テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
司は逃げていた。
必死に逃げて、逃げて、突然目の前が真っ白になって。
「……あぇ?」
何故ここに。さっきまで暗闇を走っていたのにと司は瞬く。ゆっくり起き上がると、学校に居た。
「学校……?」
学校だ。もっと言えば、覚えのある小学校だ。廊下に面した席は、自身の苗字が五十音順でも一番最初の文字だから、小中高全ての学校で年度が変われば必ずその場所に居た。
夕方なのか、教室はフィルターが掛かったかのような茜色で染まっている。
「うらじー何やってんだよ」
「え…」
「もう卒業式始まるぞ!行こうぜ!」
聞こえてきたのは懐かしい声だ。視界に入ってきたその姿も。それもそのはず、自身も、懐かしい友人も、記憶の中のまま目の前に居るのだから。
記憶の中の、幼い姿で。
中学は住んでいる区によって自然と行き先が分かれたため、目の前の友人だった人物の姿は小学生までしか知らない。それは司自身にも当てはまり、低い視線、高い声、手を見ればびっくりするほど弱々しく柔い手のひらで。
「そ、卒業式…?」
「何だよ寝ぼけてるのか?」
「俺らは来年だから、今からよく見とけって先生うるさいし寝てると怒られんぞ」
「今から寝溜めか!?」
「あ、いや、え…?」
「……どうしたんだよ、うらじ。具合悪い?」
うらじ、とは、昔に友人たちから呼ばれていたあだ名。声も、姿も、空気も、場所も。全て、全てが懐かしい。
懐かしいが故に、まるで昔に戻ったようだと感じるのだ。
ここは、今は──────────何年だ?
鼓動が逸る。だって、何度も考えたことだ。あの頃に戻れたらと。たくさん願って、でも有り得なる事の無いただの願い事として諦めて、前を向いた。
だが、今はどうだ。何故こうなったのかはわからない。夢かもしれない。ただの幻覚かもしれない。
それでも、もしこの記憶を持ったまま、今からでもスケートに挑めたら。
「……大丈夫、すぐ支度するよ」
「ならいいけど。無理すんなよ」
「疲れてるのかも」
「だよなぁ」
何でもない様に荷物をまとめて、人の群れへ溶け込む。心臓は相変わらずうるさく、友人たちの声を拾っても右から左へ流れていく。
明浦路司、27歳。
現在、9歳。
夢のような謎現象の中だというのに、頭の中はスケートのことでいっぱいだった。
あの日のことを実はぼんやりとしか覚えていない。
死んだ瞬間だからだろうか。ただ、とても悲しい思いをしたのを覚えている。その悲しさから、痛みから、必死に逃げ出すように走っていて、
その先で司は─────────
「ッ、ハァッ、ハァッ……!」
夢。そう気付いて安堵し、大きく息を吐く。汗が滴り、起き上がって拭うとそのままフラフラとベッドから離れた。
あれから2年。
この現状こそが夢では無いかと思ってから2年だ。今年から中学生になる。未だ司は懐かしい子供部屋で目を覚ます。
時刻は午前4時。空は夜明けを待っていた。そんな空の下、司は日課のランニングから朝が始まる。
走りながら、先程まで見ていた夢を思い出す。恐る恐る足を止めて振り返ると、誰も居ない。安堵して、自身のやるべき事に思考を切り替え足を踏み出した。
2年の間、様々なことを考えた。
最初は夢心地もあって、やりたいこといっぱい出来る!!スケートできる!!と年相応にはしゃいでいた司だったが、それはすぐに消え去った。寝ても醒めても終わらない過去の追体験。それが続いてようやく司は、これまずくないか?と正気になり始めた。周りは司のように前の記憶なんて無く、知り合いも司が一方的に知っているため初対面はすごく違和感があるものばかり。
何より、前の世界で俺は、と思い出す。
司は死んだ。交通事故だった。その先から記憶が無いので、恐らく死んだ。もしくは今が走馬灯なのだろうか。だとしたら随分ゆっくりな走馬灯である。司以外誰も歩んできた記憶が無く、これから出会う人たちもそうなのだろう。スケートを通じて出会った多くの人たちが、司には思い出や経験があっても、その人たちには無い。ここで出会っても、それをなぞっていく違和感。それが酷く、寂しく孤独に感じた。それでも時は過ぎてゆく。頭がおかしくなりそうだったが、何とか呑み込めるようになってきた今日この頃。それでも未だ呑み込めないこともある。
まず、いのりのこと。あの子を導ききれなかったとずっと後悔する日々だった。優しい子で、積み重ねてきた絆は深いものだ。それだけは自負している。だからこそ、きっとたくさん泣かせてしまっただろう。何より、自分がいのりの成長の妨げになっているかもしれないと思うと心臓がキリキリ痛かった。何で自分は今ここに居るんだと絶望した。いのりとの年齢差を考えるとまだこの世に生まれていない。例え時が過ぎて会いに行ったとしても今の司ではただの不審者だ。
教え子と言えば理凰もそうだ。心を開いてからはあんなに懐いてくれていた。根は真面目で優しい子。たくさん悲しませてしまっただろうなと心痛再び。
そして加護家には本当に申し訳ないことをしてしまった。羊さんは大丈夫だろうかと司は頭を抱えた。母親と家族同然で育ってきた司を幼い頃に失って、心の傷は深まるばかりだろう。耕一にも返しきれない恩ばかりが残って、更には仇で返してしまった。ここが芽衣子も居る天国ならとっくに殴り飛ばされてもおかしくないのに。
あと、ひとりは────────いや、これはやめておこう。思考がその人物を拒否した。
何故自分はここに居るのだろう。何故自分だけ記憶を持っているのだろう。前の人生が夢だったのではないか?明浦路司と言う人間の夢を見ていて、今が現実なのではないか?もう訳が分からなかった。
そうやってグルグル考えて、考えて、どうにも出来ないからスケートしよう!と開き直ってしまった。
そうして始めたのは、基礎体力の向上。今現在、絶望的にヒョロヒョロな身体を鍛え直すことに全てを費やした。
当然である。小学生はフィギュアスケートにも出会っていなかった時期だ。元の大人だった背丈や筋肉はもちろん、スケートのために培ってきた何もかもが感じられず、片足で立つことすらままならない己の体の脆弱さに絶望したのは仕方ないだろう。
また一から身体をつくりなおす。それは容易なことではなく、そもそも体が急に成長するわけでもない。コツコツ積み上げるしか無い日々に焦りが出る。
それに加えてリンクの上を滑ることも今の司には容易ではない。中学生の身では稼ぐことも難しく、記憶の中でもお小遣いは高校生からだった。
当然、親の理解と援助が無ければスケートは出来ない。とにかく金がかかるのは前の人生で嫌という程わかっていた。それを承知で親に頼み込み、最初こそどれどれと両親はフィギュアスケートのことを調べ。
そして、許可が降りることは無かった。
