夕方の5時、あと三時間でアルバイトが始まるが、その前に確認したい事があるせいで、次第にそれが頭が占拠するせいでドキドキしてきている。瑠奈は電話をテーブルの上に置きっぱなしにし雑誌に目を通すが、それが今一番気になっている。五分が過ぎ、電話が鳴る。きた。瑠奈はボタンを操作する。思ったとおり、叔母からだった。
「もしもし?」
話の内容はいつも通りだった。叔母は、数年前からホスト狂いで、だんだんと家の金を使い尽くし、離婚を言い渡された後もその資産を食い潰して暮らしている。夫と離婚した後は仕事も辞め、今はなんだかよく分からないパートやアルバイトを抱えて過ごしているらしい。
こんな風に、狙いを定めて電話がかかって来るのは瑠奈がフリーターだからだと潤が言っていた。
「見下してるんだよ」そう言う。瑠奈もそう思っている。見下す、もしくは、同類、そういう慰めの関係を必要としている人が何処かにはいる。
電話口の声から、また叔母の惚気が始まる。
「すごい、良い体してるのよ。それに、口説く時も普通の男とは違うの。なんていうか、…私、こんなに年下の子が可愛いと思うの初めてなの。ほら、いつもは、お金目当ての人に囲まれていたでしょう。でも分かるのよね。それが目当てか、それとも世間にウブな子が頑張っているのかって。グッと来ちゃった。」
瑠奈は電話口で生唾を飲み込む。
想像するだに、その口ぶりからしても叔母はやはりその相手に性欲を感じて居るらしい。
「それでね、言ってみたの…そんなに、気になるんだったら少し考えてみても良いわよって。私の趣味、気になるんだって。一緒に行ってみたいって、新人のホステスさんみたいなノリで言って来るの。きっと頑張ったのね。
…瑠奈、バイトの時間は?大丈夫なの?」
「あ、うん。大丈夫。遅番だから」
「ふうん。あら、こんな時間。
…それでね。やっぱり何がホストで一番大事なのかって言ったらわたし、声だと思うの。顔とか、体とか、良い子はいっぱいいるんだけど、声って、その…想像するじゃない。あっち方面のが得意な男とはいっぱい会ったんだけどね、やっぱり普通の男って面倒くさいのよねえ。今は、選り好みして若い子、選んじゃってるの。若い子って、後腐れないから。」
電話を切った後で、なんとなく胃がむかむかして来ている。瑠奈は洗面所で歯を磨き、何度も口を濯ぐ。その間にも叔母ががむしゃらに冷蔵庫を開け、中に入って居る野菜を次から次へと掴んでは口の中に放り、それを噛み砕いて食べて居る姿が見えるような気がした。
ーあとで、潤が帰ってきたら、身体を洗ってやらないとならない。
新しいタオルで、痛いって言っても私が拭いてあげなきゃならない。
瑠奈はそう思う。
でも潤はというと、いつだって「そういうこと」には無意識で生きて居るように見える。他人からの関心、期待、それから性欲を向けられる事に対して無感覚。「んなわけない」と潤は言うが、いつもは瑠奈の方が先に気分が悪くなるのだった。
「るなってさあ、男性恐怖症?」
潤から、真面目な顔で聞かれたときは、初めて聞いた語句と真剣な顔に笑い出しそうになった。まさか。
アルバイトでは普段備え付けのレジを怠そうに操作して居る瑠奈は、老若男女殆ど差をつけずに接客ができると自分では思っていた。
が、しかし潤の言う恐怖症というのを意識する機会がまったくないわけではない。瑠奈の苦手だった、年長のフリーターの高橋さんが遅番にいるとき、瑠奈は自分でも殆ど喋らない人間になって居ると思う。高橋さんは典型的な日本男子みたいな性格をしていて、挙動も言動も、潤とは正反対で、つまり大雑把で不可解なのである。
洗い終えた体で潤が出て来ると瑠奈は洗面所を覗き込み「いい?」と聞く。
「うん」潤は答える。
ついさっき、叔母から電話口で聞いた、「良いからだ」が目の前にあると思うと、瑠奈はつい唾を飲み込む。が、目の前にあるのは叔母が性欲をむき出しにせざるを得ないような魅力的な身体ではなく、よく知って居る、小さいクマみたいな潤の姿だった。
「いて!」
「ごめんごめん」
瑠奈は、強く引っ張ってしまったと思う髪をもう一度丁寧に拭いた後で身体も拭いてやる。一応、パンツは先に履いてもらって居るから、おばさんがいま一番気になって仕方がない潤の大事なところは目に入って来ない。
