コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
シグニカに溶け込むために買いそろえたというソラマリアの衣が弾けるように融ける。耳飾りの紅玉が鼓動を打つように断続的に光を放った。眩い閃光が脈打つたびに魔法の衣に置き換わる。鍛え上げられ、引き締まった鋼の如き肉体を魔法の糸に織られた不思議な衣が覆っていく。
深い群青に照る金属質の衣が戒めるかの如く覆い、車厘の如き柔らかな質感の青白く透き通った布切れが散り行く花弁のように体に重なり、混ざり合うように融け合うように一体になって、花開くような肩口の袖と丸みのある裾を形成する。喩えれば残照の如き橙色の長靴は膝まで覆い、踵が視界を持ち上げる。
天から降ってきたかのように現れた夜闇に似た陣羽織を被り、鈍く輝く金の襟止めで引き締める。銀河で染め上げたような持ち前の髪はほどけ、風を含んだようにふわりと広がる。
紅玉の耳飾りの光の鼓動は最後に琵琶に似た白塗りの弦楽器を呼び出した。ベルニージュの楽器に似ているがこちらは四弦だ。
ソラマリアが何かを言う前にユカリは呟く。「踵もそうですけど、それで走れます?」
ソラマリアは琵琶を背後に回す。「問題ない」
再びユカリは残留呪帯を目にしていた。一瞬たりとも二度と同じ光景を見ることはできない目まぐるしい混沌の風景が広がっている。混ざるはずのない水と油の混合液を延々と掻き混ぜているような光景だ。見たことのない生物。その死骸。歌い踊り笑う木々に岩、影、言い表せない何か。並び立ち、渦巻き、涙を誘う泣き声を漏らしながら捻じれる獣たち。ユカリが今までに思い描いたどの地獄よりも騒々しい。
耳飾りの魔導書で変身したソラマリアは残留呪帯を目の当たりにしても怯んだ様子はない。それなりの場数を踏んだ戦士とはいえ、これ以上に禍々しい情景を見たことはないはずだが、演説にでも臨むような適度な緊張感はあれど恐れは微塵も感じさせない。ユカリが知る中で百番目に勇敢な戦士だ。神話の英雄を除けば一番勇敢な戦士だ。
ユカリも勇気を御する手綱を取って、見ただけで呪われそうな景色を直視する。
前回はベルニージュの魔術的防衛を駆使して通り抜けた。それでも嫌な目に遭った。残留呪帯を前にして、ユカリはベルニージュの手の感触に似た蜘蛛を思い出して怖気だつ。
「要するに直接我々に作用するような魔術はこの衣によって防げるが、間接的な魔術は自分たちの力で何とかしないといけないわけだな。そして何より優れた魔術師は今ここにいない、と」とソラマリアが何日か前のユカリの説明と目の前の状況を照らし合わせつつ整理する。「そうして思いついた策は、できうる限りの最高速度で通り抜ける、か」
少なくともソラマリアは魔術を駆使すればユビスよりも速く走れる。ユカリもまたそれなりの速度で飛ぶことができる。
ユカリはいつも以上に首を曲げてソラマリアの顔を仰いでいる。
「シグニカでの追いかけっこではレモニカを背負ってなお、あの速度でしたよね。ソラマリアさんに無理なら誰にもできないです」
「そういえば前にユビスに追われたな。それで、真っ直ぐに進めばいいのか? 残留呪帯の厚さはどうだ? どれくらい走っている必要がある?」
「冥府の猟犬に追われていると思って、ただひたすら真っ直ぐです。距離は問題ないです。あの時の追いかけっこよりは短いですから」ユカリはソラマリアの背負う琵琶を見つめている。「実はソラマリアさんに背負ってもらった方が速いんじゃないかと思ってたくらいなんですけど。楽器のことは忘れてましたね」
「背負えなくもないが」
「いえいえ、良いです。大丈夫です」
ユカリとソラマリアは最高速度で通り抜けるため、助走をつけるために残留呪帯の領域から少し離れる。
「準備は良いか? ユカリ」ソラマリアが構えながら問う。