必死に頼み込んだけども現実的に無理だと親に申し訳なさそうに言われ、尚押せるほど司の中身が子どもで無かった。こればかりは今の自身の状況が憎かった。
4人全員男兄弟の家にそんな余裕が無いのは、働いて食い繋いできた司だからこそよく理解していた。その上、就職もせずフリーターのまま、成績も残せないまま、スケートを続けていることに前の人生で親が呆れていたのを今でもよく覚えている。申し訳なさと、悔しさで涙を飲んだ日も数え切れないほどあった。
例え数年早まったとしても相変わらず出遅れもいいところの歳。学業優先の義務教育であることもあって、スケート以外のことに時間を食われる日々。
誰にも応援なんてしてもらえるわけがない。そもそもこんなことに意味があるのだろうか。そんな不安に押しつぶされながら、司は前のように、ひとりで積み重ねるしかなかった。今まで散々して来たことなのに、全てが無になったのは中々心にクる。前の記憶が更に司を追い詰めていた。
毎日ランニングに筋トレ、柔軟、本を買ってバレエの基礎からジャンプの練習、その他諸々。なのに未だ、リンクに乗ったことは無い。
焦りが出る。自分はまだこんな所に居るのかと。前のように氷の上に立てるのはいつになるのか。不安にもなる。
それでも。
『いよいよ、冬のオリンピックが近づいてまいりました。注目はやはり、金メダルが期待されるフィギュアスケートでしょうか』
「…………」
『全出場大会の金メダルを有している異例の記録保持者、夜鷹選手の活躍が期待されています』
ラジオから流れてくる言葉に少し心臓が浮くような気になる。
そう、あれから2年。司が初めて出会ったフィギュアスケートが行われる大会が、もうすぐ始まる。
夜鷹純。
フィギュアスケートをやっている者で知らぬ者は居ないであろう。この世界でも相変わらず遠い場所に居た。テレビの向こう、記者たちの取材をフル無視する傍若無人ぶりも相変わらずで思わず笑ってしまった。代わりにコーチが色々と答えているが、このコーチも夜鷹にとっては出場するためのツールでしかない。それを知るのは関係者や司くらいだろう。
コーチ時代。未来で出会う運命の少女、いのりを導く存在として奮闘していた時のことを思い出す。夜鷹純のコーチを一度務めた人と話したことがあった。
その人の話通り、夜鷹にコーチは必要無い。ひとりで全て完結し、実行出来る力がある。誰の力も借りることなく、今もそれを続けているのだろう。
氷の上でしか生きることの出来ない強く美しく孤独な獣───それが彼だ。今世も変わりなく。
そんな彼が、1人の人間であることを司は知っていた。知っていたが、あまり思い出したく無い。
この世界でそのことを知るのは司のみ。誰に話すでも無ければ、分かち合うことなど出来ないと諦めていた。
「あ…この曲……」
ラジオからリンクを滑るブレードの音と、夜鷹の過去のプログラム曲が流れていた。恐らく今テレビをつければ、夜鷹が滑った過去の映像が流れているのだろう。その振りも覚えている。
ランニングの途中だが、近くの公園の隅に入ってそのプログラムの振り付けを踊ってみた。
流れている曲と合わせて動き、ジャンプもする。3回転は案外と、簡単に出来た。リンクの上だったらなぁと考えていると、ラジオは次の話題へ移ってしまい、曲は無くなった。
残念、と思いつつも、振り付けを最後までやり通したい。頭の中で流れる曲で充分だと続ける。
「……ねえ君!」
するとその時。
女性の声にそう呼びかけられ、驚いて振り向くと、見覚えのある人が居た。
「君、フィギュアスケートやってるの?」
「ぁ……」
「あ!私怪しい者じゃ無いのよ!私、加護芽衣子と言います!」
出会うのは今じゃないはずだ。
何故ここに、と司は言葉が出ない。
「家が近所にあってね、散歩してたらたまたま見かけて、あんまり綺麗だから思わず……私、フィギュアスケートの大ファンで…今3回転飛んでたよね!?」
「っ」
「えっ」
「すみ、すみませ…」
涙が止まらなかった。
司の記憶で、一番最初に応援してくれた恩人。儚くなってから彼女への感謝を忘れることは一度も無かった。
「大丈夫!?どこか痛かった!?」
「いえ、いいえ…ッ!えへ、褒めてもらったの、初めてで」
「あらっ、そうだったの!?」
泣いている理由を何とか誤魔化す。芽衣子はそうだったのねと微笑んでティッシュを差し出してくれた。相変わらず優しい人だとありがたく受け取る。
司は芽衣子と共に公園のベンチに座って言葉を交わした。
自身がフィギュアスケートにハマったのがつい最近であること、親の許可は降りず、1人で陸での練習ばかりしていること。
芽衣子の前では不思議とスルスルと出てきてしまう苦労話を終えると、ハッと我に返る。
前の人生で司と加護家との関わりは決して浅いものでは無い。むしろ大恩人だ。だからこそわかる、彼女が次に言わんとしていることが。
「なら、今度一緒にオリンピック行かない!?」
「……へ?」
前言撤回、突拍子も無かった。
目をぱちくりさせる司に芽衣子は続ける。
「実は、一緒に行くはずだった友達が急に行けなくなっちゃってね。夫も一緒なんだけど、誰か誘いたいなーって思ってたところなの!」
「オリンピック…」
「お金はもちろん私が出すし、親御さんに許可が必要だけど……生の夜鷹純、見たくない!?」
時期が時期なのはそうなのだが、まさかそんなお誘いが来るなんて思わなかった。
前の人生では支援をしてくれていて、そのおかげで司はリンクの上に居た。今世もお世話になるわけには、と思っていたのだが。
何より、夜鷹純の一ファンとして、そんなことを問われれば司が答えられるのはただ一つだけ。
「見たいです…!!!」
そんなわけで。
「ひゃー!会場ひっろーい!」
「あっち近道じゃないか?」
「加護さん、そっち関係者通路です!芽衣子さん!離れないでください!」
「「はーい!」」
この人たちは相変わらず、と司は苦笑しながらも、司は人で溢れかえるオリンピックの舞台となるスケートリンクに居た。
あの後、トントン拍子に話は進んだ。
親の許可は割かし簡単に取れて、わざわざ芽衣子が挨拶に来て司と共に言ってくれた。
反応はまあ、そこそこ。はあ、へえ、とボンヤリしたものだった。まだ諦めて無かったの?と言わんばかりの視線にも耐えて。見に行くだけなら良いでしょ、とうまーく軽い感じに見せれば簡単に許可が下りた。実際は激重だけども。
そうしてやってきたオリンピック。
会場は人で溢れており、あちこちに目が移る加護夫婦とはぐれないように司が何とか手網を握っている状態だ。はしゃぐ芽衣子の姿に、これから生まれてくる少女の面影がしっかり感じられて涙腺にきそうになったのは余談である。
