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猫塚ルイ

お稽古の準備中だったはずの美鈴が、拗ねた顔で私を見る。
「もう! 幹太さん、酷いのよ! 送るとか気を持たせておいて、実は私経由でお姉ちゃんにこれを渡したかったみたい。酷いわ」
「これ?」
美鈴の一冊の本を押し付けられる。
「俺からは内緒にして欲しいって言うから言ってやる。乙女心を弄んだ罰なんだから」
美鈴は独り言のようにブツブツ言いながら私の返事も待たずに稽古室へ消えていく。
もう三味線の音が聞こえてくるから、お弟子さんたちの練習が始めっているようだった。
廊下でぽつんとなった私は、押し付けられた本を見る、
色んな国際結婚した女性の経験談が詰め込んだエッセイらしい。
どうして幹太さんがこんなものを?
ぼーっとしてる私を心配してこんな本を探してくれたのかな?
「あ」
本には、イギリス人と結婚する場合、婚姻関連査証の取得条件に「英語力試験」が追加されていると書かれていた。
私に英語は喋れるのかと聞いてきたる理由はこれだったんだ。
幹太さんは、これを読んで私に色々アドバイスしようとそわそわ落ち着かなかったんだと思うと、胸がじんと熱くなる。
いくらデイビーが私と同じ日本で住む事になっても、彼がイギリス人なのだから手続きが色々掛るんだ。
私が初恋に舞い上がってる中、幹太さんがこんな風に心配してくれてたんだと思うとなんだか嬉しい。
怖いだけの存在だったのが、恥ずかしくなる。
ちゃんと言おう。お礼を。
美鈴が幹太さんを好きな理由が私にも分かるような気がした。
言葉はくれないけれど、態度や行動で示してくれる人。
デイビーみたいに甘い言葉はくれないから、気づかれにくいのかもそれないけれど、私にもやっと分かった。
***
「てな訳で、ありがとうございました」
「何が?」
「これです」
お昼の休憩で、賄いを食べ終え下げに行きつつ幹太さんにお礼を言う。
とぼける幹太さんに、昨日頂いた本を見せる。
「しらん」
本当に素知らぬ様子でそのまま作業に戻っていく。
幹太さんは練り菓子の模様を刻み終えた後で、桐箱に詰めている。
そのまま出荷するようだ。
「明日、デートなので参考になりました。ちゃんとこれに載っていた手順を彼に話してみます」
「そうか。俺は中身は知らないがまあ、頑張ればいい」
桐箱三箱に並べ終えると、帽子を脱いで椅子の深々と座る。
「お前の妹は、何に怒っているんだ?」
「え?」
「昨日、途中からずっと下を向いて怒った顔をしていた。それでこの結果だ。いつも愛想よく御遣いに来るくせに」
意外だ。幹太さんは自分への好意には全く気付かない人なんだ。
本当に大切な人以外、眼中にないのか。
だからこんなに良い人なのに今まで浮いた話が無かったんですよ、と小百合さんに報告したいぐらいだ。
美鈴が簡単に黙っているはずなんてあるはずないのに。
「笑うな」
「すみません」
幹太さんは本当に困っているのかもしれない。
それでも顔がにこにこと崩れてしまう私に、幹太さんは呆れ顔だ。
「俺の事はもう良いとして、お前もちょっとは分かったろ」
「分かる?」
「『10個ぐらい下さい』だよ。俺は毎回それを聞いて苛々してたんだ」
まさか幹太さんからその話を振ってくるとは思わず、一瞬固まってしまう。
一瞬で済んだのは、とっくにあの日の恐怖が取り払われていたからだ。
「3歳ぐらいから大人たちに混じって稽古させられて、親の顔色ばかり伺うガキで、妙に子供らしくない哀愁まで漂わせて」
「わ、私の事ですか?」
「他に誰の話をしてんだよ」
睨まれると「そうですよね」としか返せないけど。
「私の事、嫌ってたんですか?」
ついつい聞いてしまうと、幹太さんは否定しなかった。
「桔梗はあれぐらいの歳の頃は俺に毛虫とか投げつけてたぞ」
それはそれで想像がつく。悪ガキ風の桔梗さんに、クールに対応する幹太さんが。
「『10個ぐらい』で方や妹は自分も食べたくて12個、お前は多く頼んで怒られるのが怖くてちょうど10個。あれはお前の母親の不器用ながらお前への御褒美だったかもしれないのに」
「…………」
「まぁ、母親も不器用すぎだが」
黙ってしまった私に、幹太さんが口ごもりながらフォローしてくれる。優しい。
幹太さんはあの時から優しかったんだ。
私が分かっていない、了見の狭い子供だったせいで。
「過去の話だ。つい生きにくそうだったから、強めに言ってしまったが、――俺だってあの日からお前が御使いに来なくなって、後味が悪かったんだからな」
「幹太さん……」
「何か言え。ちゃんと聞かせろ」
黙っている私は、ただ自分の意見が言えなくて固まっていたあの日の子供じゃない。
ただ、幹太さんの優しさに胸が一杯になってるだけなんだ。
「ふふ。此処に来た初日に怖がってすみません」
「全くだ」
フンッと鼻息荒く幹太さんが腕を組む。
コメント
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篠原愛紀さん、第40話読了しました。 幹太さんの「しらん」という素知らぬ顔と、こっそり本を渡す不器用な優しさに、胸がぎゅっとなりました。あの日、子供だった主人公に「10個ぐらい下さい」と言った真意が、こうして解かれる——怖いだけだった存在の奥に、ずっと温かい眼差しがあったんだと分かる瞬間、私も一緒にじんとしました。美鈴が拗ねる気持ちも分かるけれど、この距離感が、この関係が、とても好きです。