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その絶望的な状況は、東日本大震災発生当日よりも、その二日後から始まった。薬品の発注リストを事務室へ届けに行った亮介は、緊急事態用の衛星電話に向かって事務長が怒鳴り散らしている場面に出くわした。
「放射能って……ここには避難指示は出ていないじゃないか。それはおたくだって分かっているはずじゃないですか! 何とかならんのですか?」
禿げ上がった頭頂部から湯気が立っているようにさえ見えた。顔をしかめて衛星電話を切った事務長に、亮介は遠慮がちに声をかけた。
「どうかしたんですか?」
事務長は亮介がそこにいる事に初めて気づいたらしく、一瞬驚いた表情になったが、すぐにいつもの事務的な口調に戻って答えた。
「牧村先生。どうもこうも、薬が来ないのですよ」
「どういう事です?」
「運転手が南宗田には行きたくない、と言って車が出せんと言うんです。放射能が怖いと言って」
「いや、原発からは充分距離が……」
「ええ、口が酸っぱくなるほど私も説明しました。しかし放射能が、の一点張りで。当分医薬品の補充はできそうにない」
亮介の顔面が蒼白になった。市立の総合病院とは言え、医薬品のストックには限界がある。もし補充ができない状況が長期間にわたって続いたら……それは医者として一番考えたくもない最悪の事態だった。
地震が発生した3月11日の昼下がり、南宗田市立中央病院ではいつもながらの慌ただしい時を亮介は同僚の医師、看護師たちと送っていた。
最初の振動を感じたのは内科の先輩医師を手伝って人工透析を受けに来た外来の患者に二本一組の点滴用チューブの針を差し込もうとしている最中だった。
亮介の専門は外傷を治療する整形外科なのだが、長年「医療過疎地」という有難くない呼び名を返上出来ないでいるこの地方では、医師の数も全国平均を下回っている状況が慢性化していた。
市立中央病院と言っても常勤の医師はわずか21名。産婦人科や小児科の治療は、週二回周辺の人口の多い市からの応援でどうにか賄っているという有様。
当然病院の常勤医の間で、自分の専門がどうのこうのと言っている余裕などなく、特に研修医から常勤医に昇格したばかりの亮介は手さえ空いていれば、どんな患者の治療の手伝いにも駆り出されていた。
最初は足元がゆらりと揺さぶられるような感じだった。数日前から結構大きな地震が続いていたので、亮介も内科の医師も「ああ、またか」という程度に思った。だが揺れは五秒経っても十秒経っても収まる気配はなく、逆に横方向の力がどんどん増している。
内科の医師は透析中止を即断し、念のためベッドの上で震えている高齢の女性患者の腕から針を抜いた。
次の瞬間、キャスターのついたそのベッドが優に1メートル横に移動し治療室の壁にぶつかった。亮介も内科の医師も立っている事が出来なくなり、床に膝をついて患者のベッドの端にしがみついた。
透析室の外で何かが倒れ、落下するドシャン、ガシャンという音が次々に響いた。揺れが収まるまで二分以上。亮介たちに限らずその場にいた者は全員、もっと長く感じた。
内科医は患者にベッドの上から動かないように指示し、亮介とともに透析室を飛び出した。
内科医は内科病棟のある三階へ、亮介は外科病棟のある二階へ走った。途中の廊下では数人の高齢の患者が腰を抜かして床に座り込んでいたが、亮介は数秒だけ様子を見てとりあえず大丈夫と判断し、外科病棟へ急いだ。
外科病棟のナースステーションでは、中央の机の上のカルテやその他の書類が吹き飛ばされたように一面に散らばっていて、パソコンのモニターが床に落下していた。
だがそれ以上の目立った損傷はなく、看護士は全員入院患者の元へ駆けつけたらしく、ナースステーションに人影はなかった。
入院患者の病棟へ駆けこむと、看護師たちが看護師長である宮田の指示でてきぱきと患者の容体確認を既に始めていた。
幸いにも入院患者の中に重傷の者は最初からいなかった。一番重いのは右脚頸部の骨折で入院していた桜田という二十代の若い男だったが、ベッドの上にいたため大事はないようだった。
「いや、先生。今のはすごかったな」
桜田は揺れでずれたベッドの位置を直してもらいながら亮介に話しかけた。亮介は念のため尋ねた。
「桜田さんは大丈夫ですか? 患部に痛みとかは?」
「ああ、俺なら大丈夫だあ。肝が冷えただけだ」
「そうですか。念のためしばらくそこから動かないで下さいよ」
亮介の所へ看護師長の宮田が駆け寄って来た。もう60歳近い白髪の混じった、でっぷりとした体格の女性だが、ベテラン看護師の余裕ある態度でてきぱきと同僚を指揮しながら、亮介に報告した。
「牧村先生、外科の入院患者さんには今のところ異常はありません。全員無事です」
「よかった」
亮介も胸をなで下ろした。だがその瞬間、部屋の電燈が全て消え、昼間とは言え窓が少ない入院病棟は薄暗くなった。
「停電か?」
亮介はつぶやき、宮田と目を合わせ、すぐに酸素吸入を受けている入院患者のベッドに向かって駆け出した。