芽衣子によって夫でありこの先司にとっても大恩人となる耕一にも出会ってしばらく。妻から突然男子中学生(そこそこデカイ)を紹介されたと言うのに、相変わらず懐が広いのか緩いのかわからない寛大さで特に警戒されることも無く受け入れてくれた。司は耕一の前でも号泣して大丈夫かと心配されてしまった。
またお世話になってしまったと思う半面、今回のオリンピックは前の人生では見られなかった生の選手が見れる誘惑に勝てるわけもなく。なんたって、現役の夜鷹純はこの機を逃せば一生お目にかかれない。前の人生で液晶越しで見た後に引退してしまいどれだけ落胆したか。
今回だけ、今回だけ……!と司は唱えながら、2人の手を引いて会場を進んだ。気分はさながら引率の先生である。
「うわぁ……!」
「すごい人数、さすがオリンピック!」
会場は人で埋め尽くされており、司たちの席はスタンド席だ。少し遠いがリンク全体を見れることは良い点である。今からあの氷上で世界最高峰の技術芸術が披露されることに期待感が募るばかりだ。
改めてオリンピックに来られたことの奇跡に加護夫婦へ頭が上がらない思いだった。道中何度もそう言っているせいか、耕一がいいからいいからと司の背中を叩くのも何回目だろう。
「子どもが遠慮しないの。せっかく来たんだから楽しんでよ、ね?」
「そうよ〜!もうすぐアップ始まるんじゃない?」
そうだった、と司は流されるしかない。自身はまだ中学生。時々体の年齢と頭の年齢に言動が引っ張られて感情がごちゃごちゃになる時があるわけだが、確かに今は加護夫妻が司の保護者だ。いや前もだけども。
いずれ絶対に恩返しを、と思っていると、選手がアップのために入場してきた。歓声が凄まじい。
リンクに放たれた氷上の美しい獣たちの中でも一際目立つ黒が目に入り、凄まじい歓声が上がる。司も思わず持っていたパンフレットを握りしめて食い入るように見つめた。
夜鷹純がそこに居た。
「………」
「司くん?大丈夫?」
「は、い。大丈夫です」
「やっぱり本物が目の前に出ると違う?」
「はい……カッコイイです」
司の表情は穏やかで、少し寂しい。
誰も寄せつけない威圧感がこちらまで伝わってくる。懐かしいと思うのは司だけだ。同時に、やはり自分は長い夢を見ているのかもしれないと言う不安。
過去に戻ってから司のように前の人生の記憶を持っている人間には出会わなかった。そして、過去の大まかな出来事は記憶に沿って起こるも、必ずしも司の知る結末を迎えるというわけではない。常に未来は揺れ動いているということなのだろう。
まさに人生をもう一度歩み直しているわけだが、出会う人物たちを一方的に知っていると言うのは、どうしようも無い孤独感が拭えない。
その中でも、夜鷹は司にとって特別な存在だ。この後の人生に大きく関わってくる憧れで、好敵手で、
何より、前の人生で最後に一緒に居たのは─────
「あ!ジャンプ!」
「!」
鋭い滑走音と共に夜鷹が宙を舞う。重力など感じさせない軽々とした着氷に、拍手が巻き起こった。
「4回転よね、今の……!」
「はい、すごいっ!」
「よく飛ぶなぁ〜」
完璧な4回転Lzだが、その更に上を司は知っている。
記憶の中にある夜鷹は今より更に進化していたのを思い出した。現役を引退してから表舞台から姿を消したと言うのに、その技は洗練され、キレが増していた。さながら研ぎ澄まされた刀剣のような美しさは今でも司の脳裏に焼き付いている。
とは言え、目の前の夜鷹も確かに素晴らしい実力だ。何より、衣装がカッコよすぎる。魔王とも見間違うような漆黒は本当によく似合っていて、思わずカッコイイ……!と司も見とれてしまう。スパンコールが氷と照明に反射して、夜の中の星が弾けているようだった。
この現役姿は終ぞ生で見ることは叶わなかっただけにファン魂が歓喜してやまない。これを見る為だけに戻ったのかもしれないと思うほど。
どちらの夜鷹純を知る司としてはこれほど贅沢なことがあるだろうかと涙が出そうだった。
その後も夜鷹がジャンプを飛ぶ度に歓声が上がり、時間が過ぎてアップは終了。選手たちはリンクから上がって、いよいよ演技に移っていく。
「さあ、いよいよだね……!」
「はい……!」
いよいよオリンピックが幕を開ける。その歴史的瞬間の目撃者になれることを、司は噛み締めていた。
***
「ぅう゛〜ッ!ズビッ、うぐぅぅ……!」
「泣きすぎでは?」
「ティッシュ使って〜」
「ずび!あい、ありひゃほうございばす……」
全ての演目が終わった。
夜鷹純はやはり司にとって神様だった。圧倒的で見る者全てを畏怖させるような超高難易度の驚異的なプログラムは、前の人生で初めて見た時の衝撃を遥かに超えるもので。正に日本スケート界の大スターたる所以を間近で見ることが出来るなんて、これが涙せずに居られるだろうかと司は鼻をすする。
流石、オリンピックは世界を舞台にした選手たちにとっては夢の舞台。見応えが有りすぎると司は感涙にむせぶ。どの選手もこの舞台の為にどれだけの心血を注いだのか計り知れない素晴らしい演技だった。
しかし、残酷にも頂点を飾れるのはたった1人。
そしてその1人は、世界に出ても変わらぬ無表情で、その席に当然のように君臨した。
「表彰式始まるよ!」
芽衣子の言葉に涙を拭いて、リンクの中央にセットされた表彰台に目を向ける。いちばん高い表彰台に立つ夜鷹の姿に思わずニッコニコになってしまうのは致し方ないだろう。周りからの大歓声と祝福の声をフル無視しているのは相変わらずだが。
メダルを首にかけられている姿を見ながら、司は祝福もそうだが、無性に氷上の上を滑りたくなっていた。今すぐあの振り付けを踊ってみたい、飛んでみたい、と。しかし表彰式はちゃんと目に焼き付けておかねば……!と大歓声の中拍手を送っていた。
「……?」
気の所為だろうかと司は瞬く。
──────────なんか、
「……なんか、こっち見てない?」
「夜鷹純こっち見てない?」
「────────」
耕一と芽衣子の言う通り、夜鷹がこちらの方向を見ていた。
何故。何を見ているのだろう。そう思い辺りを見回す。周りの観客も同じようで、何をそんなに凝視しているのかと気になっているようだった。
ひと通り見回して何も無いことに首を傾げ、再び表彰台に目を向ける。
「え」
その瞬間、 脳裏にあの夢が蘇る。
「……っ、」
「司くん?」
目が合う。あの目と。満月のように丸くなった目が、司を凝視していたのだ。
司の姿を射止めるように、探るように──────────まるで、あの夢の中を覗いているかのように。
「ト、トイレ行ってきます!」
「えっ、」
「すぐ戻ります!」
司はその場から逃げ出した。あの時のように。あの夢のように。
その背中を鋭く見つめる視線には、気付かないフリをした。
一度目の人生で司は、事故で死んだ。
どうしてそうなったのか。それは、夜鷹が大きく関わっている。
司は、夜鷹と恋人だった。だった、である。過去形だ。
きっかけは何だったか。
