王宮の回廊。誰もいない深夜の静けさ。
月明かりが床に落ちて、薄い影が揺れていた。
「……王室教師殿」
背後から声をかけられ、ハイネは足を止めた。
振り返ると、ヴィクトールが一人、外套を羽織って立っている。
「こんな時間に、お一人で?」
「考え事をしていて、眠れなくてな」
「……そうですか」
ハイネは軽く会釈し、そのまま立ち去ろうとする。
だが――
「……ハイネ」
その声に、動きが止まる。
まるで、糸で引かれたように、背中が震えた。
「……」
しばしの沈黙のあと、ハイネもまた、静かに応じる。
「……ヴィクトール」
たったそれだけ。
それだけなのに、呼吸も鼓動もすべて、変わってしまう。
「君は、本当に変わらないな。どこまでも律儀で、距離を守って……」
「……貴方が、“陛下”だからです」
「そうだな」
でも、そう答えながら、
ヴィクトールの足は少しずつ、彼に近づいていく。
「けれど、今だけは……君に“ハイネ”と呼ばれたくてたまらなかった」
ハイネは黙っていた。
けれど、その目は――どこまでも、悲しくて優しかった。
「それを許した私は、教師失格ですか?」
「……君が教師失格なら、私はとっくに王失格だ」
静かに笑い合う。
苦しさと愛しさの混じる、淡い夜の匂いがした。
それ以上の言葉は、なかった。
けれど名前を呼び合っただけで、二人には、すべてが伝わっていた。
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