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藤井守、43歳。独身で彼女いない歴も同じく43年。もちろん、まだ童貞だ。
彼は近所のスーパーでアルバイトをしている。高めの血圧とメタボ体型が少し気になるが、
特に改善しようという気も起きない。
守は人と話すのがとにかく苦手だ。毎朝、同じ時間に目を覚まし、パート先に向かう。
そこで、大学生たちが休憩時間にするくだらない話をただ聞き流す日々。
同僚たちがこそこそと自分の悪口を言っているのを感じながら、夕方には家に帰る。
そんな守の日常に、唯一の癒しがあった。それは、今一緒に暮らしている猫だ。
彼が帰宅すると、猫はいつも玄関で待っていて、小さな声で鳴きながら出迎えてくれる。
その瞬間だけは、彼の心がふっと軽くなる。
猫と過ごす穏やかな時間が、守にとってのかけがえのない宝物だった。
彼は猫の柔らかい毛を撫でながら、今日もまた、明日も変わらない日常が続くのだろうと考える。
しかし、その小さな癒しがあるからこそ、彼はまた次の日も頑張れるのだった。
守の毎日は変わり映えしない。しかし、そんな日々の中にも、彼の心をかすかに揺らす存在があった。
それは、レジ係の三井紗良――20歳、まだ若く、どこか初々しさが残る彼女の姿だ。
紗良は、とにかくかわいい。明るい笑顔と澄んだ目、軽やかに動く手足に、
他の社員やバイトの男たちの視線は常に彼女に釘付けだ。
彼女がレジに立てば、まるでミツバチが花に集まるかのように、彼女目当ての男どもが列を成す。
それに対して、ヘルプで入る守のレジには誰も近づかない。
守はいつも無表情だ。以前、「お前、目が死んだ豚みたいだな」と大学生のバイト仲間にからかわれたこともある。
その言葉は、彼の心に深く刺さったままだった。
もちろん、紗良と話したことなど一度もない。彼女が目の前を通り過ぎるとき
すれ違いざまに何か言いたいという衝動に駆られることはあっても、言葉は喉の奥でつかえて出てこない。
休憩時間、守はいつものように一人で弁当を食べていた。
窓際の隅のテーブル、他の誰とも交わらない場所。ふと視線を向けると、
紗良がアルバイトの佐々木と森井に囲まれて何か話しているのが見えた。
守の耳は、自然とその会話に集中していた。
「紗良ちゃん、今度飲みに行かない?」と佐々木が軽い調子で誘う。
「私、お酒は飲めないんです」と紗良は少し申し訳なさそうに答える。
よくある会話だ。守はそれを聞きながら、心の中で呟いた。
(紗良ちゃん、僕も飲めないんだ。一緒だね。)
だが、佐々木は諦めない。「じゃあ、キャンプはどう?今度サークルでキャンプやるから、
一緒に来てよ」と、さらに食い下がる。紗良は困った顔をしていた。
守の視線は、彼女のその微妙な表情を逃さない。
もう一人のアルバイト、森井が口を挟む。
「夜は花火とかキャンプファイヤーもあるし、すごく楽しいよ!」と、まるで勝手に決めたように熱心に続ける。
(こいつら、紗良ちゃんが困ってるだろう!) 守の心の中で何かが叫んだ。
紗良は苦笑いを浮かべて、
「ごめんなさい、私用事があるから」とやんわりと断った。それでも佐々木は食い下がる。
「えー、いつも断ってるじゃん。少しは付き合ってよ」
その時、紗良の顔に浮かぶ明らかな困惑。守はそれを見ていながらも、
動けなかった。彼女を助けたい、何か言ってやりたい、
でも体は硬直したまま。守は極度のコミュニケーション障害を抱えており、
この状況で言葉を発することなど到底できるはずがなかった。
守は、その瞬間の自分を振り返ることもせず、ただ無表情のまま、
弁当のごはんを口に運ぶだけだった。紗良の声と、彼女の笑顔が心に残りながらも、
守の手は止まらず、静かに食事を続けた。
紗良ちゃんを助けることもできない――それが、彼の現実だった。
休憩室には、佐々木と森井がまだしつこく
三井紗良に話しかけていた。紗良の顔には明らかな困惑の色が浮かんでいる。
そこへ突然、「おーい、休憩時間終わりだぞ」とアルバイトの天城英二が軽い調子で入ってきた。
彼の登場に、仕方なく佐々木と森井は渋々部屋を出て行く。
「大丈夫?」と天城が優しい声で紗良に尋ねた。
「うん。ありがとう」と、紗良が笑顔で応える。
天城英二、21歳の大学生。スリムな体型とさわやかな笑顔、どこか洗練された雰囲気を持ち、
女性からの人気は言わずもがなだった。それに頭も良く、気遣いもできる。
守が持っていないものを、彼はすべて持っているかのようだった。
天城はふと、休憩室の片隅で弁当を食べていた守に気づき、軽く声をかけた。
「あれ、守さん、いたんですね。紗良が困ってたなら助けてあげてくださいよ」
守は無言のまま、ただ目を伏せていた。心の中で(できるならやってるさ)とつぶやきながら
部屋を出ようとする。そんな彼の背中に、天城の声が再び飛んできた。
「紗良、今夜これる?」
守は足を止めた。(今夜?この二人、やはり付き合っていたのか!?)胸の奥がズキリと痛んだ。
紗良が小さな声で答える。「うん。今日もいっぱいしてほしい…」
守はその言葉に衝撃を受け、体が固まった。(いっぱいしてほしい…?) 耳が真っ赤になるのを感じた。
天城の軽快な返事が聞こえる。
「はは、いいね、俺も気合い入れていくか」
守はそのまま部屋を出るつもりだったが、好奇心と衝撃で足が動かなくなり、
ドアの向こうで耳を澄ませてしまう。
(ガーン!!紗良ちゃんからそんなおねだりの言葉が!?) 心臓はバクバクと鳴り、
冷や汗が額を伝う。彼女の清純なイメージが音を立てて崩れていく。
紗良の次の言葉が守をさらに驚かせた。「今日は何回いけるかな」
「何回でも付き合うよ」と天城が笑う。守の想像は膨らむ一方だった。
(まさか、紗良ちゃんがそんな欲しがりだったとは…。)
しかし、その直後、紗良の声が変わった。「私たちの手で地球を守らなくちゃ」
守の思考は一瞬で停止した。(なに?地球を守る?)
天城も続けて、「ああ、じゃあ20時にギルドで」と言い残し、部屋を出ていった。
慌てて隠れる守は、ドア越しに二人の言葉を反芻していた。(ギルド?地球?)
深呼吸をし、冷静になろうと努めた。守は極度のコミュニケーション障害を抱えながらも、
少ない情報から推理するのは得意だった。彼は頭の中で断片的な会話を繋ぎ合わせていく。
「なーんだ、ゲームのことか」とようやく状況を理解し、ホッと胸をなでおろす。
紗良と天城は単にオンラインゲームの話をしていただけだった。
紗良の「今日もいっぱいしてほしい」という言葉も、「何回いけるか」という言葉も、
すべてゲーム内の会話だったのだ。
守は自分の早とちりに、深くため息をついた。しかし、その安堵感の裏側には、
やはり天城と紗良が親密な関係であることへの複雑な感情が渦巻いていた。