「おれ、さあ、世の中のお母さんって多分、総合してみたら瑠奈ちゃんみたいな人だと思うな」
潤は目を閉じて、髪の毛を乾かしてもらっている。
多分何も考えていない。でもこうやって、自分の前で色んな感覚を吐露する潤を、いつだって瑠奈は自分からは憎めないと思う。
…でも、何も考えていないように見える子どもっていうのは、大人に声を付け足しされる事があるんだよ。
瑠奈はそう思う。
潤はそういうところがかわいくて、でも危険だってこと、まだわかってない。
「今度おれ、同伴することになった」
「ふーん。どんな相手?」
「あの人」
「へえ。すごいね。女、引っ掛けられるんだ」
潤は目を開けて瑠奈を見る。この時ばかりは、瑠奈が赤面する番だった。
「これおいしいね。」
潤は、瑠奈が適当に作った野菜炒めと、帰りに買って来たお惣菜を皿に並べたものを喜んで食べて居る。
「うん。
潤。野菜を先に食べてね」
「分かってるって」
潤はそう言って、ご飯ばかり食べて居る。
そういう瑠奈もそれほど肉に箸を付けていない。お腹が減らない。一人暮らしを始めてからというもの、自分では分からないちょっとした辻褄の合わなさが全て胃に来るような気がしている。
「瑠奈ちゃ〜ん」
「ん」
「ちょっと見て〜〜」
「え。なに?」
見に行くと、潤のお気に入りの動画が流れて居る。
瑠奈はよく分からなかったが、邪険にするほどでもなかったので潤の隣に座り、テレビに向かってそれを見る。
「なんで、宇宙?」
「よく分からないけど、合ってるでしょ。宇宙」
「そうかなあ。」
「潤くんも、まだ動画作ってたりするの」
「たまにね。」
瑠奈はそれをお気に入りに入れたまま、最近見てないことを思い出した。瑠奈ちゃんは、僕に興味が無いんだ、とボソッと潤は呟いたりする。
いつの間にか潤は瑠奈の手を握って居る。瑠奈は、最初気づかないふりをしようと思ったが、もぞもぞと動かしてそれを解いてしまう。
「なんでだよ」潤は言い、「だって、懐かれたら困るもん」瑠奈は言う。
「なんでだよ。」
「だってそうしたら、離れる時辛くなるでしょ」
次の日、潤は昼頃に起きて来た。居間でだらだら過ごして居る瑠奈を尻目に、潤はシャワーに入り、出かける支度を整える。自分で体を拭き、化粧品類を使ってメイクを施し、外行きの服を着るために部屋を動きまわって居る。その後で台所へ来て、潤は自分のコーヒーを無言で淹れて居る。
瑠奈はその外行きの、ホスト姿の潤を見て何かを言いたくなるが、そのうち目の前の椅子を履き、潤がどっかりとそこへ座る。
「何時に待ち合わせ?」
「待ち合わせ?
…2時だけど」
「ふうん。わたしの、バイトと同じくらいだ。」
「あのな。迎えに来てくれるんだぞ。俺の為、高級外車で来るおばさん、お姉さんだって居るんだぞ」
「うん」
瑠奈は自分が入れたお茶を飲み、改めて潤の姿を見る。確かにそこに、おばさんがよだれを垂らしそうなくらい若くてきれいな体を持つ男の子が座っている。
コンビニの裏口のドアを開け、事務所の前を通り過ぎると靴を履き替える狭いスペースで瑠奈は荷物を広げる。支度を終え、いつものレジへ向かうと松川さんが居る。松川さんは数ヶ月前に入ったばかりの社員さんで、仕事がよくできる若くて綺麗なお姉さんだ。
「あれ。」
瑠奈は、自分のレジの近くの棚や小物類がファイリングされ、100円ショップの仕切り棚で整理整頓された形跡を見つける。しゃがみ込み、手でそれに触れて、ちらちらとめくってみる。
ふう〜ん。こんな事、するんだ。
瑠奈は改めて松川さんの方を見る。きちっとしていて、挨拶も嫌味がない。こんな新婚の妻みたいな事を自然にされたら、男の人はコロッと行ってしまうのかもしれない。
アルバイト中、レジを打ちながら、レジ袋に温めた弁当を詰めながら、瑠奈は潤のことを考えていた。思えば潤は、表面上の噂ー叔母さんのことだったり、嫌な客のことは教えてくれていても、瑠奈に向かっては職場であった良かったことを教えてくれたことはない。でもそういう仕事なんだから、そういうことをする事だってあるだろうし、綺麗な人と付き合うって話だって出る事もあるのかもしれない。
そう思うたび、自分とは全く別の世界がそこに広がって居る感じがした。
