――――すか。――イマす。――――エまスカ。――ねガいまス。――――聞こえますか。応答願います」
何かが一刹那に迫ってくるのを感じ、私は震えた。意識せずして瞼が動いて視界が開けた。その先にあるのは見慣れた白と幾つかの線。天上だった。私はしばし、それをただ眺めた。針の時を刻む音が部屋を支配している。ち、ち、ち。その一つ一つに私は愛を込める。その度に少しずつ、日の光や鳥の囀りといった外のものが積み重なっていく。私の中の認知する世界が溶けていき、この世界と同期したその時、私はようやく理解できた。ここだけが現実であると。先刻まで見ていた場所は夢に過ぎないと。布団ごと蹴り飛ばし、私はベットから出た。そこには地面があり、歩くという行為がとても愛おしく思える。姿鏡に映る私はひどい寝癖と顔をしていて、とてもでは無いが人に見せれるような状態ではなかった。ふわりとその場で回ってみても、鏡の向こうにはまだ私がいた。手を振ると、手を振り返してくれた。笑ってみると、私はちゃんと笑ってくれた。最近の私はよく夢を見る。毎日同じ夢を見る。詳細は目覚めると既に忘れているのでよくわからない。だが、一つだけ明白な事がある。そこで私はとても悲しい気分になっているのだ。鏡の向こうの私は崩れ落ちた。私がそうなったからだ。涙が止まらなかった。不思議な事に、私は無性に喜びを感じていた。とても嬉しかったのだ。私が私である事が。自分でも今の自分を整理できていない。ただまあ、きっと私は疲れているのだ。この世界を生きる事を。
ドアを開けて、廊下に出た。たが、そこは家であると同時に外でもあった。壁や屋根は無く、この家は半壊状態にある。風が吹き、絶望が靡く。朝日は静かにこの、最後の街を照らしていた。烏の嘲笑うかのような鳴き声と蛙の合唱に紛れ、私は「おはよう」と呟く。
階段を降りてリビンクに行くと、テーブルが押し潰されて壊れていた。どうやら庭に溜まっていた瓦礫が、窓を壊して入ってきていたようだ。所々に窓だったものの破片が散っており、鋭く部屋に差し込む朝日を反射して輝いている。私はそれらは一度後にし、冷蔵庫を開いた。電気はここには無いので既に冷蔵庫としては機能していないが、造りが丈夫なので棚代わりに使っている。特別大きいものでも無いが、中に入っているものが少ない事もあって広々としているように見える。一段目に置かれた缶詰の一つを取る。裏面を覗くとそこには『2072年7月31日』の記載。冷蔵庫の扉の裏に貼り付けられたメモ用紙には『9/5』と書かれていた。その自作カレンダーを捲り、腐ったお茶の横に立てかけられたボールペンを手にして今日の日付を書く。「一ヶ月前かー。イケるかなー?」そんな事を口にしながらも、正直なところ食べる気は満々で、既に私は取った蓋を瓦礫の方に投げ捨てていた。手で仰いで匂いを確かめると、微かに鼻の奥が痺れた。その中にあったのは鯖。「……まあ、イケるか!」それを手で掬って口へと運ぶ。香りはともかく味は割と上等。少なくともここ一ヶ月の飯の中では一番良かった。
食事を済ませた私は、すぐ足元にあるバケツの水で手を洗う。もう、しばらく雨が降っていないのでこの水は貴重だ。そう理解はしているが、どうしてもある事が脳裏を離れない。くすんだ黄色のそれを汲んで髪を濡らしていく。寝起きに見た寝癖。それが気になってしまって性がない。位置を思い出しながら髪に慣らしていく。少し……いや、かなり腐敗臭がするがまあ良い。確か香水とかいうこれに似た役割を持っていたオシャレが一昔前には流行っていたらしいし、流行は回ると言うし、これが時代の最先端というやつだ。たぶん。
だいたいが整ったというか、匂いに耐えられる限界が来たため髪のセットは終えて、次に私は野菜室を開いた。そこにあったのは畳まれたワンセットの服。いわゆるセーラー服と呼ばれるものだった。そう、今日は平日。学校のある日だ。
りりりり、りん。
その時、目覚まし時計の鐘の音が玄関の方から鳴ってきた。通常、『起きろ』という意味で使われるそれを、私は『行け』の意味で使っている。そうした理由が特にある訳では無いが、子供の頃からそうしてきて習慣となってしまっている。
「やばっ、行かなきゃ!」背中の後ろに回した足と手で円を作り、靴下を履きながらケンケン跳びで玄関へ向かう。あまり勢いよく跳んで床を貫いても困るので、そこそこに気をつけながら踵を擦るように進む。
「痛っ……!」
散乱していた窓の破片の一つが小指を切り裂いた。中途半端に靴下が通ったままの足も降ろして、両足で今度はしっかりと足元を見ながら忍び足。やっとの思いで廊下に出て、どっと溜息をつく。痛みが来た時には骨まで切られたかと思ったが、今見ると傷はそこまで深く無かったようで既に血は止まっていた。違和感と未だ夢覚めない気持ちが、私の中に内在していた。私はそれらとの訣別の思いも込めてこの家に対して告げる。「行ってきます」
これは私――佐藤サナの。世界が終わるまでの物語である。
コメント
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わおわおわお!!! 天才を見つけてしまった!!!! 雰囲気が好きすぎます、どストライク!!!! フォローマイリス失礼致します!!!!!!
つきなみですが、面白いです。