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山梨県小瀬スポーツ公園アイスアリーナ。
リンクの床延面積はおよそ1,800 ㎡。凹み一つない純白の氷は辺りに冷気を放ち、その場の雰囲気をより引き締める。
今年の全日本フィギュアスケートノービス選手権大会における会場であり、最大882人を収容できる観客席は人で埋め尽くされていた。空席は見当たらない。
マスコミ関係者はみな己ばかりにカメラを向ける。次から次へと声をかけられマイクを向けられ、周囲からは期待と嫉妬の視線を向けられる。
しかし、夜鷹純はそんなものに興味はない。
金メダルを取る。そのためだけに此処へと訪れた。たったそれだけの単純作業。他の選手の演技など興味もなく、ソレを見つけたのは本当に偶然であったのだ。
夜鷹純は、太陽をみつけた。
純白の氷のうえに佇む、金髪の少年。
天井の照明がその金髪をより輝かせ、純白の衣装がその美しさをより引き立たせる。まろい頬がほんのりと桃色染まっていて、どこはかとはくあどけなさを醸し出す。
伏せられていた瞳が静かに起き上がった。
ただひたすらに、彼太陽は美しかった。
あれが、ほしい。
衝動のままに、太陽へ手を伸ばす。今すぐあのリンクへと駆けていきたい。あの眩しい光を手元に置いておきたい。あれを、僕のものにしてしまいたい。
しらない。あんな光を僕は知らない。
それはそれは、照らし尽くすようなひたすらに目が眩むような、そんな、眩しい太陽。
_________あれは、なんだ
明浦路司、12さい。
小学5年生からフィギュアスケートを始め、わずか一年で全日本ノービスAへの出場権を勝ち取った実力者である。
彼のなによりの魅力はスケーティングの美しさにあった。一挙一動、指先から睫毛の先端にいたるまで、洗練されたスケーティングは見ているすべての人を魅了する。
「すごい‥!」
そんな彼には憧れの選手がいた。
夜鷹純、司と同い年の12さい。
前年度のノービスA金メダリストであり、今年のノービスAにおける優勝候補の筆頭として世間から注目を集めている若き天才である。
優勝”候補”だなんて言われているが、世間の9割9分は彼が優勝すると思っている。同じ大会に出る他の選手が「どうせアイツが優勝する」とぼやいているのを司は聞いたことがあった。
夜鷹純は天才である。
天才なのだ。ほんっとうにすごい。彼のすごさを語るのなら最低でも3時間は必要。それぐらい「すごいのだ。彼の表現力、スケーティング、技術、なにを
とっても一級品どころかそのさらに上!
はじめてテレビの画面越しに見た彼はそれはもうお月様のように輝いていて、それなのに夜のような静寂さを兼ね備えてきた。
一目見て彼に夢中になって、彼を追いかけるようにしてフィギュアスケートを始めた。本格的に始めるまでには色々と紆余曲折があったのだが、それは一旦置いておくことにして
「テレビと全く違う‥。これが、夜鷹純‥‥!」
司は今、人生における最も幸福な時間を味わっていた。12さい程度のガキンチョがそう簡単に”人生で最も”という表現を使うのは些か早すぎるのではないかと言われればそうなのだが、司としてはこれ以上に適切な表現ない。
だって自分の目の前で、夜鷹純が滑っているのだから!
正確に言えば司と夜鷹純の間には観客席という大きな距離が隔たりがあるのだが、今の司からしてみたらそんなものどうってことない。
はじめてなのだ。テレビという電波越しではなく、この肉眼が本物の夜鷹純を捉えている。
目の前に、自分の憧れがいる!
彼の滑りは静かでただひたすらに美しくて、綺麗で綺麗で仕方がなかった。自分とのレベルの差を思い知らさられる。悔しい気持ちはあれど、それ以上の興奮と充足感が司の心を埋め尽くしていた。
あゝ、本当に、見れてよかった!
