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春燈《しゅんとう》の逢瀬も二人の時間だからこそ意味がある。一方で、故人を偲ぶのはいつも一人がいい。
「付喪神かね」
目下の枯れ絨毯にちょこんと手帳と万年筆が乗っていた。久々に心内舞い上がって桜の根に置き忘れていたはずが、不思議なことにここにある。
はてと私は小首をかしげて、前にもこんな事があったと得心した。しかし一時とはいえ唯一の私物をぼけて意識の外に投げ捨ててしまったことに申し訳なさを感じてしまう。
その場にしゃがんだ私は、右腕の袖端に常盤木《ときわぎ》の枯葉がくっつかないように紺の袖口を左手でつまみ引いて、ゆっくりと手帳と万年筆をまとめて拾い上げた。
薄茶の葉に接していた手帳の裏面には土埃一粒付いていないが、なんとなく軽く手で払ってしまいさっと傷んだ麻織の布を懐から出して包《くる》めた。立ち上がり、彼らを一目見返って去ろうかと逡巡したが、どの道私には何もしてやれないと小さく嘲笑してひんやり木立に足を踏み入れる。
それから三年の時が光陰矢のごとく流れていった。その間、老若男女達は私のいる桜の樹の下を度々訪れていたが、あるとき若い男がいなくなっているのに気がついた。着物やスカート姿の女は大概ズボンを履くようになって、遠目からは男女の判別などつかなくなったことに困惑を隠せず、私は彼女らが何かを必死に祈りに来ている様をつれづれに書き留めていく。
『世の中は荒れに荒れているそうだ。大都市の上空からは爆弾が降り注ぎ、親亡くして移り住む子供もひっきりなしに増えるばかり、憲兵なる警察の上位のような者たちが一日中監視してきて心休まらないと不満を吐き出していく女子供たちの顔は日に日にうつろんでいった』
あくる日、薄暗い雲が快晴だった群青を飲み込んで間もないとき、木造の日本家屋が減ってきた港町の輪郭がはっきりした。またとない炎天に屈服せんとして声高々にわめき散らしていた蝉共の合唱が一回り小さくなった気がする。
胸が妙にざわついて落ち着かない私は、陰る草丘から上半身を起こして薄明光線が暗影に差し込む遠い海原の一角を眺めた。そこでふと振り向き見上げると、うっそうとした葉を茂らせる木の下に妙齢の女が一人で棒立ちしてこちらを見ている。
いや、そうではない。俯いているのだ。伏せた黒目は何も映しておらず、小ぶりな桜唇を固く結んで右手に握り潰された封筒を持っていた。最近ではめっきり目にすることはなくなった白装束が、場違いに彼女をいっそうその場に浮き上がらせている。
「…!」
あの時の少女だ、間違いない。ひどく印象的だった彼女らがすぐ鮮明に呼び起こされ、あそこにいる女がそうであると内心大鐘を打つ。三年の月日の変貌に無言で固まる私は、やはり見えていないようで彼女は、左眼尻から一筋透明のしずくを流した。
その瞬間、ゴウっと海のほうから強風が彼女の頬をつたうそれを吹き飛ばした。尾の方でまとめられた後ろ髪大きく揺らす彼女は、敵わず一歩下がって茶封筒だけは取られまいと、膨らんだ胸元に両手を守るように強く押し当てる。
あの封筒にはおそらく訃報でも無慈悲に書かれていたのだろう。戦争は国土への攻撃が激化する一方で、戦況は良くなっていると頓珍漢なことを言って警邏していた中年の憲兵の話をもっと自然に考えてみれば、彼が生きているとはあまり思えない。
ようやく強固な鎖に縛られていた私の体は自由になり、その場に立ってパッと尻を払うと再び神秘的な銀灰世界の深遠を覗き込んだ。
近くなりすぎるのは良くない。たとえ彼女の先祖から親しんでその成長と最期を見守ってきたとしても、分かたれた谷は一生元には戻らないように、私は彼女たちがどれだけ切実に何を求めようと、そのすべてを叩き落とさなければならない。
切り結ぶことはかなわないのだ。
「…水月さん」
「…!」
「…やっぱり駄目か…ぐ!」
小さく呟いた彼女になぜ私の名前を知っているのかと振り返って詰問したくなったが、それは決して許されないと思いとどめて、こわ張った顔を少し伏せた。装束の衣すれの音がして、もう幾度と知れず立ち会ってきたそれを黙って背中で受け止める。
後方でドサリと重音を一度たててそれきり沈黙した彼女は、言うまでもなく倒れて物言わぬ肉塊と化していた。人は効き目の早い毒でも作れるようになったのだなと、どこか冷めた思考がひっそりと停止した私の頭に響き渡る。
ミンミンゼミの喧騒に少しづつ心に突き刺さった冷刃が抜かれていくと、死体の処理など今日も来るだろう細めの老婆に任せればいい、見上げた暗雲へそんな酷薄なつぶやきが恨めしく走り去っていった。