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朧げな予感は確信に変わりつつある。ユカリは胸を焼くような焦燥感に駆られ、目を覚ます。
あいかわらず《夏》に見放されたはっきりしない色彩の広がる空の下、ユカリは薄手の毛布にくるまっている。もぞもぞと毛虫のように身をくねらせながら上体を起こし、寝ぼけ眼で周囲を見渡す。目の前には燠火さえも消えた焚火の遺骸、その向こうには強大な怪物に敢然と挑まんとする英雄の如き佇まいで背を向けるソラマリア。二人は何回目かの野宿をしたのだった。
ユカリは既に見飽きていたケドル領の平野の姿を眺める。東西南北地平の果てまで、荒野は鈍い輝きに覆われている。それら全てがかつて戦士たちと共にあって志半ばで倒れ伏した、戦を彩る武器や防具だった。それは西国の戦士の血を吸った鋼であり、野蛮な一撃に叩き折られた鉄であり、故郷の地に突き刺さった青銅であり、時に蝕まれて色褪せた革だった。珍しい所では亀甲や骨もある。多くが錆びつき、ひん曲がり、折れて砕けて、長い風雨を浴びて半分埋まっているものもあり、お世辞にも使い物にはならない。しかしそれはあくまで武芸者の得物としてであり、いたずらに不注意な旅人を傷つける罠としては十分だ。かつてクヴラフワ衝突で武名を上げた赫々たる武具は今や呪いの温床としてケドル領を覆い尽くしていた。
「クヴラフワ衝突において最大の戦場だ。確かに話に聞いてはいたが、だからといってこれほどの武具があるはずない」と、このありさまを初めて目にした時、ソラマリアは子供の悪戯に呆れたかのように呟いた。
「それも魔法の仕業なのかもしれませんね。武具を複製したり、幻を見せたり」とユカリは適当に思いついたことを返した。
昨日の会話を思い出しながら、ユカリも寝床を出てソラマリアの隣に立つ。二人の目の前には一振りの剣が落ちていた。打ち捨てられた物悲しい様子の剣としては珍しいことに錆び一つない。何かの魔法が働いているのか、それともつい最近誰かがここで剣を落としたのだろうか。剣の腹は鏡の如くユカリの顔を反射している。
エーミとエーミのそばで変身したレモニカの姿もまさに鏡映しだった。最も近くにいる者の最も嫌いな生き物に変身してしまうレモニカの呪い。それはすぐそばにいる人間の心の奥を暴いてしまう魔法でもある。
状況だけ見ればエーミがこの世で最も嫌いな生き物はエーミ自身だということになる。そのこと自体、エーミに伝えるのもはばかられたが隠し立てできるわけもなく、洗いざらい話すことになった。
エーミは納得しかねるようだった。そもそも特に嫌いな生き物などいないのだという。そう言われると確かに『騙り蟲の奸計』に溺れてはいたが、蟲自体は平気な様子だった。
「今までレモニカの呪いに例外はなかったんですか?」とユカリは剣を見つめるソラマリアに尋ねる。
「エーミの件か? 殿下が変身した生き物が自分の一番嫌いな生き物だと初めて知ったという者ならいた。だがその場で自覚していた。嫌いだということに納得できない者などいなかったな。とはいえ人の心の問題だ。そういうこともあるのかもしれない」
レモニカをレモニカ自身に変身させるソラマリアはどう思っているのだろう。
「私こそがかの呪いをレモニカ様の元まで運んだ事実を知って、私は後悔している、私は反省している、そう思っていた」まるでユカリの心を見透かしたかのようにソラマリアは話す。「だがどうだ。あいかわらず私に近づいた殿下は殿下ご自身の姿に変身される。もしも私が本当に己の罪を許し難く思っているのなら、エーミのようにレモニカ様は私の姿に変身していたはずだ。情けないことに、なお私は我が身が可愛いのだ」
唐突な告白と懺悔にユカリはいたたまれなくなる。と、同時に腹の底に苛立ちのようなものを感じた。
「レモニカはソラマリアさんを責めるつもりはないですよ。何度も言っていましたけど、聖女アルメノンに利用されただけなんですから。利用されたことが云々で自分を責めるのも無しですよ」
そう言うとソラマリアは言葉を濁す。既に何度もレモニカとやっていたやり取りだ。一体どうしろというのだろう。ソラマリアの罪悪感も分からないではないが、レモニカがうんざりする気持ちもユカリにはよく分かった。
行けども行けども都市カードロアは見つからなかった。空気を溜めては飛び、尽きれば溜めながら歩く。果てのない広い平野だ。街を遮るような山も森もない。にもかかわらず街は影も形もない。