やっと決心できた。やっと自分の次の”目標”が定まった。
これで後腐れなく、今の自分を捨てられる。
これまでの自分は、彼と同じ舞台で滑りたいことだけを目標にしていた。
勝ちたいだなんて思ってなかった。自分を魅了した憧れの夜鷹純と同じ舞台に立てれば、それで満足だった。
けれどスケートを始めて、大会に出て、いろんな選手たちと競い合って、そして今日。
‥夜鷹純と同じ舞台に立ちたいと思ってた俺、その願いは叶ったよ。
お前のおかげで、今俺はスケートができてる。毎日すっごい楽しい。本当に、はじめてよかった。あの時勇気を持って一歩を踏み込んでくれた俺、ありがとう。
そして、さよならだ。
これまでの俺はもういらない。これでもう、決別。
今もなお止まない拍手の雨が、リンクに立つ彼にただひたすらに注がれる。
今か今かと観客たちは、彼の出した点数の発表を待ち望んでいる。
けれどもう、気にならない。
彼のスケートを振り返ることなく、その場に背を向け立ち去った。
滑走順が夜鷹純の”次”であるにもかかわらず、先生に無理を言って見させてもらって本当に良かった!
まぁ、そのせいでリンクまで全力疾走するハメになったのだけれども
先生には謝らないといけない。けど、それよりも前に。
これだけは、伝えなければならない。
「司さ、」
「先生、俺、これまでは夜鷹純みたいなスケートがしたいって思ってた」
先生の声を遮るようにして、大声を出した。
ごめんなさい先生。遮って。でも、今この瞬間に、どうしても言いたかったんだ。
「でも今日、夜鷹純の演技を見て思ったんだ」
彼と同じ大会に出たいって、同じ舞台に立ちたいって思ってた。
けれど、実際に彼の演技を見て、圧倒されて、
「先生、俺、勝ちたい」
夜鷹純に、勝ちたい
その為だったら、なんだってできる。
あんなふうに、全てを惹きつけるような美しい滑りがしたい。
あの憧れに追いつくぐらいじゃ満足できない。
憧れを、追い抜きたいんだ
だから
「いのり先生‥‥____俺を、信じて」
俺が、いのり先生を金メダリストのコーチにする。
俺を信じて。俺も、あなたを信じるから。
『23番 ルクス東山FSC 明浦路司さん』
舞台『リバーダンス』より「Reel Around the Sun」
_______完走
拍手が、鳴り止まない。
リンクから上がってもなお続くそれは、彼の演技に対する尊敬と賞賛のみが含まれている。
「司さん」
彼の演技は凄まじかった。
夜鷹純の演技に飲み込まれたこの会場。圧倒的で圧巻な演技の直後。夜鷹純の次の滑走という誰もが拒むハズレくじを引いておりながら、それを覆すような演技を彼はしてみせた。
夜鷹純が夜の月であるならば、彼は晴天の太陽であった。
周りを引き込むような演技ではない。周りを照らし、勇気づける、笑顔をもらたすような演技。
「先生、」
が、しかし、それだけだ。
夜鷹純と明浦路司にある圧倒的な技術の差。いくら演技が良かったとしても、その差を埋めることは不可能であった。
誰もが良かったと口々に言い、今もなお拍手が続く。
それとは正反対に、司の顔は涙で歪んでいた。涙を堪えようと必死に歯を食いしばって、鼻水を啜って、それでもこぼれ落ちる大粒の涙を必死に腕で拭う。
足りなかった。洗練されたスケーティングも、皆を飲み込むような表現力も、けれど、それでも、
基礎点が、足りない。
「くやしい」
「うん」
「勝ちたかった。1番になりたかった」
「うん」
くやしい、くやしい、くやしい‥!