慎一郎から誘われて度々夜のスケートリンクで会うようになった司と夜鷹は、回数を重ねていくうちにスケート以外でも接点を持つようになった。いのりの参考にするため夜鷹の技術を取り入れていく成長速度、優しい人柄でありながら言うことはハッキリ言う度胸もあって、あの夜鷹に真っ向から向き合い寄り添う姿勢は慎一郎からも度々感謝されるほど相性が良かったとも言える。自分はやりたいようにやっているだけだと司は思っていたし、夜鷹自身も本当にただ口下手なだけで内心は割かし人の心があるのだと気付いてからはその意思を汲み取ろうとする姿勢で居た。その姿は夜鷹の心を徐々に開かせていった。
それがまさか、恋人と言う関係になろうとは誰が予想出来ただろうか。司も青天の霹靂である。
夜鷹との仲がある程度親密になった頃、色々あって夜鷹の家を尋ねた司は、そこでパクリと喰われたのだ。スケート一筋できたため未だ童貞であったがまさか先に処女を失う派目になるとは思っていなかった司だが、あの夜鷹純と……?ワンナイト……?と呆然としていた。夜鷹からは付き合って、と簡潔な告白を受けて更に呆然としてしまう。
順序がおかしい。普通に強姦では……?と一応言うと、受け入れたのは君でしょう。僕のこと好きじゃないの?と言われれば頷くしか無かった。そりゃ、憧れの大スターだし。最近それだけで無くなったのはたしかにそうだけど、まだそこまで育った心では無いのにそんな自信満々に言われたら、ねぇ。
その返事に満足したらしい夜鷹は少し微笑んで、もう1回、と司に覆いかぶさった。夜鷹純に性欲とかあったんだと疲労でぼんやりしたまま思ったのを覚えている。
その後から夜鷹とは直接連絡を取り合い、恋人らしいことをするようになった。その中で夜鷹純も人間なのだと気付かされることも多く、それがいつしか愛しく感じるようになった。前よりもはっきり恋をしていた。夢みたいだなと思うが、司の隣で胸を上下させて寝息を立てる姿が現実だと教えてくれる。
そして当然夜の行為もあるわけだが、意外なことに、ビックリするくらい優しく丁寧に司を抱く。一度、女性ほどやわでは無いので好きなように動いても良いですよと提案した時は、眉間に皺を寄せた夜鷹にやっぱり優しく丁寧に、それはそれはねちっこく抱かれて悲鳴をあげることとなった。
何故こんなに丁寧なのかと理由を聞くと、スケートが出来なくなるのは困るからと、司を気遣っているようだったらしく。それは素直に感謝するほかない。ちゃんと愛されていると胸の内が暖かくなった。
しかし、ある日それは終わりを告げてしまう。
いのりの好敵手である光のコーチを降りると夜鷹が告げ、氷上からも降りたのだと知らせを聞いた時は、何の冗談かと思った。慎一郎から連絡が付かないと言われ、心配そうな声色に司も心配になり連絡を取ったが繋がることはなく。
そう思っていた矢先、夜鷹がコーチ業から上がった司の前に現れた。いつものように煙草の煙に包まれ、何を考えているのかわからない表情で。夜に紛れているような風貌は、よりいっそう黒を深めたように感じた。何かあった、と言うのは明白で。
慎一郎が心配していると伝え、どうしてコーチを降りたのか、氷上を降りたのか、問いただそうとしたが、夜鷹は司の話を聞く気は無いようで、手を掴み自家用車なのか高そうな外車に放り込むとそのまま押し倒してきた。必然的に見下ろされ覗き込まれたその目はいつも事に及ぶ流れそのもので、こんな所で、いや今そんなことしてる場合ではとパニックになり司は止めるよう言うが、夜鷹は聞く耳を持たない。他人から見られる可能性だってある。ちなみにここまで終始無言だ。
さすがの司もこの状況には腹が立ってきた。いくら口下手と言ってもこれはあまりにも暴力的だ。意図してこちらを傷付けてやろうとしているかのような寒気を感じるのだ。
何故、と。そう問い質しても答えてくれないならば、力でどうにかしてこようとしてくるならば、こちらもやり返すしかない。
そもそも体格では司の方が勝っている。押さえ付けてくる夜鷹を押し退け、逆に押し倒してやると、シートの凹凸に背中をぶつけたのか痛そうに表情が歪んで申し訳なくなる。しかし、今ばかりはそんなことを気にしていられない。
教えてください、と司は言う。しかし夜鷹は黙りで、やがて小さく言った。
『別れよう。君にはもう飽きたよ』
司は言葉を失う。犠牲、犠牲と繰り返していた夜鷹がそう言ったのだ。その目は前のように冷たくて、司は体から力が抜ける。同時に、ああそっかとわかってしまった。
夜鷹は司も犠牲の一部にようとしている。
こうやって切り捨てていったのか。そうやって邪魔なものを削って削って、全て捨てて──────そうして己も。湧き上がるのは、悲しみ。当然である。気付けば見下ろす夜鷹の頬を濡らしていた。
『飽きた、ですか』
『うん』
『今まで優しくしてくれたのは、嘘だったんですか』
『そうかもね』
『……俺は、嘘じゃないと思います』
『その時はね。今はもう君にそういった感情は無いよ』
静寂の中、容赦の無い言葉は鋭く司の心を抉った。泣け無しの自尊心さえすり潰される。更に追い打ちをかけるように夜鷹は続けた。
『君が僕の氷上に居たら違ったのかな』
夜鷹に散々言われた、現役に復帰しろと。なにそれ、と司は呟く。スケートを認めてくれるのは本当に嬉しい。でもそれは、司と言う人間を見てくれている訳では無かったと言われているようだった。
こんなことなら復帰すれば良かったのか。そう問われれば否である。いのりのことを理由になんてしたくなかったし、それこそ司の選んだ道だった。愛してくれているなら、それを理由にしなくてもいいじゃないか。
そんな司の全てを無視する傲慢な言葉に、司もついに心が途切れてしまった。
『……もういいです』
司は逃げ出した。夜鷹がどんな反応をしていたかは見ていないからわからない。しかし、追ってくることは無かった。
涙が止まらなくて、視界が滲んだまま走っていた。いつもみたいに走っていれば落ち着けると思ったが、全然そんなことなくて。
それでも数多くの挫折を知る司は、いずれ収まるからと走り続けた。才能に見放されても、氷上に上がることを許されなくても、夜鷹に切り捨てられても。絶望は一時のもので、明日は来るし腹は減る。悲しくても、痛くても、それは時間が解決してくれるから。
そうやって飲み込んできた。そうやって乗り越えてきた。だから、今回も。
そう思った次の瞬間、滲んだままの視界が白く染まる。
司の記憶はそこで途切れている。
今になって思えば、あまりに心に余裕が無いと本当に周りが見えなく(物理)なってしまうんだなと。
恐らく、車道に飛び出したのだ。自動車に轢かれたのだろう。あの白い光は車のライトで、体が一瞬、燃えるような痛みに襲われたのを少しだけ思い出して身震いする。
「はぁ〜ぁ……嫌なこと思い出しちゃったなぁ」
