⧉▣ FILE_012: 準備 ▣⧉
Lからの連絡は──今日も、なかった。
気づけばもう一週間近く、パソコンには何の通知も届いていない。
特設サイトも変化はない。地球上の赤い点は昨日と変わらず、息を潜めている。
「……」
Aは小さくため息をつき、パソコンを閉じる。
ベッドから身体を起こした。
乱れた寝間着のまま、窓際に差し込む朝の光を一瞥して──隣を見やる。
Bが、まだ寝ていた。仰向けのまま、無防備な寝顔。
Aはクローゼットから着替えを取り出し、寝間着を脱いで新しいシャツに袖を通す。ボタンを一つずつ留めながら、ちらりともう一度、Bのほうを見た。
「……B、起きて。朝だよ」
Aはベッドの端に腰かけると、軽くBの肩を揺らした。
「ごはん、行こうよ」
反応は薄い。けれど、微かに瞼が動く。
Bの目が、ゆっくりと、ゆっくりと開いた。
Aはそれを確認すると、先に立ち上がった。ドアノブに手をかけて、振り返ることなく言う。
「先に行ってるね」
──そうして、Aは部屋を出た。
今日も、何も変わらない朝が始まる。
でも、その“何もない”が、いつまでも続くとは限らないことを──
Aは、ちゃんと分かっていた。
食堂の扉を開けると、そこはまだ朝の静けさに包まれていた。時計の針は朝の始まりを示しているが、いつものような喧騒はまだ訪れていない。
席についているのは、ほんの数人。壁際でぼんやりと座る少年。カウンター近くで眠そうにパンを齧っている少女。そして──その中に、一人だけ妙にそわそわと落ち着かない動きをしている少女がいた。
髪を二つに結んだ小柄な少女。
新入りの──『リンダ』だった。
「おはよう。……どうしたんだい?」
声をかけられたリンダは、少し驚いたように顔を上げ、それから不安げに視線をさまよわせる。
「あ……お、おはようございます……その……まだ誰もいないから……時間、間違えちゃったのかなって……」
手にしたトレーを持て余すように抱え、足元ばかり見つめている。
Aは小さく笑った。
「大丈夫だよ。みんな、お寝坊なだけさ」
その優しい言葉に、リンダの表情がほんの少しだけ緩む。
Aは彼女の肩を軽く叩き、並んでカウンターへと進んだ。食堂の職員に挨拶を交わしながら、丁寧にトレーを受け取る。リンダもそれにならって、小さな声で「おはようございます」と言った。
「こっちの席、空いてるから」
Aはテレビが置かれている壁際の席に歩いていく。
まだ誰も座っていないそのテーブルに、トレーを置くと、隣にリンダがちょこんと腰かけた。
Aはテレビのリモコンを手に取り、そっと電源を入れた。パチ、と画面が光り、無音のままニュース番組の画面が映し出される。
「ニュース……見るの?」
「いや?」
Aはあっさり首を振った。
ぱぱっとチャンネルを変える。カラフルなオープニング。音は出ていないが、画面に映るのは賑やかな子ども向け番組だ。
「こっちのほうが好きでしょ」
そう言って、音量をほんの少しだけ上げる。うるさくはならない程度に、でもちゃんと聞こえるくらいに。
リンダは目を丸くして、画面に釘付けになった。
不安げだった肩の力が、ほんの少しだけ抜けているのが分かる。スプーンの動きも、さっきよりずっと自然だった。
Aはそれを横目に見ながら、ご飯を口に運ぶ。甘めのシリアルにミルクをかけたもの。もそもそとした食感。けれど悪くない。
──10分もすると。
どこからともなく、子供たちの足音が響いてきた。廊下を駆けてくる音。寝癖のまま、寝間着のまま、ぞろぞろと食堂へ。
リンダが少し驚いたように顔を上げる。
その視線の先に、わらわらと集まってくるワイミーズの“いつもの朝”があった。
その中に──ひときわ目立つ存在がいる。
ひとりだけ背が高く、ひとりだけ歩幅がでかい。
髪は寝癖で爆発しており、上下ともに明らかにパジャマのまま。顔を洗った様子もなく、目の縁にはうっすらクマ。
Bだった。
「……着替えろよ……」
Aはぼそりと呟いた。
まったく悪びれる様子のないBは、ずかずかとこちらへ歩いてきて、当然のようにAの向かいへトレーを置いた。
そして──座る。
Bは、椅子に深く腰を沈めると──何の前触れもなく、ぐしぐしと自分の髪を掻きむしり始めた。まるで猫が顔を洗うみたいに、手のひらで頭を挟んで、乱暴に後ろへ撫でつける。
「……余計ひどくなってるよ、それ」
Aが指摘するも、Bは意に介さず、すぐさま目の前のトレーへ手を伸ばした。
フォークを掴むなり、むしゃむしゃと無遠慮に口へ運ぶ。伸びた髪はパンにかかっており、何本かしっかり食べている。
Aは、盛大なため息をついた。
Bは反応しない。というより、見ていない。目の前のトーストに全集中しているのだ。
──その時。
隣に座っていたリンダが、スプーンを置いて立ち上がった。気まずそうに、でもどこかホッとしたような声で、小さく言った。
「……あっちで、食べるね。お友達見つけたから……」
「あ……うん、わかった」
リンダは頭をぺこりと下げ、足早にテーブルを離れた。
向こうでは、同年代の女の子たちが手を振ってリンダを呼んでいる。彼女は少し照れたように走っていった。
──よかった。
Aはそう思った。
それでも、その余韻に浸る間もなく、向かいのBが自分のトレーに残ったジャムを指で掬いはじめたので、再び──ため息が、深く落ちた。
AはもうBに小言を言う気すら起きなかった。
髪を掻きむしりながらジャムを指で掬うその姿を見ても──ただ平然とリモコンを手に取り、子供向け番組から、“ニュース”へと切り替える。
画面が一瞬ちらつき、いつもと違うアナウンス画面が映し出された。
──アメリカ、ペンシルベニア州。
報道は、深刻な顔つきのキャスターによって淡々と読み上げられていた。
【……アメリカ・ペンシルベニア州にある国立放射線医学研究センターにおいて、研究員31名が相次いで死亡していたことが、本日未明、関係当局により発表されました】
【関係者によれば、被害者たちの死亡原因は共通して“免疫反応による急性ショック”と見られている一方で、症状や経過にはばらつきがあり、中には呼吸不全や脳浮腫、心停止など、それぞれ異なる経過をたどったケースも報告されています】
「……免疫反応……?」
Aの手が止まる。
スプーンを皿の上に置いたまま、画面を凝視した。
繰り返されるワード。「放射線」「免疫」「研究センター」「急性ショック」──
「……」
──放射線に関する施設で、免疫反応で死ぬ?