「俺は、金メダルがほしかった‥ッ!」
「わかった」
いのり先生が、屈んで目線を合わせる。
俺のの握りしめた拳を、両手で包み込む。
先生は俺に視線を合わせて、まっすぐな瞳を向けた。
ただひたすらに俺を見つめる。先生の瞳の中には、泣きじゃくってる俺が写っていた。
「私が、あなたを金メダリストにするよ」
力強い声だった。
凛としていて、逞しくて、まっすぐな声だった。
よかったって思った。俺のコーチが、この人で本当に良かったって。
これが、俺といのり先生の金メダリストへと至る出発点だ
服の袖で涙を拭いながらキスアンドクライへ向かうと、そこには夜鷹純がいた。
得点発表が終わればすぐさまその場を立ち去る夜鷹純が今もなおいるなんて珍しい。ついさっき”倒すべき相手”と見定めた元憧れをこんなにも近くで見れるとは思わなかった。これまでの自分であったらきっと尊敬の目で彼を見つめていたと思う。
しかし、今の自分は彼をそんな目で見れなかった。
倒すべき目標、自分にとっての最大の敵であり、目指すべき頂点。
それが今の、夜鷹純に対する司の認識である。
「ねぇ、君」
だから、思わなかった。
「‥え?」
「うん、そう。君」
誰に対しても興味を持たず、他の選手の演技なんて一切見ないような彼が、
「君、なに?」
まさか、自分に話しかけてくるなんて
「演技、みたよ」
「へ!?!」
「それで、君はなに?」
「‥‥???」
い、言ってることがなにもわからない!!
あの夜鷹純が自分の演技を見ていたことはもうものすごく嬉しい。だって誰にも興味のない夜鷹純が、自分の演技を見てくれていたんから。
そしてだからこそ質問の意味がまったくわからない。なんだこの質問は!も、もしかして罵倒されてる‥?ものすごく下手くそだったって遠回しに言われてたりするのか‥!?
「に、人間です」
「そうなの?」
「うん‥」
「太陽だと思った」
「‥‥?」
今回滑った曲はReel Around the Sun、日本語で訳すると”太陽を巡るリール”だ。
華やかでありながら力強く、心を震わせるような曲。だから司もより大胆と大袈裟に、しかし繊細な演技を司は心掛けていた。
それに準えて彼は「太陽」と言っているの、か‥?
「僕だけの太陽が、リンクに落ちてきたんだと思った」
彼の深い黒色の瞳が、じっと俺を見つめてくる。
鷹のように鋭い目であった。どうしてだか体がゾクゾクと震えて、その目を逸らしたくなる。
けれど、今の彼は俺の倒すべき目標だ。ただ見られているだけで怖くて目を逸らすなんてしていたら、何年経っても彼にスケートで勝てないことだろう。
だから真っ向から見つめ返した。
状況は依然としてよくわからなかったが、負けたくない!という気持ちが司の中にはあった。
「まってる」
「‥?」
「ジュニアでまってるね」
それだけ言って、彼は背中を歩きだす。
それがどうしてだか許せなくて、彼の背中に向かって思わず叫んだ
「追い抜かすから!絶対に、君を!!!」
一瞬だけ彼は立ち止まって、こっちを振り返る
「早くきてね、”司くん”」
「少しだけ待ってて、”純くん”」
『明浦路さんの得点・・・112.50
現在の順位は 第2位です』
「司くん」
「いーらーなーいー!純くんいっつも食べなさすぎ!自分の分くらいはしっかり食べないと」
「‥?司くんたくさんご飯食べるよね。はい」
「別に自分の分だけで大丈夫!というか、ただ単に純くんがご飯食べたくないだけでしょ」
「あの二人、仲良しさんだよね〜」
「司くん。純くんのお母さんみたい」
3泊4日、ジュニアGPシリーズに挑む選ばれた強者のみが参加できる強化合宿。
ノービス大会にてしのぎを削ったライバルたちや、今現在すでに世界で戦っている日本選手など、未来のメダリスト候補たちが集まる特別な合宿だ。
司は今回強化選手Bとして、この合宿に参加していた。
そして、この合宿には彼もいる
「唐揚げ、食べないの?」
「いらない」
「‥‥ムリ?もう食べれない?」
「うん。無理」
「‥仕方ないなぁ」
しかたがないので、彼の代わりに司は唐揚げを食べてあげた。
決して唐揚げが食べたかったわけじゃない。ただこのまま捨てられる唐揚げさんが可哀想だっただけだし。最近は食品ロスとやらが問題になってるから、少しでも捨てられる食べ物を減らそうと貢献しているだけだ。うん。
今現在、司はこうして彼と昼食を共にしていた。ちなみに朝ごはんも一緒に食べてる。