潤が、瑠奈に向かって言う褒め言葉を思い出す。
ぐびっと、炭酸のビタミン飲料を飲み終えると、高橋さんが「おお、一気飲み〜」と横から口を出して来る。
「一気じゃありません」瑠奈が言うと、高橋はそれを見ている。
なんとなく照れ臭く、それをゴミ箱に入れた後で「じゃあお先に、失礼します」
そう言って職場から出る。
家に帰るなり、叔母さんからまた連絡が来る。今回は相手のホストが距離を詰めてきてくれたせいで、叔母さんの感想も山盛りだった。
ソファに座り、見ていたテレビの音量を下げて叔母さんの話に耳を傾ける。着替えたあとのスエットの足を投げ出して、食べかけていたおにぎりを傍らに置く。
「良かったわ。潤くんが欲しいものあるっていうから、それならって私が行っている店に連れてってあげたの。すごく喜んでくれて、その後行った食事でもすごく…体触って来るのよね。」
「すっごくドキドキするの。何故かしら。こんなに年の差があっても、そう言うことってあるのね。私って子ども、居ないでしょ。何か幼く見える部分があるみたいなのよね。ちょっと冗談言うと、潤くんが雅子さん、それは無いですよって嗜めてくれるんだけど、手に触られたから私、子どもみたいに本当に、声が出ちゃって」
瑠奈はじとっと汗をかいている手で携帯を持ちながら、またそれを、別の耳に押し当てて続きを聞いている。
「した事あるの?って聞いてみたの。潤くんに。そしたら、なんて言ったと思う?」
「え。した、って」
「そうしたら、試してみますか、ですって。びっくりしちゃった。潤くんって最初、おとなしい子かと思ってたのに、話してるとだんだん印象が変わるのよね。」
潤は叔母さんである雅子の容姿を褒め、素行を褒め、職業とその内容を褒め、それも、腹黒さなど微塵も見せないといういつものあの性格のお陰で本当に楽しい時間が過ごせたようで、長い時間を二人で過ごした後でまた潤の職場であるホストクラブに向かったらしい。
電話を切ると、再び部屋は静寂が訪れる。
叔母さんの目が、好きなだけ注がれていた潤の体を、叔母さんの趣味嗜好を通してたっぷり聞いた後、いつも少しだけ、潤ていう存在がはっきりして来ている気がする。
「はい」
潤に、靴下を手渡す。
潤は嫌そうな顔をしてそれを手に取ると、一つずつ足に靴下をはめて行く。
「拭いてもいい?」
そう言って今日も、洗面所を覗き見たが、潤はもう既にパンツも下のスエットも履き終えたみたいだった。
「瑠奈ちゃん。遅いよ」
「そうかな。」
びしょびしょだった潤の髪の毛を瑠奈が手に持ったタオルで拭き、それから腕につきっぱなしの水滴を拭いて行く。なんでこれを、風呂から上がって暫くしてからも付いているっていう感覚が潤には無いのだろう。瑠奈は心底、相手の身体の事が不思議になる。
「そうだ。潤くん、見たでしょ。私が書いてる絵」
「なに?」
「箱開いてた。見ないでって言ったのに」
「ああ。」
瑠奈は、自分でもおかしいとは思うが、高校の美術部をやめた後も、一人で沢山絵を書くのに、瑠奈はそれを誰とも話題にしたく無い。それも多分、いま潤の絵を描いているというのも、全て隠しておいてあるのだった。
「私まだ、何者でもないからあんなもの、誰にも見せらんない」
「ふーん」
暫く、髪の毛を乾かす音だけが響く。
(わたしは潤くんの裸も知ってるし、動画も見てるんだけどね)
身支度を整えると、潤が鏡の前で格好を付けて髪をかきあげる。瑠奈はそれに、Tシャツを手渡し、潤は受け取ったものを着る。その着方がたどたどしくて、瑠奈からは弟みたいに見えるが、きっと叔母さんは「かわいい」と言うだろうし、多分どこか、性的にも興奮するように映るんだろうと思う。
夕方まで、YouTubeで動画を見ていたら気持ちが悪くなった。暗い部屋の電気を付けて、改めて鏡を覗き込むと酷い顔をしている。それほど疲れているわけでも無いのに、くままで出来ている。これじゃ、アルバイトにいる店長と同じような顔だ。その10数年を動画で消費されてしまったように思えてゾッとして、ドアを開いて居間へと出る。
潤も同じようにソファに寝そべって携帯をいじっている。
キッチンへ向かい冷蔵庫を開けるが、何も目ぼしいものは無い。仕方なく、ヨーグルトを出してそれを入れるための器を食器棚から出す。
