうか幸せであるようにと願った。
そしてその年の暮れに、さくらは無事元気な男の子を出産した。出産の報告とともに、産まれたばかりの赤ちゃんを抱いて慈愛に満ちた微笑みを浮かべるさくらと、感動から涙目になった宏章の写真が送られてきた。
お義母さんに孫の顔を見せてあげられた事を、二人は何よりも喜んだそうだ。
侑李と杏奈は顔を見合わせ、ふふっと笑いそっと呟く。
「ようこそ!麟太郎」
完