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「──ヴィル、この縁談を受けてはくれないか」
父の掠れた声が、埃の舞う執務室の静寂を切り裂いた。
窓から差し込む斜陽は、かつての栄華を物語る壁紙の染みを残酷に浮き彫りにしている。
金縁の調度品はすべて借金の形として売り払われ
残ったのは数代前の古びた燭台と、机の上にうず高く積まれた膨大な借用書の山。
かつては百花繚乱の美しさを誇った庭園も
今や手入れをする庭師もおらず、枯れ果てた枝が冬の風に震えるばかりだった。
私の目の前に差し出された、厚手の羊皮紙。
そこには、王国でもその名を知らぬ者はいない
『王国の守護者』
ルネサンス・ド・ヴァロア公爵の名が、鋭く冷徹な書体で記されていた。
冷酷無比。戦場の死神
血も涙もない氷の統治者。
社交界に流れる彼にまつわる噂は、どれも血生臭く、体温を感じさせないものばかりだ。
(私が行かなければ、この家は終わる。病弱な母も、幼い弟も、明日には路頭に迷うことになる……)
私は、震える指先でその冷たい書面をなぞった。
指先に伝わる紙の質感さえ、私の未来を拘束する鎖のように感じられる。
没落の崖っぷちに立たされた伯爵令嬢に残された手札は
もはや自分自身の身を、誇りごと売ること以外に道はなかった。
「……謹んで、お受けいたしますわ、お父様。それが、エインズワース家の娘としての務めですから」
自らの声が、どこか遠くから聞こえるような心地がした。
◆◇◆◇
一週間後──…
迎えに来たのは、紋章を剥ぎ取ったかのような装飾のない漆黒の馬車だった。
車輪が石畳を叩く単調な音を聴きながら
私は、いつしか『氷の城』と称されるようになったヴァロア公爵邸の重厚な鉄門を潜った。
馬車を降りた私を出迎えたのは、息を呑むほどに冷麗な、一人の男だった。
月明かりを溶かしたようなプラチナブロンドの髪を完璧に整え
隙のない軍服に身を包んだルネサンス公爵。
彼は、感情の欠片も見当たらない、深い蒼の瞳で私を見下ろした。
その視線は、愛でるべき婚約者に向けるものではなく
競り市に出された家畜の質を見極める商人のそれだ。
「……君が、エインズワースの娘か」
低く、チェロの低音のように心地よく響くバリトン。
だが、その響きには歓迎や温情など微塵も混じっていない。
広間に立ち込める冬の夜のような冷気に、私の体は、意識とは裏腹に小さく強張った。
ここで怯えを見せれば、すべてが終わる。
私は、単なる『供物』として選ばれる側ではなく
彼に『自分を選ばせた』のだという優位性を、虚勢であっても保たねばならなかった。
この契約を確実なものにするために、私は鏡の前で何度も練習した
人生最大の『嘘』を唇に乗せた。
「お初にお目に掛かります、ルネサンス公爵閣下」
私は重いシルクのドレスを完璧な所作で持ち上げ、深く、優雅にカーブを描く。
それは没落してもなお失われない、伯爵令嬢としての最後の矜持。
そしてゆっくりと顔を上げた瞬間
頬を微かに上気させ、熱に浮かされたような潤んだ瞳で彼をじっと見つめた。
「……ずっと、戦場での貴方様の勇姿をお聞きし、お慕いしておりました。この縁談が叶ったこと、まるで、夢のようでございます」
背後に控えていた侍女たちが、短く息を呑む気配がした。
嘘だ。
戦場の噂に震え、一度も面識のなかった男に愛などあるはずがない。
私の心にあるのは、家族を救えたという安堵と、自分を売り渡した絶望だけだ。
けれど、ルネサンス公爵は眉ひとつ動かさず、形の良い唇に冷ややかな笑みを刻んだ。
「ほう。私を慕っている、か」
彼は迷いなく一歩、私との距離を詰める。
重厚な軍靴が床を叩く音が、まるで私の鼓動を威圧するように響いた。
彼のまとう威圧感と冷気が、むき出しの肌を刺す。
彼は逃げ場を塞ぐように私を壁際へと追い詰めると、長い指先で私の顎を不躾にすくい上げた。
「ならば、好都合だ。君が私に捧げるべきは、心ではない。その身に流れる魔力だけだ。それ以外のすべては、私には不要なガラクタだと思え」
その指先は、期待通り氷のように凍てついていた。
しかし、至近距離で見つめたその蒼い瞳の奥底には、一瞬だけ
理性を焼き切らんとするほどに濁った
おぞましく、そして悲しいほどに烈火のごとき『熱』が揺らめいたのを、私は見逃さなかった。
これが、私と彼の、嘘にまみれた一年間の始まりだった。