ユカリは魔法少女の杖にしがみついて答える。「準備完了です。いつでもどうぞ」
「ああ、そうそう。私は走りを補助する魔術など使えないからな。期待するなよ」
「はい、……え!?」
ユカリが疑問を言葉にする前にソラマリアは駆け出した。魔術を使っていない人間の速さではない。三歩目には最高速度に達している。自身が射た矢を追い抜けるのではないだろうか。ユカリも追って、蓄えた空気を後方へと噴出する。
やはりソラマリアは速い。ユカリの握力の許す限りの加速度で魔法少女の杖は空気を【噴出】したが、ソラマリアに追いつくことはできなかった。残留呪帯に突入し、少しずつ距離を離される。せめて見失わないように風に乾く目を必死に凝らす。
残留呪帯の中でも音や光の類からは逃れられない。まるでユカリと並走しているかのように耳元でか細い泣き声が聞こえ、様々な幻視がそこここに立ち現れる。だが杖を掴むこととソラマリアを見つめ続けることに集中していて、ほとんど気にならなかった。
前回と比較して半分も過ぎた頃、突然ソラマリアが抜刀する。少し前にユカリも気づいていたが、行く手に奇妙に幹や枝の曲がりくねった木立が現れている。幻かどうか分からないが、どうやら木々を斬って進むつもりらしい。文字通りまっすぐ進むという訳だ。そういう意味ではない、とユカリは言いたかったが状況がそれを許してくれない。ユカリもまたソラマリアの膂力を信じ、覚悟を決める。
ソラマリアの一太刀目が空を切る。幻だ。しかし返す刀は手応えあり、節くれだった木が倒れる。本来何が目的の魔術なのかも分からないが、ユカリはソラマリアに感謝しつつ、幻の木と実在の木があった空間を通り抜ける。
どれくらい進んだかも分からないが、ベルニージュがいないので残留呪帯を通り抜けたという確信も得られず、ユカリたちは念のために余計に荒野を進む。
ユカリが息せき切って地面に降りるとソラマリアが変なものを見る目で見つめる。
「走ってもいないのに疲れているな」
「死ぬ思いでしたから、呼吸を忘れてました。ソラマリアさんは大丈夫でしたか?」
「ああ、履き慣れない靴で少し靴擦れしたが」ソラマリアは爪先で地面を何度か叩く。「問題ない」
ソラマリアは背後を振り返る。狂気と混沌の残留呪帯は二人の旅人を追ったりすることなく、あいかわらず同じ場所で荒れ狂っている。
「ただ走り抜けるだけで済む領域を大王国も機構も恐れているのか?」
「自分で言うのもなんですが、どんな手段であれ、あの速度を出せる人は限られていると思いますね」ユカリは息を調え、走る前に言われた言葉を思い出す。「そういえば走ることに関する魔術は使えないって本当ですか?」
「ああ。そもそも、確かこの衣は呪いに限らず加護を含め私自身を変容させる魔法は一切受け付けないのではなかったか?」
「あ!」その通りだとユカリは思い出す。「それはそれとしてあの速さは人間業じゃないですよ。ソラマリアさん、何者なんですか?」
「さあな」
気を悪くさせただろうか、とユカリは心配する。が、それ以上何か言えば追い打ちになるかもしれないのでやめておく。
「それじゃあ、行きましょうか」ユカリは気を取り直すように背筋を伸ばす。「目指すは旧ケドル侯国の首都広大無辺です」
広々とした野原にはあいかわらず苔か黴のような緑がかった空が覆っているが、行く先には暗い雲が渦巻いていた。少しずつ垂れ下がりつつあり、壁雲の前兆だと分かる。とりもなおさずそれは嵐の予兆でもある。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
いつも一人ぼっちのみどりは今日も一人ぼっちだった。
胸の奥に住んでいる親友はまだ眠っている。それは珍しいことだ。みどりが起きているならば心の内の親友もまた起きているはずだ。そして起きていながら姿を見せないのは初めてのことだ。
「いったいどうしたの? まだ眠いの? ゆかり」