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チャイムの音が、遠くで鳴っていた。それが何時間目の終わりか、すぐには分からなかった。
ノートの端に、同じ漢字をずっと書き続けていた。
意味もなく。意識もなく。
ただ手が動いていた。
「……終わったぞ」
隣から日下部の声がした。
優しい声だった。
なのに、体のどこも反応しなかった。
「……ああ」
自分の口から出た声が、自分のものに聞こえなかった。
感情のない音。
そこにあるはずの温度が、欠けていた。
(なんでだろう)
頭は動いている。思考もできる。
だけど、胸のあたりが、からっぽだった。
痛みも、怒りも、泣きたい衝動も──どこにもない。
あの夜、あんなに泣いたはずなのに。
声が枯れるまで叫んだはずなのに。
何かが「残っている」はずなのに──何も、なかった。
(たぶん、俺の中で、どこかが切れた)
それがどこなのかも、もう考える気力はなかった。
教科書を閉じて、立ち上がる。
日下部が少しだけ顔をのぞかせたが、何も言わなかった。
(気づいてるんだろ、どうせ)
「帰るわ」
そう言って、鞄を肩にかけた。
「一緒に行くか?」
「……今日は、いい」
本当は、日下部の隣を歩いていたかった。
本当は、あいつの声が欲しかった。
でも。
(近づいたら壊れる)
自分で何度も繰り返したその言葉が、今も耳に残っていた。
あいつに触れたいと思った瞬間。
あいつを欲しいと思った夢の夜。
──それを、「自分の罪」として処理したのは、他でもない、俺自身だった。
(感じると、壊す)
(だから、感じなきゃいい)
それが答えだった。
階段を下りていく足音の中で、誰の声も、どんな視線も、自分の皮膚の奥には届かなかった。
ただ、歩く。
無音の靄の中を、ゆっくりと。
──壊さないために。
その夜、蓮司のメッセージには気づいていたけれど、開かなかった。
“逃げ場”が必要だった。
たとえそれが、感情を捨てることだとしても──
そのときの遥には、それしか方法がなかった。