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「……佐藤課長と高瀬くん、やっぱり何かあると思わない?」
給湯室から漏れ聞こえてきたひそひそ話に、私は足を止めた。
手に持っていた空のマグカップが、指先で冷たく感じる。
「だよね。昨日も非常階段の方から二人で出てくるの見たって子がいて。課長、なんだか最近、雰囲気が柔らかくなったし……」
「高瀬くんも、あんなに有能なのに他の部署からの引き抜き断ってるらしいよ。それって、ここにいたい『理由』があるからじゃない?」
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
あの非常階段での抱擁。
誰にも見られていないと思っていた。
でも、ここは人の目がある会社なのだ。
一度火がついた噂は、瞬く間にオフィスという閉鎖的な空間を駆け巡る。
自席に戻ると、高瀬くんが平然とした顔で資料を整理していた。
その凛々しい横顔、完璧な仕事ぶり。
彼に泥を塗るわけにはいかない。
「……高瀬くん。この案件、他部署に引き継いでもらおうと思ってるの」
私の突然の言葉に、高瀬くんが顔を上げた。
「……どういうことですか、凛さん」
「言葉通りの意味よ。……昨日のことが、噂になってるの。あなたが変な目で見られるのは、私の本意じゃないわ」
私はわざと冷たく、突き放すような視線を送った。
また、あの「鉄の女」の仮面を被らなければならない。彼を守るために。
けれど、高瀬くんは動じなかった。
彼は周囲に悟られないような低い声で、でもはっきりと私を射抜いた。
「俺を守るために、また一人で抱え込むつもりですか? ……凛さん。あんたのそういう悪い癖、俺が全部矯正するって言いましたよね」
「……ここは会社よ。わきまえて」
「わきまえてますよ。だから、今はこれ以上言いません」
彼は資料を机に置くと、私にだけ見える角度で不敵な笑みを浮かべた。
「だから、覚悟しておいてください。今夜、そんな噂無視していいって教えてあげますから」
その瞳には、私の「拒絶」など微塵も受け付けない、強固な独占欲が渦巻いていた。
会社での仮面が、彼の熱を帯びた言葉一つで、いとも簡単にひび割れていくようだった。
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おまる