むしろオリンピックまで思い出さないでファン補正だけで見てこれた方が凄くないかとため息を着く。忘れていたわけではない。ただ、あの出来事は未だに癒えていないからこそ、自己防衛で奥底に隠していただけなのだろう。
司はオリンピック会場から抜け出して、ホテルに戻って来ていた。耕一と芽衣子とは別で部屋を取っているので、遠慮なくベッドに沈むとギシリとスプリングが鳴った。司の心境もそんな感じだ。
何で自分を見てたのだろう。
あの時、たしかに目が合った。と言うか、表彰台からスタンド席はそれなりに距離があるため、意図的に見ていなければ目が合うことは無い。当然、今の人生で夜鷹と接点などあるわけが無い。あれは本当に自分を見ていたのだろうか。
気の所為か?と司は自意識過剰を疑ったが、あの猛禽のような目を思い出して唸る。たしかにあの目は、司をとらえていた。
ならばいったい何故。まさか自分と同じように記憶があるのか。そうだとしたら普通捜しに来ないか?と考えたあたりで司は思い出す。
「……そうだった。捨てられたんだ、俺」
夜鷹にとって司は犠牲にしても良い人間だった。それだけだ。我ながら女々しくて嫌になる。諦めることには慣れているはずなのに、失恋ばかりはどうしようも無く時間がかかるらしい。まあそれでもいいか。もう関係の無い、起こり得ない終わった世界のことだ。
自嘲気味に笑って、この話はもうおしまいと切り替える。せっかく素晴らしい演技を見たと言うのに勿体ない。過去に囚われるのは良くないと前の人生で嫌というほどわかっているのだから。
すると、スマートフォンが震えたのに気付いた。手に取ると芽衣子からの通話で、応答ボタンを押す。
『あっ、良かった司くん!今オリンピック閉会して退場したよ〜』
「すみません、勝手に出ちゃって……」
『ううん!お腹大丈夫?』
どうやら会場から出たらしい。心配をかけていることと、嘘をついていることを心苦しく思いつつも、トイレの後人が多くて帰れなかったのでホテルに居ると伝えた。
芽衣子はいつもより弱々しい司の声色に、何かあったのだろうと察してくれているのか、何も聞かないでくれている。ホテルに居るなら良かったと笑ってくれた。
そうして、司は無事元の生活へ帰って行った。
帰った後も変わらず陸で体を鍛える日々が続いて、ひとつ違うことと言えば、芽衣子がスケートリンクに誘ってくれることだろうか。
司の熱意を知った芽衣子から誘われた時は、また貴方たちに負担をと申し訳なく思ったが、耕一とのやり取りを思い出してその申し出に是非とお願いした。自分を大切にしてくれていた耕一やこれから出会う羊との思い出は、決して後ろめたいものなんかでは無かったから。
何より、芽衣子との時間は限られている。彼女の未来を司は知っている。健康に気を遣ってほしいと日頃から言うのも限界があるし、病気のこともあってかオリンピックでの遠出で最近体調を崩していた。病気の詳細など聞いていなかったため、司に出来るのはそれくらいで、恐らく前の人生のような結末を辿るのだろう。
それならば、せめて芽衣子に報いたい。一番最初に応援してくれた貴方にメダルを持っていきたい。司はそんな思いを抱くようになった。
「動画?」
「はい。滑っているところをコーチの人に見せて、出場の手伝いだけでもお願い出来ればと……撮影をお願い出来ますか?」
「……!うん、私に出来ることなら任せて!」
腹を括った、と言う面持ちの司に芽衣子は力強く頷いた。
もっとやれることを、全てやってからでなければ諦めたくない。この体は子どもでも、前の人生の積み重ねがあるのは事実。見つけて貰えないなら、見せつけるしかない。司は文字通り、腹を括ったのだ。
春休みに入っていた司は、平日の開場時間からスケートリンクに芽衣子と共に来ていた。耕一は企業した会社が忙しいらしく、帰りは迎えに行くからと言ってくれた。ありがたいことだ。
今回芽衣子にお願いして向かったリンクは、都心から少し離れた場所にある。開場に合わせて入ると、やはり2人が一番乗りだ。数分経っても他の人が入場する気配も無く、これなら広々滑れると司は気分良く貸し出しシューズを履いてリンクに入る。久々の氷に胸が高鳴った。やりたいことがいっぱいある。
「芽衣子さーん!ちゃんと暖かくしてくださいね!」
「はぁい。大丈夫よ、ありがとね」
「体調キツくなったら遠慮なく言ってくださいね」
「ふふ、司くんたら私のお母さんみたい」
「もう、芽衣子さんてば」
リンクサイドのベンチで司の服も着せられ、モコモコになっている姿は羊と重なる。親子なんだなぁと、今の司でなければわからない光景に涙が出そうになるが、堪えて。
クスクス笑う芽衣子に軽く返して、司は氷上を蹴る。練習風景もついでに撮ってほしいとお願いしたので三脚を構える芽衣子を確認して、準備運動から。
「………………」
芽衣子は司がきちんと滑る姿は初めて見る。初心者、だよね?と口をあんぐり開けてしまう。
目の前で滑っているのは先程まで母親のように芽衣子の心配をしている司とは別人なのでは無いだろうか。そう思わせるほど、雰囲気がガラリと変わる。水を得た魚のように、その表情は心地良さそうだった。
あ、飛ぶ。氷上を蹴る時くらいしかわからないほど雑音の無い滑走音が助走に入り、トウピックで蹴った音が響いた。
「……うそ、」
見間違いでなければ、4回転。芽衣子にジャンプの種類まではわからなかったが、飛んだのは4回転Lzだ。更にはコンビネーションで3回転Tまで。綺麗な着氷は司の体幹を物語っていた。世界でも最高難易度のジャンプを、目の前で軽々と。
そのままフライングキャメルスピン。着氷したばかりなのに軸はブレず、中学生でありながらそれなりにある身長故か、足の長さが際立つそのスピンは力強く美しい。
まるで熟練の選手のように熟れたスケーティング。複雑且つ滑らかなステップは、あの夜鷹純を見た時よりも惹き付けられる。とてもリンクに数回しか乗ったことが無いなんて思えなかった。
しばらくそんな技の連続を呆然と見ていると、司がリンクサイドに戻ってくる。
「芽衣子さん、撮れてますか?」
「と、れてるけど、司くん」
「?、はい?」
「ほ、本当に初心者…?」
「……あはは!普段から陸でしっかり基礎は固めてましてし、イメトレが上手くいったみたいです」
「基礎とイメトレだけでこんなに滑れるものなの……?」
「まあまあ。細かいことはいいじゃないですか。次、曲かけながらやりますので撮影お願いしますね」
「……うん!」
何だかはぐらかされた気がするが、芽衣子もそれ以上追求することは無く。次は曲をかけてプログラムをひとつ踊るらしい。と言っても、貸切では無いため音楽プレーヤーから流すのみだ。リンクの真ん中で操作して、ポケットにしまう。
すると、演技を開始するポーズをとる司に芽衣子は息を呑む。
夜鷹純の、オリンピックのプログラムだったからだ。
