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テレビ収録から数週間。
世界は驚くほど平然と、いつも通りの速度で回っていた。
ライブに出て、ウケたりスベったりして、ネタを直して、時間の合間にバイトをして、またライブの舞台袖に立つ。
なのに、私の心のどこかだけが、あの日のテレビ局の控室に置き去りにされたままだった。
『バズれ!モノマネ・オン・ステージ!』
放送は、明日。
番組の予告映像は、数日前からSNSで何度も流れてきた。
タイムラインをスクロールするたび、派手なテロップが目に飛び込んでくる。
《春の☆湯煎式のモノマネに本人登場!?》
踊る文字のどこを探しても、『イナリズシ』の名前はない。
……まあ、そうだよね。
あの日、あの嵐のような収録。
相方のリコに怒鳴りつけて、ようやく「本当のコンビ」になったつもりで、大トリを必死にやり遂げたけれど。
結局、話題をさらうのは超人気の湯煎式や、完璧な技術を持つリソさんなんだ。
それに。
収録が終わった直後、私はこぼしてしまった。
「芸人、やめたい」
感情が溢れただけだ。本気で辞める準備をしたわけじゃない。
でも、一度口から出た言葉は、重く冷たい鉛のように胃の底に沈んでいる。
笑わせるのが仕事だと言いながら、笑われる側の恐怖に、私は負けかけていた。
最低だ。あんなに真剣に言い返してくれたリソさんに、合わせる顔がない。
「寿司子ぉ、そろそろやろか」
稽古場の冷たい床に座り込んでいた私に、リコの声が降ってきた。
「あ、ごめん」
慌てて立ち上がる。
手元にあるのは、ネタ帳の三本目。
昨日、頭をかきむしりながら夜中の三時までかかって書き上げたやつだ。
ふと、自分に呆れる。
やめたいなんて吐かした人間が、三本も新ネタを書いてる。
救いようのない、大バカだ。
「ほな、最初からいくで……せーの」
リコが合図を出す。
「どうもー!」
声を張り上げた瞬間、肺の奥に溜まっていた澱が少しだけ外へ押し出される。
ボケる。
リコが、間髪入れずにツッコむ。
心地よいリズムが返ってくる。
あ、と思う。ちゃんと、回ってる。
「……なんや、今日の寿司子。ちゃんと『寿司子』やん」
ネタ合わせが一段落し、ペットボトルの水を飲みながらリコが言った。
「……なにそれ」
「いや、ここ数週間、なんかどっかズレとったやろ。ゾンビが漫才しとるみたいやったで」
「失礼だな、生きてるよ」
「でも、今はええ。ちゃんとアホや」
「褒めてるの?」
「最大級にな」
リコが不器用そうに笑う。その笑顔を見て、胸の奥の結び目が少しだけ、ほどけた。
私は今、ちゃんとボケている。
ちゃんとツッコまれている。
思い出すだけで、胃が縮むくらい恥ずかしくて、やめたいって逃げたくせに。
結局、立ち位置を確認して、声を張り上げている。
「……ねえ、リコ。『芸人やめたい』って言ったやつが、新ネタ三本も書いてるって、どう思う?」
ぽつりと漏らした一言に、リコは即答した。
「アホやな」
「……だよね」
「でも、安心したわ。やめるやつは、三本も書かん。死ぬ気で書いたネタは、死ぬまであんたを離さへんからな」
その言葉が、まっすぐ胸の真ん中に突き刺さった。
そっか。私は、まだ書いている。
まだ、相方の隣に立っている。
スマホを取り出し、リソさんとのトーク画面を開く。
『今日はありがとうございました』
あの日送った儀礼的メッセージ。既読がついた。それだけだ。
……でも、まあ、いっか。
返事がなくても、私の足はあの夜にリソさんに教わったダンスのステップを、無意識に刻んでいる。
「なにニヤニヤしとんねん、寿司子」
顔を上げると、腕を組んでこちらを睨む相方の顔。
「……なんでもないよ」
うん、大丈夫だ。
なんの根拠もないけれど、私はたぶん大丈夫だ。
───
翌日、放送当日。
番組が終盤に差し掛かった頃、私たちはテレビの前にいなかった。
録画はしてある。けれど、なんとなく自分たちの姿を直視したくなかった。
いつもの稽古場で、週末のライブに向けて練習を続けていた。
その時。
床の上に置いていたスマホが、低く唸った。
一度。二度。三度。
バイブレーションが止まらない。通知音が、稽古場の空気を震わせる。
リコが怪訝そうに画面を覗き込み、次の瞬間、目を見開いた。
「……なんや、これ」
私も隣から画面を覗く。
フォロワー数のカウンターが、まるで故障したスロットのように、見たこともない速度で跳ね上がっていた。
トレンド一覧。
そこには、自分たちのコンビ名が躍っていた。
『イナリズシ』
『春の☆湯煎式モノマネ』
SNSのタイムラインには、誰かが切り抜いた動画が溢れている。
《リソ激似芸人のアイドルガチ批判コント、ヤバすぎwww》
《このイナリズシって子たち、面白すぎて最高。令和の爆弾だろ》
止まらない通知。鳴り続ける電子音。
私たちが知らないところで、周囲が急激に熱を帯び、スピードを上げていく。
私は、リコを見た。
リコも、私を見た。
つい数秒前まで、ただの薄暗い稽古場だったはずの場所が、今は全く違う景色に見えた。
「……リコ」
「なんや」
「本気のイナリズシ……見せちゃおうか」
リコが、かつてないほど不敵に笑った。
「ええな。もう、後戻りはできへんで」
スマホは、まだ震えている。
でも、不思議と怖くはなかった。
だって私は、もう知っている。
どれだけ絶望しても、結局ネタを書き続けてしまう、救いようのないバカだってこと。
まだ、バカでいられる。それだけで充分だ。
そうだよね?リソさん。
──続く