テラーノベル
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浅草、宇津久芸能の朝は、いつもは静かだ。
電話が鳴るのは、せいぜい営業確認かライブの入り時間の変更など。
FAX受信の音。誰かの欠伸。それがこの事務所の通常運転だった。
───昨日までは。
「猫田さん!外線3番、クジテレビから問い合わせです!」
「はい、お電話かわりました。マネージャーの猫田です。イナリズシの件ですね。少々お待ちください……」
昨日まで静かだった事務所の電話が、今日は鳴りやまない。
受話器を置く間もなく、別の回線が点滅する。メール通知は鳴りやまず、営業はスマホを耳にあてながら廊下を落ち着きなく往復している。
社長室からは機嫌の良さそうな通話の声が聞こえてくる。
昨夜の放送から一夜明け、あの2人のバズりは本物だった。
私はデスクの上のスマホを伏せる。トレンド入り。フォロワー急増。切り抜き動画の再生回数。数字は嫌というほど入ってくる。
だが──数字は、麻薬だ。
───
「……おはようございます」
「……おはようさーん」
稽古前の二人が、明らかに寝不足の顔で事務所に入ってくる。昨夜は興奮して眠れなかったのだろう。瞳の奥はきらきらしているが、クマだらけで極限状態の目だ。
「エゴサは禁止。SNSは事務所で預かります。呟きも返信もブロックも、私が判断する」
椅子に座らせるなり、私は言った。
「えっ、なんでですか?」
と寿司子が意外そうに聞いてきた。
「今は浮かれるのも、落ち込むのも、どっちも早すぎる。数字や意見を見るのは私の仕事」
二人とも、わかりやすすぎるほど不満顔だ。
「特に寿司子。あなたは言葉をまともに受け止めすぎるから」
リコが唇を噛む。反論したい顔だが、飲み込んだようだ。
「これから仕事は増えるわ。取材も、追加ライブも、藤原さんから再出演の打診も来てる。でもね」
私は指を立てる。
「今は波に乗るのが仕事よ。モノマネ路線で行きなさい。『春の☆湯煎式』公認、そこを前面に出す。求められているものを、まず返すの」
寿司子は一瞬だけ目を伏せ、それから頷いた。
「……はい」
素直すぎる返事だった。
かえってそれが、不安をかきたてる。
───
週末の劇場は、異様だった。
定例ライブ『UZUQ魂!』
普段は三分の一ほど客席が埋まる程度だが、開演三十分前で立ち見が出ている。
普段は顔見知りの常連が中心だが、今日は明らかに違う層が混じっていた。スマホを構える若い客。推し団扇を持っている客もいる。ざわめきの質が軽い。
私は袖から客席を眺める。
───期待値が高い。
それは、芸人にとって必ずしも味方ではない。
イナリズシの出囃子「スシ喰いねェ!」が鳴る。
あれ?『春の☆湯煎式』の曲じゃない。
「どうもー! イナリズシでーす!」
出迎えた歓声は、確かに大きかった。
「うっひゃぁ! 今日はぎょうさん入ってますなぁ!」
「私たち、いつもはこんな漫才やってます」
寿司子が、いつもの『寿司ネタ』を始めた。一つ目のボケから、空気がわずかにずれる。
私は目を細める。
ああ、そう来たのね。
だったら、今日は転ぶわ。
客席の前列が、戸惑ったように瞬きをしている。二列目は周囲の様子を窺う。立ち見客は、スマホを構えたまま動かない。後ろに追いやられていた常連客は、普段通りの二人に安心したような残念なような、微妙な表情になる。
お客さんが期待していた『バズりの再現』ではない。
リコのツッコミが、空振りする。
客席からの反応が遠い。誰かの咳の音が、やけに大きく聞こえた。
それでも二人は止まらない。リズムは崩さない。最後まで、やり切った。
「ありがとうございました〜」
終演の拍手は、礼儀としての音量だった。
───
袖に戻ってきた二人は、どちらも何も言わなかった。汗だけが妙に光っている。
私はタオルを差し出す。
「……やらかしましたかね」
寿司子が、照れ隠しのように笑う。少しだけ声が震えている。
「今日のお客さん……ちょっと緊張してたんちゃうか?」
リコは淡々と言った。
私は答えない。
廊下の向こうから、ハイヒールの音が近づく。
「……このバカども」
出番前の黒羽メグが腕を組み、ため息をつく。
「せっかく追い風来てんのに、自分で真っ向から逆風吹かせてんじゃねえよ」
呆れた声だが、目の奥はどこか楽しそうだった。
二人は顔を見合わせ、苦笑いする。
「でも、これが私たちのやりたいネタでしたから」
「せや、アイドルはもう懲り懲りやわ。これから本気のウチら見せたるわ」
メグは一瞬だけ私に視線を送り、やれやれといった表情になり。
「ふん。もう人気者気取りか」
そう言って舞台に向かう背中。そして、すごすごと楽屋に戻る二つの背中を見送りながら、私はゆっくり息を吐いた。
──売れかけの芸人は、だいたい面倒くさい。
波に乗れと言えば、自分の足で逆方向へ走る。合理的な正攻法より衝動性を選ぶ。かつて、そんな風に波に溺れた芸人を何人も見てきた。
けれど。
あの舞台の上で、二人は完全に心が折れた目はしていなかった。
スベったあとでも、寿司子は次のボケを迷わず繰り出していた。リコはツッコミの間を測るように、寿司子の目をじっと見ていた。
まだ、やめない目だ。
私はスマホを取り出す。着信通知は相変わらず止まらない。
波は、まだ続いている。
「……やっぱり、面倒ね」
小さく呟き、私はスケジュール帳を開いた。
浮き沈みは、こちらが受け止める。
あのバカどもが、迷って沈没しないように。
それが、マネージャーの仕事だから。
──続く
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