まだ帰ってきて数日しか経っていない。それまでにリンクに来たことも無い。なのに、史上最高難易度と言っていいプログラムを滑る気なのか。そもそも覚えているのか、それを体で再現など可能なのか。
芽衣子は、もしかしたら今すごい現場に居合わせているのではないかと胸が高鳴っていた。ただ一人の目撃者として、まるでオリンピック会場に居るかのような緊張感と期待感のなかその行方を見守る。これから凄いことが起こるのだと。
やがて、曲がかかる。
「司くん!司くん!!」
「うわ、何ですか芽衣子さ……」
「きた!!連絡!!コーチから!!」
「!」
それから一週間ほどが経った。
いつもの待ち合わせ場所で芽衣子を待っていると、病気がちだと言うのに走ってきてそう言うのだから、司も思わず拳を握る。それに続けて息を切らしながら芽衣子が続けた。
「あと、その他のコーチっぽい人たちからもコメントが来てるの!」
「コメント?」
「撮影した動画を耕一さんが編集して音楽ちゃんとつけて、それを動画サイトに投稿したら、もうコメントたくさんきて!」
「ええー!?何してんですか!?俺、まずはルクス東山だけでいいって、」
「そんなんじゃもったいないって、耕一さんが言って……」
「あの人は〜……」
芽衣子に撮ってもらった動画を編集してもらい、ルクス東山FSCに所属を持ちかけようと試みた。クラブに所属しなければ基本的に大会出場はもちろんバッジテストすら受けられない。そして何より、フィギュアスケートは莫大な金額がかかる。金銭の交渉はそこから何とか、と司は考えていた。
今までは自身がコーチであったため、そんな虫のいい話が早々まかり通るわけ無いとわかっていたし、何より仕事としてきちんと支払いが無いことに申し訳なさが勝っていた。
しかし、腹を括った司は今の自身の姿を利用することを決めた。非常に心苦しいが、フィギュアスケートへの熱意ならば何歳だって、それこそ子どもと変わらない。だからセーフだ。そう言い聞かせて、金銭の交渉に挑むつもりだった。
そもそも、出来ることならば高峰匠に直接頼めればそうしたかった。しかし今現在神奈川に居るため、中学生でひとり暮らしなどできるわけもなく。自分が今何も無いただの子どもだと言うことを痛感しつつも、それならばとルクス東山にしたのだ。
ルクス東山の今のヘッドコーチは、後のヘッドコーチとなる瞳の父親である匠の友人がやっているはずだ。そこから匠と繋がれないかと思いまずはジャブ程度にと頼んだはずなのに。
耕一の世話焼きというかお節介は相変わらずだが、芽衣子もノリノリだったのだろう。呆れる司の反応を気にせず、ほら!とパソコン画面を見せてきた。題して、”夜鷹純のオリンピックプログラム踊ってみた”。そのまんまだが、近い将来動画サイト流行る懐かしい定型文だった。
この時代だとまだガラケーが主流で、スマホは普及し始めたばかり。これからどんどん便利に進化して、動画投稿サイトが覇権を握る時代がやって来る。
会社を企業して様々な業種に手を出している耕一らしいと言ったらそうだが、問題はその視聴数だ。
「見てこれ、あげたの3日前なのにもう30万再生!」
「さ……ッ!?」
芽衣子が指さす場所、再生数の欄は確かに30万を超えている。仕事をしながらの編集だったとは言え4日で仕上げてくれた動画はつまり一日10万再生されていた。いくらオリンピックブームと言えど、そんなに?と司は瞠目する。そもそも動画サイトの利用者が少ない時代のはずなのに。
「コメント欄もすごいの!」
「…………」
スイスイと指を動かし画面がスクロールしていくと、動画のコメント欄にはたくさんの賞賛の声が。同時に、彼は何者なんだと司のことを探る様子も見られた。
ノービスでもジュニアでもこんな子見たことない。これだけ上手ければ強化選手でもおかしくないはずだ。等々、色々と書かれている。
その更に下に行くと、是非スカウトしたいと言うクラブコーチからのコメントも複数あった。もちろん、全てが本当に実在する人物なのかは分からないが、司の滑りを一度見てみたいと言っている。
「それでね、ルクス東山からも電話来たの」
「!」
「是非、一度滑りに来てほしいって!」
やった!と思わず声に出てしまったのは許して欲しかった。
そうしてやって来た、懐かしのルクス東山FSC。
記憶より新しいつくりの施設を新鮮に感じながら、芽衣子は体調を考慮して遠出は控え、今回はひとりでやってきた。
ここからが勝負だと意気込む。土下座もするし靴でも舐めてやるつもりだ。何とか、何とかして氷上に立たなければ。司には時間が無いのだから。
よし、入ろう。
そう意気込んで踏み込んだ瞬間、前方から人が来る。
真っ黒な装いで、サングラスをかけて、まるであの夜鷹純のような───────
「ねえ」
体が強ばる。覚えのありすぎる声だ。顔を上げると、夜空に浮かぶ月のような目と目が合った。世界を見下ろす目が今、司だけを見ている。
「じ…、」
言いかけて、口を噤む。何故、夜鷹純が目の前に。体が固まって動かない。持っていたバッグを抱きしめて、何とか足だけ後退る。
脳裏に甦るのは死に際の記憶。あの目が、あの顔が、あの口が、司の全てを否定した。
「ねえ、聞こえてるでしょう」
「っ、は、ひ、」
一歩、また一歩と近付いてくる度に司も同じだけ下がっていく。目はそらせない。そらした瞬間に捕まると、何故かそう思った。それほど夜鷹の目が爛々と揺らめいていて、威圧感に息をすることすら躊躇う。
三歩ほど下がったところで、自動ドアが開く音がした。あの時と同じだ。司は背を向けて走り出そうとした。
「つかさ」
「え」
今なんて、と振り返った瞬間。
「わっ、」
「…つかさ…つかさ……」
夜鷹の手が司の腕を捕らえ、強く引かれた。そのまま腕の中に閉じ込められる。ぎゅう、とキツく抱きしめられている。香る匂いはまだ煙草を吸っていないためか夜鷹本人の清潔感ある匂いで、煙の臭いが無い。その上、今は背が低く夜鷹を見上げることが酷く違和感だ。
そんなことを思っていると、何度も名を呼ばれた。この時代、2人が知り合うことなんて無かった。夜鷹が司の名など知るはずもないのに。何故。どうして。
頭は混乱していたが、どうも夜鷹が弱っているように見えた。まるで迷子の子どものようなか細い声で何度も呼ばれてしまうと、司も思わず前の人生の時のように背中に腕を回して優しく撫でてしまう。あんなに酷いことをされたのに。ピクリと夜鷹の体が揺れた気がした。
「じゅんさん……?」
そう呼ぶと、夜鷹が司から少し離れて目と目が合う。驚いたように目を見張る様子に、あ、まずい、と司は今度こそ我に返る。
ドン、と夜鷹を強く押したが、腕を掴まれたままで逃げられない。
「は、放してください!」
「待って、司。君やっぱり、」
「人違いです!!」
「もう少しマシな嘘ついたら?」
「…放してください」