──31人、全員が? ……?
また、免疫反応……?
隣の椅子が、音もなく動いた。
Aは、まったく気づかなかった。
いつのまにか、隣にCが座っていたことに。
【──現時点で、死因は“免疫の暴走による急性ショック”とされていますが、具体的な原因は不明。施設側は一定の放射線被曝の可能性についても否定しておらず、慎重な調査が続けられています──】
画面には、立入禁止の黄色いテープが張られた研究施設の映像。マスクと防護服に身を包んだ職員が映り込んでいる。
Aの背筋が、ゆっくりと凍っていく。
──原因不明?
──放射線施設で……。
「……Lが好みそうな事件ね」
唐突に、隣から声がした。
Aの指先がぴくりと震えた。同時に、反対側でも、ガシャンと小さな音が鳴る。──Bの手元で、フォークが皿に当たった音だ。
AとBが、同時にCの方へ振り返る。
くすりとも笑わず、ただ視線だけでテレビを見つめたまま、Cは言った。
「──規模も充分。原因は不明。未解決。恐らくLが出てくるはず」
Aは、驚きで瞬きを忘れていた。
「……いつから、いたの……?」
「……ふん。さっきからいたわよ」
Aは思わずBを見る。Bはといえば、完全に「L」の単語にだけ反応したようで、今は無言でテレビを凝視していた。
「……Lが興味を持つって、どういうこと?」
Aの声には、明らかに棘があった。
「どうして──Lが、動くって思うの……?」
珍しく、食いつくような勢いで。
その瞬間、自分でも気づいた。これは“食いついた”んじゃなく、“縋った”んだ。
Aは普段、「L」という言葉を口にしない。というか、避けるようにしていた。
けれど今日は、違った。
ニュースに映った異常な死──原因不明の免疫反応。そして、その出来事を見て、「Lが動く」と口にしたC。
その断定に、Aの中の“恐れ”が、形を成した。
──もしそれが、Lの領域なら。
もし本当に、“Lが動くべき案件”なら──
じゃあ、自分は?
今、ここにいる自分は?
すでに“L”と呼ばれた、この僕は──
──僕が『向き合わなきゃいけない事件』ってことなのか?
Aは今、“L”の名を受け取った状態で、宙吊りにされている。
Lからの任務は来ない。連絡もない。あの特設サイトに変化はなく、メールの通知音は聞こえない。
けれど、“何かが起きたら、自分が動かなければならない”という自覚だけが、胸に息を潜めていた。
──そこに、現れた。
“Lが動くような事件”。
自分が出なければならないのかもしれない、という予感。
──じゃあ、それは誰が判断する?
自分か?
本当に、自分が……Lとして──動くのか?
Aの中で、確信と不安が拮抗していた。
だから、Cの言葉に、反射的に問い返さずにはいられなかった。
「どうして、そんなふうに……簡単に“Lが出る”なんて言えるんだよ……!」
その声には、“指令を待っている自分”への苛立ちも、“それが来ないことへの恐怖”も──全部、詰まっていた。
Cは、返事をしなかった。ただ、わずかに顎を引き、眉も目も、言葉よりもはるかに強く──こう言っていた。
《そんなことも分からないの?》
Aの口が、自然と閉じた。
どく、と鼓動が跳ねた。自分でも驚くほど、情けない動揺のしかた。さっきまでの勢いは影も形もなくなり──ぽつりと、小さく、言う。
「……ごめん」
もうスプーンは動かなかった。
喉は渇いていたのに、水さえ飲む気がしない。
Aは、ただテレビの画面を見ていた。目の前のニュース映像が、急に“遠くない未来の風景”のように思えて仕方なかった。
──自分が、この事件に関わることになるかもしれない。
そう思った瞬間、胃の奥がざらつく。
震えているのは恐怖か、それとも──覚悟の準備か。






