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7席ほどのカウンターと、奥のテーブル席に客はいなかった。静まり返った店内の壁の汚れは、この店の歴史を感じさせるには充分で、色褪せた空間に絢香は思わず、
「エモい!」
と、呟いていた。
磯海も絢香と同じく、昭和を知らない世代であるが、奥のテーブル席に腰掛けながら『昭和ってきっとこんな感じ?』と、妄想を膨らましながら目わ輝かせていた。
傘の無い裸電球。
名も知らないアイドルの水着のポスター。
鰹節と鯖節をずん胴鍋で煮詰めている音が、ふたりの食欲をそそる。
壁に貼られた様々な蕎麦の写真は、プロのカメラマンが撮影したものではないのは調光加減でもわかる。
しかし、ふたりにはそれがたまらなく良かった。
人の温もりを感じられたからだ。
テーブル上の箸置きに高く積まれた割り箸。
竹の筒の一味唐辛子。
店内に流れる古典落語は、子守歌の様に心地よくて儚い。
先程、
「いらっしゃいませ」
と言って、笑顔を向けた女性は、華奢な身体つきながら、せっせとずん胴鍋を抱えてかえしを土瓶釜へと移し替えている。
女性を見ながら磯貝は思った。
「可愛い!」
間の抜けた金子の顔を眺めながら、絢香は小声で言った。
「あのさ、見惚れてないでさ、何にする?」
絢香は、店内に掲示された営業許可証と、防火責任者の名前欄に書かれた『鈴江実篤』の名前を、自分のスマホに登録した。
東京区移動許可証も貼られてはいるが、記載されている番号との照合は出来ず、それが偽造であるのは明白だった。
だが絢香は、額に汗を浮かべながら働く女性の姿を見て、その事実を突き止める気にはなれないでいた。
磯海は、壁を指差しながら、
「かけ、もり、かきあげもいいな…おかめに花巻にしっぽくも旨そだな」
「私しっぽく!」
絢香は、かまぼこや玉子焼き、椎茸、ゆず皮、鶏肉、竹輪の入った蕎麦の写真を見て即決した。
磯海が。
「おねえさん!しっぽく2つ!熱いのでちょうだい!」
と、言うと女性は。
「はいよ!」
と、ぎこちなく笑って生蕎麦を蕎麦棚から引き出した。
煮えたぎる湯の音と、古典落語の響だけが店内には響いていた。