合宿初日、司はてっきり純くんと会話をすることはないだろうと思っていた。だって純くんだ。他の選手に興味がなくて、いつも一人で練習してるって他の子から聞いた。
キスアンドクライで彼と話ししたけれど、きっと彼は覚えていないだろう。覚えてたとしても、本当にただそれだけだと思ってた。まさか彼と普通に会話するとは思わなかったし、共にご飯を食べるときが来るなんて微塵も思っていなかった。
今この状況に1番驚いているのは、間違いなく司自身だろう。
そんなことを考えていたら、突然純くんが席を立った。
「純くん、どうしたの?」
「滑りに行く」
「‥え!?今から!?もうたくさん滑ったじゃん」
「滑り足りない」
「ちょ、滑りに行くとしてもせめて汗ぐらい拭わないと!服も髪もびちょびちょじゃん」
手持ちのタオルで純くんの汗を拭ってあげる。純くんはされるがままで、じっと俺のことを見ていた。
少ない時間だけれども、純くんと一緒に行動していくつかわかったことがある。
まず最初に、純くんはご飯が嫌いだ。
嫌いな食べ物:食べ物、らしい。言ってる俺も正直あんまりわかんないけど、とにかく食事っていう行為自体が嫌みたい。食べるくらいなら滑りたいって純くんは言ってた。
確かに俺もそう思ってしまう日があるけれど、それにしたって純くんは異常だ。
今日の朝だって、目玉焼きをひと齧りしただけで箸を置いたのだ!白ごはんもソーセージもお味噌汁だって残ってる。あんな小さなひと齧りでお昼まで体が保つとは思えなかったし、そうでなくても俺なら絶対にお腹が空く。
「‥はい、どう?だいぶ拭けたと思うけど」
その次、純くんは雑。もうすっっごい雑!
興味がないともいえるかもしれない。
純くんはスケートには一生懸命だけど、それ以外は適当だ。ご飯は疎かにするし、こうやって今も汗だくなのに滑りに行こうとする。風邪をひいてしまいそうで心配だ。
「行くよ」
「‥?いってらっしゃい」
「‥‥?ほら、早く立って」
「‥なんで?」
「一緒に滑らないの?」
そして、純くんは何故か俺のことを気に入っている。
「いや、滑らないよ!?」
「どうして?」
「いのり先生に言われたから。練習のし過ぎは体に悪いって」
そう伝えれば、どこはかとなく不満げな顔をした純くんが俺に詰め寄ってくる。
「その先生よりも僕の方がスケートが上手だよ。それなのに僕じゃなくて、その先生の言うことに従うの?」
「だって、いのり先生は俺のコーチだもん」
「僕の言うことを聞いた方が上手くなるよ」
「俺は、いのり先生のこと信じてるから!先生は、俺を金メダリストにしてくれるって言ってくれたから。だから俺は、先生を信じるよ」
純くんは首を傾げた。
まるで俺が言っていることが、すべて間違っているみたいな反応だった。
「その先生は嘘つきだね」
「は、」
「司くんは一生金メダルを取れないよ。だって勝つのは僕だ。ずっと」
幼児に常識を教えるみたいに、彼は言う。
彼にとって勝利は当たり前だ。これまでの全ての大会で、その金メダルは彼の首下にぶら下がってる。純くんにとってそれは当然のことで、それ以外はありえない。
自分が負けるなんて1ミリも思っていないのだ。
それが酷く残酷で、同時にかっこよく思えてしまった。そう言い切ってしまえる実力が、羨ましくて仕方がなかった。
でも、
「ジュニアGP、俺が勝ったら撤回して」
「‥?」
「先生のこと、嘘つきって言ったでしょ。それを撤回して」
「無理だよ。君は僕に絶対勝てない」
「ちがう!‥‥俺は、いのり先生と一緒に純くんのことを倒す。それで、いのり先生が嘘つきじゃないってことを証明する!」
ジュニアGP、そこで俺は純くんを倒して金メダルを勝ち取る。
今の俺は弱い。純くんとは圧倒的な差があるから、言葉では勝てない。俺が弱いせいで、いのり先生が嘘つき扱いされる。
悔しくて仕方がない。
弱い俺が悔しい。もっとスケートが上手くなりたい。
「不可能だ。僕が勝つのは絶対だし、君の先生は君を金メダリストにすることはできない」
「‥もういい!純くんなんてしらない!!」
このままだと永遠に言い争いが続きそうだし、一方的ではあるけれど下剋上はできた。
疲れた体を休めるためにも、早く歯磨きをしてお風呂に入って寝る。純くんとこのまま言い合ってても、きっと時間の無駄だから。
それに、いのり先生に言われたことはしっかり守らないと!
