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結局、ベルニージュと会話できないままに日が沈む。そのうち癒す奇跡だけでなく、腹を満たす奇跡にも勘づかれる可能性が高いことにユカリは気づく。早く城砦を離れなければ加護官たちにも焚書官たちにも怪しまれてしまう。
ユカリはベルニージュの姿を探してさまようが、何やら中庭が騒々しいことに気づき、一階に降りるとノンネットと鉢合わせた。今まで以上に嬉しそうな表情だった。
「エイカさん。本当にベルニージュ様は凄いですね」
もちろん加護官がそばに二人いたが、彼らの表情はいつも通り凍った湖のようだ。
「どうかしたの? 何だか騒がしいね」
黄玉のように目を輝かせて、温石のように温かな手でユカリの手を掴む。
「傷病人が全員、完治したんです。奇跡としか言いようがありません」
やりすぎだ、とおそらくベルニージュは思っていることだろう。想っているだろうが、ユカリに上手く調節できるようなものごとでないことも分かってくれているはずだ。
「そうなんだね。何はともあれ、良かったよ。じゃあ、ノンネットたちはまた修業の旅に出るのかな?」
「ええ、その通りです。明日には」ノンネットは寂しげな微笑みを浮かべる。「最後にデノクの街を彷徨う霊を鎮めた後、発つこととなるでしょう。お二人はどうされるのですか?」
「私たちは」とまで言って焚書官のふりを忘れかけていたことに気づく。「もう少し、仕事があるかも」
「そうですか。何か拙僧どもにもお手伝いできることがあればいいのですが」
ユカリは慌てて首を横に振る。
「これ以上、ノンネットの邪魔はできないよ。どうか気にせず旅を続けて。いずれまたどこかで会おうね」
「はい。それと要塞の方々が、拙僧どものために、そしてもちろんベルニージュ様のために感謝の場として宴を設けたいとのことなのです。もちろん拙僧どもは固辞したのですが、強い熱意をお持ちでしてどうしたものか、と悩んでいたのです。救済機構の僧侶としてどのように振舞うべきかエイカ様にご意見を伺いたくて」
中庭の騒ぎはそれらしい。確かに人々が嬉しそうに楽しそうに行き交っている。何か見世物でもしてくれるのか、舞台のようなものまで用意している。それにどこからか、おそらく厨房からか、嗅いだだけで満たされそうな香りが漂っている。とてもそのような空きはないのだが。
「まあ、良いんじゃないかな。本当に心から感謝していたら、縛られたって感謝の意を示したくなるものでしょう? よほどの理由がない限りはね。これも修業だと思えばいいよ」
ノンネットはそんな簡単な意見で救われたかのような表情を浮かべる。
「なるほど。分かりました。そうすることと致します。それでは焚書官の皆さんとまた今夜」
立ち去ろうとするノンネットをユカリは止める。
「ま、待って。焚書官、私たちも?」
「それは、もちろん。彼らデノク市の市民たちは何よりベルニージュ様に感謝しているのですから、まさか焚書官のうちベルニージュ様だけしか招待しない、というわけにもいかないでしょう」
ユカリはぎこちなく頷いて答える。「そうだ、ね。うん。分かった。皆には私から伝えておくよ」
「はい。宜しくお願いしますね」そう言って今度こそノンネットは立ち去った。
ユカリは慌ててベルニージュを探す。砦のどこかにいるはずだ。
そもそも人々が皆完治したのなら、加護官は傷病人から離れているので早々焚書官と会話をすることはないはずだ。しかし宴が始まればそうもいかないだろう。何か政治的な確執があるとはいえ、お互いの組織の長だと思っている人物が同一であることなどすぐに気づいてしまう。何のためにそんなことをしたのかまでは知る由もないだろうが、決して放っておきはしないだろうし、捕まれば取り調べを受ける。そして魔導書が見つかろうものなら、最たる教敵である魔法少女ユカリだと容易くばれ、行く末は暗い。救済機構がどのような処刑法を運用しているのか知らないが、場合によってはそれも少し英雄的かもしれない。なんて考えている場合じゃない、とユカリは反省する。
そしてユカリはここから上手く逃げ果せても、どうしたってノンネットにはばれてしまうのだと気づく。彼女を騙していたことに心を痛める。
ふと、あの少年を見つける。中庭を見下ろせる二階の薄暗い回廊で、背伸びをして欄干から人々を見下ろしていた。
「あ、お姉さん」
少年は人懐っこい笑みを浮かべてユカリをそう呼んだ。
「ずっと見かけなかったね。もう家族と街を去ってしまったのかと思ってたよ。ところでベルニージュさんを見かけてない? 赤い髪の綺麗な女の子」
少年は首を横に振る。「ううん。分かんない」
ユカリも中庭を見下ろす。いくつか篝火が立てられ、大きな机らしきものを運び込んでいる。思いのほか盛大にやるつもりのようだ。
「そっか。見ての通り、宴をするみたいだから君も家族と一緒に参加しなよ」
