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「あ……!」
ドアを開けた瞬間、まぶしさに目がくらみ、その次に、ぎくりとして、我知らず声が漏れた。まさか、人がいるとは思わなかったのだ。
一瞬、少女に見えたのだが、そこにいたのは、ほっそりとした少年だった。少し長めの髪に、透き通るような白い肌。めくれ上がるように、わずかに開いた唇の色が赤い。
彼もまた、驚いたように、こちらを見ている。
物心がついたときから、伸は、母と二人暮らしだった。その頃すでに、母はアンジェールというカフェを営んでいた。
幼稚園に通うようになって、よその家には父親という存在がいることを知った。自分の家は、よそとは違う。
だが、母に、その理由を問いただしたことはなかった。子供ながらに、聞いてはいけないことのような気がしたのだ。
母が、店にかかり切りで寂しい思いをしたこともあったが、母が伸を愛してくれ、伸のために一生懸命働いていることも、よくわかっていた。
だが、小学生になったあるとき、数人で、ぞろぞろと歩く学校からの帰り道で、友達に言われた。
「伸ちゃんちのおばさんって、ミコンノハハなんでしょ?」
「え……」
そのときは、言葉の意味がわからなかった。だが、反射的に言っていた。
「違うよ。そんなんじゃない」
すると、ほかの友達が言った。
「俺もそう聞いた。うちのお母さんが言ってたよ」
さっきの友達が、ほら見ろというように、口を尖らせて言う。
「やっぱりね」
「あの人はハッテンカだからって」
「ハッテンカって何?」
「さぁ」
二人は、伸そっちのけで話しながら歩いて行く。ミコンノハハが未婚の母、ハッテンカが発展家だと知るのは、ずいぶん後になってからだ。
成長するにつれ、田舎町では、自分たち母子のような存在は特異であり、侮蔑や嘲笑の対象になっていることを知った。同級生の中には、そのことを、あからさまにからかう者もいた。
別に悪いことをしているわけではないし、女手一つで店を切り盛りし、伸を育ててくれる母を恥じる気持ちなど少しもない。だが伸は、だんだん同級生と距離を取るようになり、いつしか友達を作ることもやめた。
中学生になると、松園孝弘と同じクラスになった。
彼の父は、手広く事業を展開している、いわゆる地元の名士だ。この町に暮らす多くの住民が、なんらかの形で恩恵を受けていると言っても過言ではない。
そういう理由もあってか、どことなく高慢な雰囲気のある松園も、クラスメイトから一目置かれているようだった。ほとんど口を聞くこともないまま、二年からは別のクラスになったが。
彼と接点が出来たのは、高校生になってからだ。近くの公立高校に進学すると、再び、同じクラスに彼がいたのだ。
松園は、私立の進学校の受験に失敗し、地元の高校に入学したという噂だった。田舎町では、ちょっとした噂が、あっという間に広まる。
それは、伸自身が、嫌というほど経験していることでもある。
小学生のときからそうしているように、高校でも、誰とも親しくするつもりはなかった。歩いて通える距離にある高校には、同じ中学から進学した者も多く、伸の家庭環境も、伸が友達を作らないことも、周知の事実だろう。
もともと、小さい頃から一人で過ごすことが多く、一人でいることに慣れていたので、それに関して特別な思いはなかった。
松園は、同じ中学から来たクラスメイト二人を、いつも子分のように引き連れて歩いている。そんなある日のことだ。
昼休み、伸は、いつものように一人で弁当を食べていた。母の手作りの弁当だ。
弁当はコンビニでも買えるし、高校には学食もある。母には、忙しいのにわざわざ作らなくてもいいと言ったのだが、店の仕込みのついでだからと、毎日欠かさず持たせてくれるのだ。
カフェは、地元の主婦などでそれなりに繁盛している。どうやら、未婚の母であることと、料理の評判は関係ないらしい。
そういう母が作ってくれる弁当なので、おいしいのはもちろんのこと、見栄えもいい。弁当を覗いた女子に、うらやましがられることもある。
四時間目が終わり、机で弁当を広げていると、松園たちが脇を通りかかった。小柄で眼鏡をかけた滋田が、机を押しのけ、その拍子に弁当箱が落ちそうになる。
伸は、弁当箱を手で押さえながら、反射的に滋田をにらみつけた。いつもならば、彼らは無言で通り過ぎ、それで終わるはずなのだが。
振り向いた松園と目が合った。松園が、弁当を見下ろしながら言う。
「こ洒落た弁当だな」
言葉とは裏腹に、どこか馬鹿にしたような表情だ。真意を測りかね、黙ったまま見上げていると、松園が、吐き捨てるように言った。
「売女が作ったようには見えない」
出来ることなら関わりたくない。だが、聞き流すわけにはいかない。
「なんだと?」
思わず立ち上がると、長身の松園は、伸を見下ろすようにしながら言った。
「母親が体を売った金で作った弁当を、よく平気な顔をして食えるな」
掴みかかろうとする伸の腕を払いのけながら、冷めた口調で言う。
「あぁ、お前も母親が体を売って出来たのか」
「てめぇ!」
だが、再び手を出す前に、スポーツ刈りでガタイのいい古川に突き飛ばされ、心ならずも、伸は椅子に尻を落とした。何も言い返せずにいるうちに、三人は教室を出て行ってしまった。
ふと周りを見ると、クラスメイト達が、じっとこちらを見ている。かまわず弁当を食べようとすると、箸を持つ手がわなわなと震えた。