平野全体に散らばって斑な錆色に染める呪わしい武具に触れないよう気をつけながら、ユカリたちはずっと南へと下っていた。
半日も過ぎた頃、とうとう地平線に見つけたのは広大な土地に相応しい広い街でも高い建造物でもなく、人だった。しかし一人や二人ではない。数十、数百を超える人々がいた。
人々を最初に見つけたのはユカリで、人々の異常性に最初に気づいたのもユカリだ。沢山の人々がいるが、それは集団ではなかった。人々は平野に疎らに点在し、互いに意思疎通をしている様子もない。畑を耕しに向かうでもなく、馬乳を搾りに厩舎へ赴くでもなく、新たな夫婦のために煉瓦を積むでもなく、ただ各々が夢遊病者の如く無目的的に彷徨っているようだ。
個々の歩調はずれているが、よく訓練された軍団の兵士のように規則正しい足取りで彷徨っている。まるで何も見えていないかのように足元の武具を蹴散らし、砂塵を立てて、しかしどこへ行くでもなく行進している。
「呪われた人々か、あるいは呪いそのものか。私には判断がつきません」ユカリは目を凝らし、目を凝らしているソラマリアに見たままを説明した。
「あれらは武器を持っているか?」
ソラマリアの問いを受けてユカリは平野をじっと見つめ、そして自信なさげに途切れ途切れに答える。「ここからでは武器かどうか分かりませんが、武器になりそうな長物を持ってますね。剣や槍のように見えます。どうします?」
「この旅はユカリの旅だろう。決めるのはユカリだ。私が何か助言できるとすれば戦闘や戦術のことくらいだろうな」
「踵を返すのでなければ」ユカリは南東方向を見、南西方向も見る。「突っ切りましょう。そもそも魔導書の気配をまっすぐ南に感じていますし、回り道する意味もなさそうです。飛び越えていくことも出来ますが、着地できるかは分かりませんし。ひとまずは歩いて通り抜けて、いざとなれば飛んで逃げましょう」
「いざとなればそれで構わないが、これから呪われた祟り神、呪いの源を調伏せねばならんのだろう? 詣でる前にどのような呪いなのか知っておいた方が良いんじゃないか?」
ユカリは不意を突かれたように顔を上げ、そして頷く。戦闘や戦術だけなどということはない。頼りになる女性だと改めて確認した。
「確かにそうですね。いきなり本番に立ち向かうより、やりやすいかもしれません。何か対策を立てられるかもしれない。それじゃあ、ええっと、あの中の誰かに接触して反応を見ましょう。武器を持っているわけですし、襲い掛かってくる可能性は高いと思います。その場合、ソラマリアさんはソラマリアさんなりに脅威度を見極めてください」
「了解した」
二人は再び夥しい数の凶器に溢れた平野を進む。様々な武具で武装する人々が、しかし各々で孤独に別方向に行進している。敵軍も怪物もいないが意気に満ちた力強い歩様だ。
鷹の如く鋭く見通すユカリの目にも人々はもう死んでいるのだと分かる。とはいえ死者の様相も様々だ。まだ辛うじて生きていそうな、単に不健康なだけに見える者もいれば、皮が破れて肉が腐って溶けた者、もはや骨だけの骸骨もいる。
ユカリは確信を得て、ソラマリアに伝える。
「心得た……。見ろ。近づいてくるぞ」
ソラマリアの視線の先から一人の男が近づいてくる。まだ男だと分かる程度の肉体の損壊だ。真っ直ぐに、しかし急ぐでもなく、歩調は一定に。襤褸を纏っているが兜は立派な房付きで、折れた剣を握っている。目は片方を失っているが、命無き蕩けた眼光が命ある侵入者をじっと見据えている。
他にも何人かが獲物を見つけた猟犬のように方向転換し、ユカリたちの元へ向かって歩き始めた。どうやらこちらに気づいた者から順に近寄ってきているようだ。その一様な行動指針も呪いらしい。そして走り出す者は一人もいない。
「これなら走り抜けられますね」
小走りでも追いつかれそうにはない。
「またか。しかしこれなら呪いの調査はいつでも出来そうだな。とりあえずまたカードロア探しだな?」
「いえ、すみません。前言撤回です。あそこを見てください」
言葉を翻したユカリは平野の一方向を指さす。呪われた人々がユカリたちの方へ向かってくる中、そちらには別の流れが生まれていた。
「何だ? 他と動きが違うな。あそこにいる連中は生きているのか? 呪われていないのか?」
「いえ、まだ見つかりませんが別の誰かが襲われているのかもしれません」ユカリは獲物を探す狩人のようによくよく目を凝らす。「いた!」
一人の男が呪われた者たちに追われている。