それには答えず、少年は問いかける。「お姉さん、どこ行くの?」
「どこって、ベルニージュさんの所だけど」
「そうじゃなくて、この街を出て、どこ行くの?」
「ああ、えっと、うーん。北西、かな」
そう聞いて少年は北西の夜空を眺める。地上の宴にも負けない装いで星々が競い合うように煌めいていた。
「ねえ、お姉さん。僕をお母さんの所に連れて行って」
ユカリは苦笑する。少年が困ったような素振りを見せなかったのは、子供ながらの自尊心だろうか。何だ、君もはぐれたんだ、という言葉を少年の名誉のために飲み込む。
「いいよ。一緒に探そう」
ユカリが手を差し出すと、少年はその手を握った。
「ユカリ?」
廊下の先からベルニージュに呼ばれて、ユカリは振り返る。燃え立っているわけではないが、月光を浴びた赤い髪が炎のように煌めいている。
「一人で何してるの?」とベルニージュは言った。
そう言われてユカリはもう一度少年を振り返るが、薄暗がりのどこにもその姿はなかった。手を握ったはずの感触は幼い頃の大事な思い出のようにまだ確かに残っていた。
「少年と話していたんですけど。照れ臭かったのかな」
「少年?」
「良いんです。それより、それより」そう言ってユカリは合切袋を漁る。城砦を離れなければならない、という話よりも伝えたくて仕方がないことがあった。ユカリは『プリンセスのおまじないポエム』もとい『咒詩編』を取り出す。「これ、『咒詩編』。ベルニージュさんが持っていてください」
ベルニージュは魔導書には目もくれず、ユカリの伏せた瞳をじっと見ていた。
「どうして? 何のために?」
「魔導書を越える魔法の研究に役立つかもしれませんし、触媒として使うにしてもベルニージュさんが持った方が」そう言って、ユカリは魔導書をベルニージュの胸に押し付ける。「ううん。違う。そうじゃない。私はベルニージュに私を信頼して欲しい。そう思ったから、これを預かって欲しい」
「ふうん」ベルニージュは魔導書を受け取り、ぱらぱらと捲る。「確かに触媒としてはワタシの方が上手く使えるかもね」
そう言うとベルニージュは魔導書をユカリの方へと返した。
ユカリは逡巡し、絞り出すように掠れた声で言う。「駄目なの?」
「ううん。ワタシもユカリと同じ気持ち。ユカリに私を信頼して欲しい。だからこそこれは返す」ベルニージュはユカリの手を取って魔導書を握らせる。「それはあくまでユカリのものなんだから、ワタシが持った方が良い場面があれば、その都度貸してよ」
おそるおそる見上げたベルニージュの表情は薄暗闇の中でも晴れやかで、もうわだかまりなどないことにユカリは気づいた。
「うん。分かった」ユカリは魔導書を合切袋に片づける。「あとそれと街の人たちがベルニージュやノンネットたちのために宴を開くらしいんだけど、焚書官も招待することになっちゃって」
「それはつまり今すぐ逃げた方が良いってことだね」
ベルニージュが欄干から覗き、ユカリも同じように中庭を見下ろす。焚書官と加護官が言い争いをしていた。内容までは分からないが、もしかしたらお互いの認識の食い違いに気づいたのかもしれない。そうでなかったとしてもいずれ気づく。
ベルは呟く。「もうばれちゃったかな。人が集まって来たね」
ユカリは見下ろした人ごみの中にこちらを見る視線に気づく。ノンネットの悲し気な瞳とサイスの不敵な眼差しだ。瞬間、ユカリは、ベルニージュを押し倒すように飛び掛かる。直後、熱風と共に窓から炎が吹き込み、天井を焦がした。
「走って走ってベルニージュ! サイスだ! もう気づかれてる!」
回廊を走り抜ける。叫び声や怒鳴り声、命令を飛ばす鋭い声が聞こえた。階段を降りようとしたベルニージュの腕を掴み、逆に階段を上る。振り向くことはできなかったが、すでに追ってくる足音がいくつも聞こえる。
ベルニージュは次々にユカリには聞き取れない呪文を唱える。扉のないところで扉が閉じ、足音がこだまのように何度も響き、遠くで熱のない炎が燃え上がった。
監視塔の頂まで上がり、ベルニージュの手を掴んで欄干に足をかける。
「グリュエー! 逃げるよ!」
「待って待って。もしかして飛ぶの?」そう言ってベルニージュはユカリの手を強く掴む。
「飛ぶというか、跳び上がった後にゆっくり落ちるというか。高いところ苦手だったっけ?」
「高いところは苦手じゃないよ。でも、ひとの魔法に身を任せるのは苦手かもしれない」
ユカリは欄干の上に飛び乗って、ベルニージュを引き上げる。
「信頼できるひとならどう?」とユカリはなぜか嬉しそうに言う。
緊張した面持ちでベルニージュは答える。「頑張るしかない」
「大丈夫だよ。グリュエーもそう言ってる」
「そんなこと言ってないけど」との囁きは聞こえないふりする。
ベルニージュは抗議する。「そのグリュエーとはまだ話したこともないんだけど」
「じゃあ、行くよ」とユカリは言った。
「分かった。分かったからワタシの心の準備がっ!」
二人は城砦の外の北西の夜空へ飛び降りた。