俺が純くんに背を向けると、突然右腕を掴まれた。
「な、なに!?」
「どこ行くの?」
「自分の部屋だけど」
「‥なんで?」
「‥なにが?」
「一緒に滑らないの?」
「もー!だから滑らないって言ってるじゃん!!」
「司くんと純くん、ほんとに仲良しさんだね〜」
「ね〜」
夜鷹純のスケートは、美しい。
綺麗で美しくてかっこよくて仕方がない。その場にいるすべての人間の視線を奪って、独り占めして、視線を逸らすことができない圧がある。
一挙一動が艶やかで勇ましくて華やかで、同時に静かで繊細で丁寧。誰もが憧れるスケートで、そしてそのスケートができるのはきっと夜鷹純ただ一人なのだろう。
どうやったらあんなに綺麗に三回転アクセルが飛べるんだろう。体の捻り方はどうなってるんだろう。足の使い方は?着氷の瞬間はどうなってる?衝撃をどうやって抑えてる?
見る、見る、見る。彼の指先から足先まで、彼の表情を、彼のスケーティングを。
現状、俺と純くんの間には圧倒的な差がある。どれもが彼に比べて劣っていて、未熟だ。
だからこそ、この合宿で少しでも彼に近づく!
そのためなら、敵である彼の滑りを”見て盗む”ことだってやってやるんだ。
俺は、彼に勝ちたくって仕方がないのだから。
夜鷹純が飛ぶ瞬間を思い出せ
体制はどうだった?足は?目線は?体は?スピードは?
勢いをつける。体勢を整えて、前を向く。
彼の、夜鷹純のジャンプをなぞるように、角度を、軌道を、スピードを、思い出せ。
‥たしか、こう
「ッ三回転アクセル!完璧!!」
いのり先生の声が聞こえた。
完璧、うん、完璧。‥自分でもわかった。
これまで飛んだどれよりも、今のジャンプは完璧だった。
‥‥‥あ〜、もう!悔しい!悔しいけど、純くんって本当にすごい!!!
絶対に超えてやる。彼をあっと言わせたい。今の俺のこの気持ちを、いつか彼にも味合わせてやりたい!!
飛んだあの感覚を忘れないように、何回も何回も思い返す。
「ねぇ」
「うわぁ!?」
声が聞こえた方向を咄嗟に振り返ると、ものすごい至近距離に純くんがいた。ずっとあの感覚を思い返してたからまったく気づかなかった‥び、びっくりしたぁ‥‥‥。
「な、なに?」
「見てて」
一言それだけ言うと、純くんは凄まじいスピードでリンクを駆け巡る。
突然のことに頭が追いつかない。とにかく目で彼を追う。それだけで精一杯だった。
純くんはさらに加速して、ジャンプの体制に入る。
一体体制を崩さない。完璧な回転速度、完璧な動作
完璧なタイミング。
そして、
そして、軽々と4回転をしてみせた。
「‥‥4回転フリップ!?」
どこからか、そんな声が聞こえふ。
少なくともそれは、12歳がするジャンプではない。だって大人であっても、そんなに容易く飛べるような代物ではないのだから。
完璧な4回転フリップ。大会本番ならきっとGOE満点。そう言い切れるほどに完璧すぎたのだ。
純くんは何も思っていなさそうな顔で俺の元へ戻ってきて、そして俺の顔を見て、
「見た?やって」
リンクを指さして、ただ無慈悲にそれを言う。
俺たちのやりとりを聞いていた人たちが口々に「無謀だ」「不可能だ」「ジュニア世代の子ができるわけがない」とひしめく。彼らは信じられないような目で夜鷹純を見ている。天才とかそんな容易いものではない。まるで、バケモノを見るような目立った。
そして同時に、俺に対する憐憫の目。こんな化け物にこんなことを言われて可哀想だ、みたいな気持ちが明け透けだ。
‥わかっている。そんなことは。
冷静な俺ならきっと、無理だよって言っていたのだと思う。ジュニアGPが控えている今、下手なマネをして怪我を負うのは最も避けるべきことだ。
けれどその時の俺は、それはもうものすごい気持ちであったのだ。感情が嵐みたいにぐるぐると渦巻いていて、自分で感情を抑えることが一切できなかった。
一目見れば俺ができると思われているって事実が嬉しくて、夜鷹純の天才具合を肌で感じて悔しくて、倒すべき敵である彼の催促を断ることなんて出来るわけがない!!