「嫌だ」
間違いないと確信した。
夜鷹も、司と同じように前の人生の記憶がある。
オリンピックで目が合ったのは、気の所為ではなかったのだ。だとしたら、死に際の記憶も夜鷹にはあるはずだ。
どうせ俺は手放してもいい存在のくせに。
そんなことを思うも、夜鷹は相変わらずの無表情で司の腕を掴んだまま。何を考えているかわからない。いくら振っても引っ張ってもビクともしない。そりゃそうだ、司は今中学生。子どもの力でどうにかなるわけが無いと諦めた。
「はぁ……もういいです」
「っ、」
「?、い、痛い、夜鷹さん?」
ため息をつくと、ぎり、と腕を掴む力が強まった。痛みを訴えるほどに。
司の呻きに驚いたのか、夜鷹が思わずと言った様子で腕を放す。すぐさま距離をとると、無表情が少し曇った。気がする。前の人生で夜鷹の恋人をしている間、その表情や声色から何となく心情を察する事ができるようになったが故の気付き。
これはもしや、傷付いているのだろうか。何故。分からないことだらけで先程から心臓が落ち着かない。
「……純って呼んでたでしょ」
「……………とりあえず、今日は俺も用事があるので、」
「純って呼んで」
「話は後でしま」
「純」
今呼び方なんてそんな重要かな!?と司は思いつつも、一線は引きたいと考えていた。死に際の記憶がある以上、その時まで持ち合わせていた情に振り回されるのは御免だった。
とは言え、諦めるのには慣れている司である。この先関わらなければ良い話だ、今は適当に呼んでおこうと諦めた。
「純さん」
「ん」
「貴方にも記憶があるんですね」
「うん」
なんてこった、よりによってこの人かよと司はまたため息が出そうだったが先程強く腕を握られたことを思い出して飲み込んだ。
「一度ゆっくり話す必要がありますよね。俺はこれから用事があるので、別日に待ち合わせませんか」
「……その必要は無いよ。司の用事は、僕も付き合うから」
「は?」
「ああ、来てたんですね!明浦路くん!夜鷹選手も!」
それはどう言うことだと聞こうとしたその時、リンクのある方から声をかけられ振り返る。恐らくルクス東山の現ヘッドコーチの男性だ。
すぐさま頭を下げる司に続いて、夜鷹も小さく会釈する。夜鷹が居ることに驚いていない男性を見るに、知り合いなのだろうか。考えていると、奥からもう1人出て来た。その人物に見覚えがあって、司は目を見張る。
「しょう先生…?」
「ん?俺の事を知ってるのか」
「あっ、いや、は、はい!コーチを捜していたので、お、お名前だけ…っ」
「そうか。本当にひとりでやって来たんだな」
「は、はぃ……」
どうしよう泣きそうだ、とバッグを抱きしめて堪える。まさかこんなにすぐに会えるとは思わなかった。
前の人生で、唯一司を諦めずにスケートを教えてくれた人。厳しくも自身を導いてくれた人にまた出会えたことに喜びが隠せず思わず視線を下にする。あまり凝視していると本当に涙が零れ落ちそうだ。
そんな感極まった様子の司に夜鷹が面白くないと言わんばかりの顔になっていたことなど露知らず。
「あ、あのっ、今回はどうして、しょ…高峰先生がここに?」
「うん、とりあえず中においで。こちらも聞きたいことがたくさんあるし、夜鷹選手も居るのだから」
「は、はい!お世話になります!」
「素晴らしい。礼儀正しい子ですね」
ヘッドコーチの先生が司と夜鷹をリンクへ促す。わざわざ貸切にしているのか、人の気配が無いと思ったら本当に人が居ないのだ。夜鷹が居るのはそのためかもしれない。
なんて贅沢な…!と感心していると、靴はあるかと聞かれて首を横に振る。ええ?と先生たちは驚いた。
「靴、持ってないの?」
「じゃああの映像は貸靴で滑ったってのか!?」
「はい」
「……そりゃあ、何と言うか」
唸る2人が司の事情に気付いたのがわかってしまう。貸靴であれだけ滑れることはともかく。自分の靴を持っていない、それはつまり親からの援助が無いと言うことだ。
フィギュアスケートはとにかく金がかかる。レッスン費用だけではない、そもそもスケートリンクと言う環境が特殊すぎて、その環境を揃えるのに莫大な金額が必要なのだ。親の理解と経済力が無ければ子どもひとりではどうしたって解決できない。だから司は頭を下げに来たのだ。
「うちは4人兄弟で、親に相談しましたが断られました」
「そりゃ確かに、キツいな…」
「ですので、お願いに来ました!どうか、援助して頂けないでしょうか!!」
「いいよ」
「え!?……え!?夜鷹さん!?」
なんか横から返事がきた。思わず下げた頭を上げて夜鷹の方を向くと、首に腕を回され引き寄せられる。むぎゃ、と呻きコートに埋もれたまま見上げると、先程と同じ爛々と光る目が司を見下ろしていた。やはり見上げることに慣れなくて顔を赤くしてしまう。何せべらぼうに顔が良いのだこの男。そんな司に夜鷹は何処か嬉しそうで。
一方、先生たちはあの夜鷹が自ら他人に接触を測ることに驚きを隠せない。物理的な接触は当然、その表情は見たことが無いほど穏やかで優しげだ。
「純、その子と知り合いなのか」
「……まあ」
「ちょ、夜鷹さん!?」
「そうだったんですか。スケートを教えていたとか?」
「ううん」
「夜鷹さんてば!」
「純て呼んで」
「〜っ、純さん!」
「なに」
夜鷹が他人とじゃれ合っている。しかも歳下の子どもと。いや、どちらかと言えば夜鷹の方が子どものように見える。司が大人びているだけかもしれないが、子どもに振り回される大人のような構図に見えるのは気の所為だろうか。それだけ2人の間に気安さが垣間見えて、夜鷹の人間味を初めて見た。
「なにじゃないです、とんでもない額ですよ!?」
「誰に物言ってるの」
「そうではなくて!とても個人ではいどうぞって渡していい金額では無いと言ってるんです!」
「……君は本当に中学生かい?」
「はい!今年から中学生です!」
「今まで小学生だったのかよ……純より余っ程しっかりしてんな」
高峰の言葉に先生は苦笑している。20歳になるメダリストにだいぶ容赦の無い物言いが出来るのは元コーチの高峰だからだろう。夜鷹は割と刺さっているのか視線を逸らした。
とは言え、夜鷹が本気で言っているのならそれだけ司に見込みがあるという事だ。
夜鷹はフィギュアスケートだけは絶対に妥協しない。厳しい世界をたったひとりで頂点に立った者。コーチは取っかえ引っ変え、所属クラブも転々とし留まらず、文字通りひとりで歩んできたのだ。それがどれだけ非現実的で厳しい道のりかは以前近くで見てきた高峰がいちばん分かっていた。その歩み方は、多くの人間を遠ざけ孤独であることも。
そこへ現れた司と言う少年。高峰は、あの映像を見て驚愕を通り越して感嘆した。
