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お腹のなかに大切な命がいる。
夫との関係は決して良好というほどではなかったが。度重なる、義母からの催促。毎週末義母はうちにやってきて、からだにいいと言われる手料理を振る舞う。大切なともちゃんのためですから、と言われても、三十路を過ぎた大の男をいつまであまやかしているんだ、としか思えなかった。
ウコンとか、漢方薬とか、マカとか、薬とか。来る度に義母は色々と持ってきてプレッシャーだった。息子嫁が三十路を間近にした女だというのも気に食わなかったようだ。有香子さん、女は子どもを産んで初めて母親になれるのよ、となにやら分かるような分からぬようなことを言い、帰り際に涙目で息子嫁の手を握って去っていく。
お守りとか。果てには、妊娠しやすい水だとか水晶まで持ってこられたのには閉口した。夫とは、知人同士の飲み会で知り合った関係であり、当時、失恋で傷ついていた女には、熱心で純朴そうな男のアプローチが胸に響いた。
誕生日には、薔薇の花束を用意してくれていた。
そんなことでコロッと落ちてしまうのだから、単純なわたし。
そういう親がいるのなら結婚は躊躇っていたかもしれないが、もう、落ち着くところに落ち着きたいという気持ちがあった。長男ということや、近距離に住んで欲しいという親の意向があるということも。近場に義理の妹が住んでいるということも、結婚式を挙げる式場も決まっているということも。冷静になって考えられる状態のいまであれば、考え直して。ちょっと待って、ともっと自分に問いかけられていたかもしれない。
いま思えば、三十路前のあの結婚への異常なまでの渇望はなんなのだったろうと思う。おかしなほどに、結婚願望が強くて、結婚式に出席してはご祝儀をはたく自分が負け組に思えて。他人の幸せが妬ましくて、写真つきの年賀状を受け取るのが憂鬱で。書くネタもなくて。年始早々惨めになる自分。
そんな自分ととにかくさよならしたくて、誰もが当たり前に手に入れる普通の幸せが欲しくてたまらなくって。どうしようもない衝動をもて余す、あの地獄。
あの地獄に比べると、結婚して見えた景色のほうが、……ましどころか、待ち受けるのはさらなる地獄だった。
父方の父と同居する、わたしからすると夫の父方の祖父はくちうるさいひとで、ひとにとにかく酒を飲むことを強制する。大正生まれのひとで、酒を飲ませることが彼のなかでは常識だったらしい。有香子さん、みんなの酒が足りてないじゃないかと、何度台所に行かされ、酒を注がされたことか。
わたしは車の運転が出来ないので酒をあまり飲まぬという理由で買い出しに行かされることもしばしで、しかし、結局タクシーを呼ぶのであれば誰が行っても変わらないのでは? という疑問は、たとえ夫の前でさえも口にすることは許されなかった。そんな空気があった。
鷹取家のなかでは長女の次にうちの夫が生まれ、それから若い見た目の妹がいる。義理の姉は海外在住で結婚もしており滅多に会うことはなく。鷹取を相続するのはうちの夫のはず……ではあるが、専業主婦をしている割に、旦那さんの親が毒親だから、という理由で婿養子に入った旦那さんがいて、三人の子どもがいる。その子達がとにかく生意気で母親にそっくりなのだ。親戚一同集まると必ず、一番年下の詠史がいつも裏でいじめられている。姑息なことに、即座にいじめだと見抜かれない手段でいじめるのだ。
まだ五歳で事情の分からぬ詠史に、ドッジボールと称していとこにボールを当てる遊びをさせ、わざと、頭とか自分に危ない部位に自分からぶつかりに行き、詠史くんが、……と涙目で親たちに訴える。義理の妹にそっくりな姪っ子が、詠史くんは悪くないの悪いのはわたし、とトドメを刺す。
別に義理両親宅で親族一同のなかで、詠史の評価が高かろうが低かろうが一向にかまわない。しかし、詠史の尊厳を踏みにじるやり方が長年慣行として行われていて。――義理の妹曰く、みんな可愛がっているのよ、とのこと。
年上のいとこたちがまったく捕まらないなかをひとり汗だくになって鬼ごっこの鬼をやらされ、肝心のいとこたちはクーラーの効いた涼しい部屋でアイスなんて食っていた。台所や酒を任されたわたしがその日のうちに事態を知ることはならなかった。そのことだけだって充分に悔しいのに――。
『有香子さん。あなたがしっかりしてあげないと駄目じゃない。社会性も協調性も皆無ね。……やっぱり、弟や妹がいないとね……』
憐れむような義母の発言及び眼差しをわたしは一生忘れない。大事な孫である詠史をかばうどころか、同じ立場であるはずの、孫たちを。わたしからすると義理の妹が生んだ子どもたちを正当化するありさまに、うんざりした。やっぱり他人に過ぎない息子嫁よりも、自分の娘が生んだ子が可愛いのか。
詠史はさぞかし胸を痛めているだろうと心配し、義理両親宅に向かう回数を減らそうかといくら夫に言っても。協調性の欠片もなく、実家に帰っても年寄りの話を聞き流しソファーでスマホばかりいじっている夫に子どもたちの事情が分かるはずない。
勿論、義理の妹の母親である義母は、娘の味方をするし、有香子さんが詠史を弱い子に育て上げた。あーちゃんの子どもたちは教育をしてあげているのよ、の一点張りで取り付く島もない。
詠史は詠史で、小さい頃から遊んでくれるいとこがいる事自体には感謝をしているようで、多少いびられながらも遊んでいるように見えた――が。
『母さん。おれって、じいじばあばのおうちでは、平等じゃないのな。いつまでも年少さんって見下されている』
最近になって詠史がさらりとそのように言ったときにわたしは、……自分の大切な息子を守れていなかったことを悟った。もっと早くに寄り添ってあげるべきだった。
詠史。すこし時間はかかるけれど、必ず、自由にする。行く頻度は極力他に用事を作るなどして減らし、すこしでも、詠史の受けた傷を癒やすことを優先した。
そのために。――夫の浮気は、プライドの高い、鷹取の連中の前で絶対に暴露する必要がある。致命的なダメージを与えてやる。それから、まったく無自覚な義理の妹、及びその息子娘にも罪は大いにある。――わたしを黙ってるだけの人間などと思うなよ? 今年を終えるまでには必ずケリをつけてやる。その準備も、忙しい合間を縫って進めていた。
詠史が長年に渡って受けたこころの傷は、簡単には癒せないかもしれない。だからこそ、やれるだけのことをしてやる。ぬくぬくと、呑気に。人まかせで甥っ子を傷つけまくるあの女の正体も暴いてやる必要があるのだ。
何年も前のことだから証拠集めは難儀だった。……しかし、ロマンチストな義理の妹は、当時、ブログを書いており、その頃の心情も赤裸々に綴っていた。サイトが閉鎖されていないのがありがたく、印刷したりスクショも残した。
詠史に関しては、どうするべきか? 本人にも話したが、いじめと呼ぶべき粘質的な行為を隠したままにするのはいやだ、と、本人が決断した。
その決意の後押しをしてくれたのがなんと、――愛するあのかたであることを、わたしは、鉄板焼きのお店に一緒に行った際に、知ることとなった。奇妙な偶然だった。
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