彼の”やって”の相槌代わりに、思いっきりリンクの上を走り出す。
思い出せ。
たしか、このくらいのスピード。すごく速くて、周りの景色が次々に流れ去っていった。全身に当たる風が熱った体を冷ましてくれる。
思い出せ。
ジャンプの体制は、たしかこう。
回転速度は?どのタイミングで体を捻る?思い出せよ俺。
だって、今飛べないわけにはいかないだろ。
不思議と緊張はしない。そんなことよりも、彼を見返したいという気持ちの方が大きかったからだと思う。
思い出せ。
無我夢中だった。
4回転を飛ぶ際の最大の難点はこの瞬間だ。タイミングを少し待ち構えるだけで崩れ落ちる。
まだ、まだ、まだ、まだ。
____この瞬間、体を開いて着氷。
衝撃を殺せ。降りろ、降りろ、降りろ降りろ降りろ降りろッッ!!!!!!!
ダァンッッッ!!!!!!!
着氷を知らせる轟音が、スケートリンク場全体に響き渡った。
氷が飛び跳ねる。場が静まり返った。
誰も彼もが、信じられないような目で司を見つめた。
そんな視線にも気づかず、司はゼェゼェと息を荒げながら膝に手をついた。
飛べたという感動よりも、4回転フリップという未知の領域へ踏み込む恐怖が今になって襲いかかってくる。足も痛くて、体力もギリギリ。
体がひたすらに酸素を求めていて、必死で息を吸って、吐いて、それでもろくに頭が回らない。
「できたね」
唖然と、顔をあげる。
いつもと全く変わらない純くんが、じっと俺を見つめていた。
鷹のような目だと、漠然と思った。
「ハァッ、ハァ、ハァッ、フーッ‥‥できたよ、純くん」
GOE満点とは程遠いギリギリのジャンプ。
でも、それでも、たしかに俺は飛んでみせた。
4回転フリップ。大人のプロだって飛べないことが多いあのジャンプを、俺は、
「うん、見てたよ」
「君に、‥‥絶対に、勝つから」
クラクラする。チカチカする。
視界が朦朧として、思わず近くにいた純くんにもたれかかる。
彼は容易に俺を受け止めて、支えるような体勢をとった。そのままリンクの端まで俺を連れて滑る。
もうまともに滑ることもできない。足がジンジンととにかく痛む。心臓がうるさくて仕方がない。周りの音をかき消すほどに、鼓動がやけに鮮明に聞こえる。
遠くの方からいのり先生が駆け寄ってくるのが見えた。そうじゃなくても、近くにいた他のコーチの人たちが次々に寄ってきて‥‥、頭痛い‥‥‥。
「司くん、僕たちお揃いだね」
「‥?」
なにが?
そう聞き返そうとしたけど、口がまともに動かない。
崩れ落ちるように床に倒れ込み‥そうになったけれど、純くんが俺の体を支えてくれた。
相変わらず動かない体を必死に動かそうと試みる。どうしてか、彼の顔が見たくて仕方がなかった。
あ、やばいかも。
けど、視界はだんだんと黒く染まっていく。何も見えなくなっていって、頭がまともに機能しない。
最後の力を振り絞って、なんとか見れた彼の顔は、
嬉しそう恍惚に、笑っていた。