あれだけの技量でノービスにもジュニアにも見たことの無い顔だと言うのが信じられなかった。夜鷹とそっくりな滑りでありながらその夜鷹よりも洗練され更に上を行くスケーティング技術、表現力。ジャンプも4回転Lzを降りている。何故この少年がこの年齢でこちらの世界に居ないのか困惑するほどだった。
「もう、放してください」
「やだ」
「ちょっと、旋毛押さないで!」
「うん」
「聞いてます!?ちょっと!」
「…………高峰さん」
「……………………なるほどな」
夜鷹のコーチをしていた高峰は、夜鷹の様子がおかしいことに気付いていた。現在進行形でおかしいのは置いといて。
正確にはオリンピックが終わってからか。何かをさがすような様子が多くなった。何をさがしているのか聞くと、オリンピック会場で見かけた太陽みたいな子、と。
だから、あの映像を見た時にピンと来た。この少年ではないかと。
誰よりも輝く才能を持ちながら、誰にも見つけて貰えない太陽。あの映像にはそんな少年が映っていた。夜鷹と似ていると思った。スケートだけでは無い。誰もがその輝きを畏れ、頂点に奉ることで遠ざけられた月。夜鷹と違うように見えて、同じだと思った。
夜鷹が言うように、ここで潰えて良い才能ではない。夜鷹の気持ちもわかる。だからこそ、冷静に考えなければならない。高峰はため息をついて夜鷹を見やる。
「純。司の言うことは最もだ。いくらメダリストとは言えお前は他人を養うほど器用じゃない」
「………………」
「何より、夜鷹くんの知名度はフィギュアスケート界だけでなく世界に轟いています。そんなスターが何の実績も無い司くんに目をかけているともなれば、色々な障害になりかねません」
最もな大人の意見に夜鷹は眉間に皺を寄せて黙り込む。司もそれに頷いていた。前の人生でコーチをやっていたからわかる、などとは言えないが、有名になる、強い選手になると言うことはそういうことなのだ。有名税、なんて言われたりもする。
「司、だったな」
「はい」
「頭のいいお前だから言う。援助を受けるということは結果を求められる。俺たちからも、関係の無い人間からも。その覚悟があるか」
「あります。俺は、オリンピックで金メダルをとります」
即答する司に、高峰は息を呑んだ。まだ中学生の子どものする目では無い。子どもが夢見る輝かしい目標だとか、そんなものではない。もっとギラギラと獲物を狙う、勝負の世界を知る獣の目。いいね、と高峰は笑った。
「良いだろう。金はこっちで何とかしてやる」
「あっ、ありがとうございます!!」
「ただし、親御さんにはきちんと言うこと。手紙を今から書くから、それを添えて説得しろ。理解は得られなくても、許可は必要だ。できるか?」
「やって見せます!ありがと、ごじゃいましゅぅぅ〜!!」
「泣かないでよ…」
先程の鋭さから一転、年相応の子どもの目に戻り、ポロポロと涙を零す。緊張が解けたのか止まらないそれを夜鷹が服の袖で拭っているのが何とも言えない光景だ。妙に手馴れていると言うか、夜鷹に世話焼きな一面があったとは。先生は良かったですねと微笑んでいた。
やがて涙が止まると、今度は夜鷹が顎を司の頭に乗せてグリグリと圧をかけていた。痛いですと悲鳴をあげる司だが、諦めているのか振り払ったりはしない。本当に目の前に居るのは夜鷹なのかと高峰の表情は引き攣っていた。
「何で機嫌悪いんですか……」
「うるさい」
「そう言えばさっきは有耶無耶になっちゃったけど、君たちどこで出会ったの?」
先生が思い出したように言う。先程は話が転々としてしまったため聞けなかったからと、今一度聞かれた司は、ええと、と頬をかく。夜鷹は好きにすればと言わんばかりの顔で答える気は無いようだった。
「まぁ……随分と前ですね……」
当然、濁すしか無い。言いたくないのかな、と先生は気を遣ってくれたらしくそれ以上追求は無かった。すみませんこればかりは……と司は目を逸らした。
何はともあれ、目的は達成した。このことは芽衣子と耕一にも知らせてたくさん御礼を言わなければ。あの2人とこれから生まれてくる大切な子に、今世こそ恩を返したい。応援を結果で返せることに酷く安堵した。
だから、司を氷上へ引きずって歩く前の人生の恋人のことは一旦見ないことにできないかな……と少しの現実逃避をするのであった。本当に何でこの人に記憶があるんだろうか。
こうして、司の第二のスケート人生は幕を上げたのである。
つづきはがんばれたらがんばります(小声)
後書きのようなもの
お久しぶりが新ジャンルって流れ何回目でしょうか。許してください。メダリスト見事に沼りました。ちなみにフィギュアスケートはまっっったく知らん。
才能一点特化社不×秀才型自己肯定感底辺は最高だぞ。なんぼあってもいい。
適当な設定↓
全巻読んでファンブックも読んだけど年齢が確かで無い人も居るのでその辺の矛盾があっても許してください。また時系列も同様にお願いします。
多分続くとしたらシリアスぶってるけどギャグになります。辛いの最近書けない。
司くん(28歳→9歳)
元恋人夜鷹に捨てられ無我夢中で走ってたら車道に飛び出しお陀仏。気がついたら逆行して9歳になっていた。
最初は夢かな〜程度に思っていたが日常が繰り返される中で現実かもしれないと気付き、前世のことをしばらく引きずるも今の人生を生きることを決意した。自分のことだととことん後ろ向きなので踏ん切りつけるの時間かかってそう。頑張れ司くん。
夜鷹のことはまさか覚えているとは思わず対応に困っている。前世のような恋人扱いはやめてほしい。しかし夜鷹には甘いので漬け込まれる。かわいそう。
夜鷹純(36歳→20歳)※2025/5/23追記
公式から年齢出まして慎一郎先生と同い歳となりましたのでその情報を基準に書こうと思います。後から書き足したので矛盾があったら……見逃して!!心の目で見てください!!
記憶が戻ったのは、実はオリンピックで司を目にした時。正確には例の動画を見た時。オリンピックではあの金色を知っている気がすると随分遠い場所にも関わらず司を見つけ、その日から夢で記憶の断片を見るようになり、動画で何もかもを思い出す。
コミュ障なので人間関係が壊滅的に狭く完結している。司ほどコミュ力が高くないと扱えない赤ちゃん。コミュ障なだけで割と中身は人の心があるし司のこともちゃんと好きだと思う。これからどうなっていくのやら。
加護夫婦
司の大恩人で第二の家族。今世でも司のことをとても可愛がってくれている優しい人たち。
司は一生をかけていのりのコーチをすると言ったが同時に一生をかけて加護家に恩を返すと決めている。今度こそ金メダルを芽衣子の首にかけたいと司は頑張っている。
司先生が死んだ世界
司が本来歩んでいた世界。多くの人が悲しみにくれ、弟子はスケートを滑ることすらままならなくなるほど落ち込むが、いずれ司の墓前に金メダルが2つ置かれる。彼の教え子は強く育ち、大勢の優しい人たちに守られているよ。
彼が亡くなった後、彼と恋人だった人は行方不明となった。