「ホテル行こうって」
潤が、瑠奈の方へ向かってつぶやく。「メール来た。俺、もてるでしょ」
「ホテル行って、何するの」
「ホテルでだけすること」
「ふーん」
「瑠奈は、そういうことないの」
テーブルの前に座ったまま、瑠奈はヨーグルトの蓋を開ける。「ないって思う?」と呟く。
「分かんない」
「私も、分かんない。…でも、理想ならあるの」
「ふーん…」
瑠奈は暫しヨーグルトにも口を付けずに考えている。
「潤くん変なこと、聞いてみてもいい?」
「なに?」
「もし結婚するなら、豊富で人好きのする妻よりも、貞淑で、気が利いて夫にしか優しくない妻の方が、いいよね。」
「うーん。」
潤は考え込んでいる。ホストという仕事をしているために色んな女のデータがあるからだ。そのことに思い当たり、瑠奈はまた赤面している。
「そうだね。俺、っていうか男って、嫉妬深いから」
「そうでしょ?」
「うん。」
潤は瑠奈の方を見ている。
「…夫にしか優しくしないって何?」
「トクベツってこと」
「うーん。」
潤はいつの間にかこちらへ来たかと思うと、瑠奈の後ろに立ち「じゃあ瑠奈ちゃんは、一体どうしてこんな事をしてくれるのですか」と言う。
その、肩にかけられている潤の手が重く感じられる。
「分からない」
「分からないなんてことないでしょ」
「でも私、こう言うのが癖なんだもん」
「なに?」
「叔母さんと、同じだよ。潤くんの事をぬいぐるみ視してるだけだから。」
そう言うと、潤くんは後ろで固まってるみたいに見えた。おそるおそる後ろを振り向くと、あからさまに面白くなさそうな顔をして潤が突っ立っている。
「決めた。俺、ホテル行くわ。」
「…あっそ。」
潤は怒っているのかと思ったが、冷蔵庫から水を出すとそれを美味そうに飲み干した。
自分にとって今一番気持ちが悪いと思うのは、年齢が行った男の要望をただ無感覚で叶えてる時なのだと瑠奈は思う。
アルバイト先のメンバーによっては、周りにおじさんしか居らず、時間帯によってはずっとおじさんとしか話さない事もある。店長からくどくどと嫌味を言われ、仕事着のポケットに入れていた小銭が無くなっていて、靴の裏にもガムが付いていて、また、外に出る時にゴミ箱を漁っているホームレスの高齢の男を目にして、瑠奈は身震いをした。
そもそも、男と女というのは構造が違うのかも知れない。自分がこれほど異性の年上の男が嫌いになったのは、家庭環境もあるとは思うが、それは確実に以前の職場にあったと思う。嫌がらせで自分から辞めると言うことになった後からずっと続く、言い知れない敗北感をまだ忘れたわけではなく、ドラマでも同じような場面に遭遇し女性が虐げられている場面を見ると吐き気がして来るようにもなった。
でも普段は無感覚だ。それに、おじさんだけが苦手なわけではない。いったい自分が、何に虐げられていると思うのかを、会う人にその度に伝えられるほど、どうしても賢くはなれない。
空は夕暮れ時に赤く染まり始めている。
潤は今頃、叔母さんと話して、それから身体を売るという覚悟でもしてるのかもしれない。
(いや、)
潤だって男なのだから、寧ろそうしたいのかもしれない。そう思う。溜まっていれば、別の生き物みたいに思える事だって、女だって時々はあるものなんだし。
自転車に跨って、家への道を走り抜けて行く。自分は何がしたいのか。ふと考える。それは、多分絵が描きたい。それから、何が好きなのか。身の回りにあるものは、同じくらい全部好きだと思う。それから、嫌いなもの、それはまだ周りに沢山ある。それらを、遠ざけられるほどに瑠奈はまだ強くはない。
…だから自分はこれからも、見過ごして行かなきゃならないのだ。愛情を、なににでも好きに注ぐことは出来る。でも、見返りを思って泣いているほど、もう若くもなければ時間がある訳でもない。
全てを自分のものにしておく事なんてまだ自分の力では、出来そうにない。信号待ちのまま、目の前の横断歩道を踏み走り抜けて行く車を見た後で、信号が切り替わるのを待つ。お腹が、やっと空いてきたみたいに思えた。
今日はいったい、何を食べようか。
潤はまた、意味もなく世話をさせてくれるんだろうか。
そう思って、しくしくする胃の痛みを抱えながら瑠奈はいつもの通りに家までの道を通り抜けて行った。